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「私」と「客観的な世界」との関係
http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/570.html
ID9 570 2004/5/23 23:24:01
投稿者: たけ(tk)
へのレスです。
たけさんにあわせて、「主観」と「客観」という構図を用いながら、もう一度私の論点を表現してみます。
主観から発した願望が、現実に投影される(客観的な事実となる)、
現実を変えていくという事実がある。
(主観が客観に投影され、客観的世界を再構築する。)
その結果生じたものが、近代工学的産物であり、
近代特有の社会システムである。
(陰謀論者ならば、これを「陰謀」とよぶ。)
・再構築
人間性というものは、客観的に見ても、自然界の法則の中でという制約はあるが、
現実を変えていく力を有している。
自発的に考え意識を持つもの(何か)を「精神」と名付けるならば、
これはまだ、「機械」によっては再現されていない。
「科学」的にいえることは、「精神」の働きが、大脳とくに大脳前頭葉の活動と
密接にリンクしているということが確認できという、ただそれだけのことである。
これは、たとえば、大脳前頭葉部分が「精神」を生み出しているという証明には成らない。
(大脳前頭葉も、「精神」の受け皿に過ぎないのだという考え方がある。
このアイディアもまた、証明されてはいない。そして、それの否定につながる、
根拠もない。)
客観的にいえることはここまでである。
(「現段階では、Aを証明できない、」ということは、必ずしも、
「Aではない」ということを証明するものではない。)
・追記
私としては、「主観」or「客観」という分類はあまりやりません。
「Physics」or「meta-physics」という分類の方に
親しみを覚えます。
・ 自然
・ 精神的実存
http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/501.html
・追記2
http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/501.htmlでは、
「自然界から遊離する」とはいいましたが、「自然界の法則から遊離する。」
とはいっていません。これらの意味の違いは、この文面(・再構築)にすでに記してありますので、
そちらをご覧下さい。
・レス
>「私」と「客観的な世界」とは相互に包含しあう関係にあります。
>つまり、「私」が「客観的な世界」を持っているのであり、同時に、「客観的な世界」がその中に「私」を含んでいるのです。
観察者V,s,他者という、視点を用いればそうなります。
しかしながら、その視点が、必然的なものだとは思いません。
すべての「精神」V,s,それ以外という視点を用いれば以下のようになります。
「人間や生物や物がこの世界には実存していて、人間は、科学や哲学や宗教など
の概念を通して、
この世界(Physics)を理解しようと試みている。すべての、人間の精神は、
Physicsに属するのではない。」と捉えています。
この構図には、「相互に包含しあう関係」は、存在しません。
確かに、この概念は伝統的な物理学(ひいてはその流れをくむ諸科学)の解釈とは違う物ではあります。
・『我が「自己」を、他のすべての「自己」から、区別すること』
(我思う故に我あり)
は、いまだに物理学を支える
哲学の柱なのですが、
これは、バグの一種のような物のように思います。
(『「思う」のは、私という「実存」だけなのだ、』という哲学(Kogito elgo sum)は、
あくまで、(幼年期の未熟な物理学を支えるための便宜的なテーゼに過ぎないのであって、それが現実であるというわけではありません。デカルト自身もそう思っていたでしょう。)
再びいいますが、その哲学・視点(我が「実存」V,sそれ以外)は、物理学(をベースとしたすべての科学)の応用にとって、もはや必然的なものだとは思われません。
物理学は、単一視点という発想(Kogito elgo sum)に立脚しているけれども、
それは、物理学を構築・運用するための道具に過ぎないのであって、
それは現実ではないということです。
※あくまで個人的な見解です。