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(回答先: 主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と天上天下唯我独尊と公理主義 投稿者 たけ(tk) 日時 2004 年 6 月 06 日 16:48:32)
たけ(tk)さん、今晩は。
スレッド:【主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と天上天下唯我独尊と公理主義】をありがとうございます。たけ(tk)さんがカテゴライズされた内容はexcellentで、概ね肯けるものでした。アジェンダの全てにコメントしたいと思うのですが、現状は準備不足を否めませんので思い付くままのレスになりますことをご容赦ください。
>(a)主観的価値絶対主義:私は私の行動において、私の主観的価値を絶対的なものとして扱えばよい。
>(b)客観的価値相対主義:私は私の認識において、人々の行動に含まれる主観的絶対的価値は客観的に見れば相対的なものであると見る。
>(a)はレオシュトラウスの立場、乃依さん、愚民党さんの立場。(b)はポッパーの立場、如往さん、たけ(tk)の立場であろう。
乃依さんや愚民党さんがどのように受けとめられているか即断はできませんが、私の立場は俗に謂われる価値相対主義ではなく検証過程により重点をおこうとするものです。そうした観点から愚民党さんの場合は主観的価値絶対主義に留まらず恒常的な検証過程の只中にあって、客観的価値相対主義との境界に絶えず接しているか、もしくは頻繁な往来関係にあり、おそらく比率を別にすればそのプロセスで受けとめられているものにはロジカルなものと感覚的なものとの二つの相が存在すると推察しています。けれども、今はより後者が顕在化しているというのが実情ではないでしょうか。
>「天上天下唯我独尊」というのは文字どおりの理解では主観的価値絶対主義の宣言である。
>しかし、同時に、それを明確に宣言することにより、主観的価値絶対主義の相対性を白日のもとに晒してしまう。すなわち客観的価値相対主義を気づかせるための宣言するものでもあった。
誰のどの言説を基にしていつ頃得たものか、私自身のことでは失念していますが、この認識は共有できると感じます。(それは仏陀にとっては生きることと同義であったはずですが)アポリア(難問)に取り組んでいくときの決意表明と見ることができますし、神を十分意識したデカルトの方法的懐疑の起点である「cogito, ergo sum」よりも自在性にたいする信念のようなものが反映されていると思います。
>(4)《禅定》の方法による直接知
これに関する応答が表題:【天上天下唯我独尊、すなわち自己をParameterとして定位(禅定)すること。】になります。これを一神教を基盤にする精神的風土に馴染みの少ない民族が「実存」の煌きを放とうとするときの原初的な手続きあるいはAttitudes形成のモメントになるものと捉えています。
>数学における「公理主義」はロゴスによる「ロゴスのアポリアの表現」なのかもしれない。デカルトの「cogito, ergo sum」を上記の視点から再構成すれば、ロゴスによるロゴスのアポリアを組み込んだ世界認識が構成可能かもしれない。
この再構成は殆ど困難かも知れませんと見ています。人々はデカルトの『方法序説』に神学から解放された近代合理主義の新たな光明を見出しながら、結局は『省察』で裏切られることになるわけですが、今日でもデカルトの周縁はその限界性にたいする批判に応答できてはいないと考えています。
何分にも覚束ない記憶で心許ないのですが、ヘーゲルが『歴史哲学講義』で世界史の生成過程を論じる上で土台となった『大論理学』は微・積分論を援用したものでした。私が世界認識の基軸にFunction&Parameterを据えるのはヘーゲルの影響によるものですが、無論、歴史を絶対精神の自己認識過程であるとは捉えてはいません。
何らかのFormulaを求めて錯誤を繰り返してゆくのも人間性の在り様を叙述しているかも知れないのですし、数あるFunctionに多様なParameterを代置しつつ試行という検証を繰り返していく営為もまた人間性を表象していると思うのですが、私自身は後者を標としていると言えるでしょう。これは宮台真司が多用する入れ換え不可能性及び可能性というキーワードに附合していくものでもあります。
また、会いましょう。