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主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と天上天下唯我独尊と公理主義
小魚骨さんの『レオ・シュトラウスとカール・ポパーの対話』と
乃依さんの「実存」問題の両方に関係するので、新しいスレッドにします。
(1)主観的価値の既になされた行動における絶対性。
すべての人の、そのすべての行動は彼の主観的価値の絶対的実現である。
「絶対的」というのは決断され、行動によって実現された後には、他の選択はあり得ない、ということを意味する。
「すべての行動」には自殺も含む。自殺をする、しないは彼の主観的価値の実現である。
絶対的隷属状態において、自殺をしない、息をすることを止めない、というのも彼の主観的価値の実現行動である。
(2)主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義
すべての人の、そのすべての行動は彼の主観的価値の絶対的実現である。
というテーゼは二つのテーゼを生む。
(a)主観的価値絶対主義:私は私の行動において、私の主観的価値を絶対的なものとして扱えばよい。
(b)客観的価値相対主義:私は私の認識において、人々の行動に含まれる主観的絶対的価値は客観的に見れば相対的なものであると見る。
(a)はレオシュトラウスの立場、乃依さん、愚民党さんの立場。(b)はポッパーの立場、如往さん、たけ(tk)の立場であろう。
論理的には、どちらも「正しい」。ここで言う「正しい」というのは、その世界内での論理的破綻を来すものではない、ということ。
(3)天上天下唯我独尊
ブッダの思索はこの「主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義」のアポリア(難問)から始まる。
「天上天下唯我独尊」というのは釈迦の誕生の直後に宣言した言葉とされている。その現実的な意味は、ブッダの思索の原点がこのアポリアにあった、ということを意味する。
「天上天下唯我独尊」というのは文字どおりの理解では主観的価値絶対主義の宣言である。
しかし、同時に、それを明確に宣言することにより、主観的価値絶対主義の相対性を白日のもとに晒してしまう。
すなわち客観的価値相対主義を気づかせるための宣言するものでもあった。
(4)《禅定》の方法による直接知
アポリアとは、論理的には解決できない問題。ロゴスの方法によっては、複数のロゴスの世界が成立してしまうがゆえに、それぞれのロゴスの世界が自らの唯一性を主張できなくなる。すなわち、ロゴスの論理=無矛盾性による世界の正しさの証明=によっては、自らの正しさを証明できなくなる、ということを意味する。
アポリアが生じる問題の原因は「ロゴスの方法」のほうなのである。ロゴスの方法によって世界を認識したいという欲求のありかたのほうなのである。
欲求を捨てれば無明(誤った世界認識)がなくなると、ブッダは主張する。
ロゴスに方法による世界認識の断念は禅定による直接知による世界認識の道の選択に繋がる。
(5)直接知と言葉
問題なのは、禅定による直接知により、彼がどのように世界を見たのか、である。
彼が見た世界は、言葉によってしか他者に伝えることはできない。言葉の世界は(禅の公案でもないかぎり)ロゴスの世界である。
彼の言葉を概念としてとらえてロゴスの世界として再構成しようとしても無駄である。
彼の体験を、彼の思考様式を我々がトレースして、追体験することによってしか、彼の見た世界を見ることはできない。
しかし、残念ながら、私が体験して見ることになった世界と、彼が見た世界とが、同じであるかは検証することができない。
他者に検証可能な形で伝達することができない、ということが非ロゴス的世界認識の問題点である。
(6)主観的価値絶対主義とブッダ
ブッダは、彼の行動において主観的価値の絶対的実現をした。
彼は、彼の主観的価値に従って、真理を求め、禅定し、他者に自らの知りえたことを伝えた。
しかし、私は、彼の行動に含まれる主観的絶対的価値は客観的に見れば相対的なものであると見る。
私のこのような認識は、私の主観的価値の絶対的実現である。
同時に、私のこのような認識に含まれる私の主観的価値は、客観的に見れば相対的なものである。
(7)主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義の循環関係。
主観的価値絶対主義の見方と、客観的価値相対主義の見方は、同時に成立し、相互に対立し、相互に否定しあう。それは無限の循環関係にある。そのような循環は、ロゴスでは表現できないものをロゴスで表現しようとする欲求から生じる。
《そのようなもの》として理解しておけばよいのではないか?
(8)公理主義。
ところで、論理的に見て破綻を来さない体系が複数あり得る、ということをみとめる立場を「公理主義」という。数学の理論の一つである。
ユークリッド幾何学の体系は無矛盾であるが、非ユークリッド幾何学もまた無矛盾な体系である。
ユークリッド幾何学は「平行線は交わらない」という公理で構成される。それに対して、非ユークリッド幾何学ではつぎのような複数のものが知られている。
http://tron.um.u-tokyo.ac.jp/tachibana/first/05minj/2.html より
分類 ユークリッド幾何学 非ユークリッド幾何学
提唱者 ユークリッド ロバチェフスキー リーマン
(ガウス、ボヤイ)
第5公準 ある点を通る平行線は、 一直線上にない点を通って、 一直線上にない点を通って、
(平行線の公準) 交わらず、 その直線と平行な直線は、 その直線と平行な直線は、
1本しか引けない。 無限に存在する。 一本も存在しない。
* http://ja.wikipedia.org/wiki/非ユークリッド幾何学
* http://tron.um.u-tokyo.ac.jp/tachibana/first/04minj/math.html 数学のパラダイム 平行線公理を中心に
「正しさ」を無矛盾性に求めるなら、どちらも「正しい」。
しかし、無矛盾であることは、その公理が「唯一の」正しいものであることは保証しない。
公理主義は複数の真理体系が同時に成立しうることをみとめる。
真理体系は、いくつかの「公理」によって構成された世界である。
「公理」の選択は、一意的ではなく選択者に任される。
矛盾しない世界を構成する公理の選択による。
その選択は複数可能であり、唯一の正しい公理系が一意に決まるわけではない。
とする。
* たけ(tk)は「平行線は無限遠点で交わる」という射影幾何学が大好きです。
http://www.ise.chuo-u.ac.jp/TISE/kyouyou/1matsuy1995080/
主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義とは、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の併存と同様に、どちらも「正しい」のもとして併存する。
たけ(tk)思うには、主観的価値絶対主義は射影幾何(無限遠点をみとめる)対応し、客観的価値相対主義はユークリッド幾何学に対応しているように見える。
(9)ロゴスによる「ロゴスのアポリアを組み込んだ世界認識」の可能性
「(7)主観的価値絶対主義の見方と、客観的価値相対主義の見方は、同時に成立し、相互に対立し、相互に否定しあう。それは無限の循環関係にある。そのような循環は、ロゴスでは表現できない」と書いたが、「ロゴスでは表現できない」ということは証明されていない。
数学における「公理主義」はロゴスによる「ロゴスのアポリアの表現」なのかもしれない。
デカルトの「cogito, ergo sum」を上記の視点から再構成すれば、ロゴスによるロゴスのアポリアを組み込んだ世界認識が構成可能かもしれない。
まだ、分からない。