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(回答先: 「すべての実存」と「自然」との関係 (「単一実存」の問題)[たけ(tk)さんへ] 投稿者 乃依 日時 2004 年 5 月 24 日 03:29:16)
>人間は、科学や哲学や宗教などの概念を通して、この世界(Physics)を理解しようと試みている。
これがおかしい。
予備知識:言語学に「意味の三角形」というのがある。
言葉の意味は「記号」−「モノ」−「意味」の3個の要素に分解できる。その3要素は必然的な関連性をもっていない。というもの。
私はモノである。私が感じ取った《私》は意味である。それを言葉で表現した「私」は記号である。
ところが、ロゴスは、記号が持つ普遍性に陶酔して、「私」という記号に普遍性という余分な意味を付加する。
「私」という記号の意味を<普遍的な私>という「概念」に変えてしまう。
しかし、<普遍的な私>は、モノとしての私とも、私が感じ取った意味としての《私》とも無縁のものである。
人は自らを、自らの感性で感じとるべきだ。自らの感性で感じ取れば、生きた人を感じ取ることが出来る。
しかし、そこで感じ取られた《人》は、「人」という言葉で表現した瞬間に死んでしまう。
私が感じ取った《人》を「人」という言葉を通じて他者に伝えたときに、自らが感じ取った《人》を他者に伝えることができると思うのは幻想でしかない。
もちろん、コミュニケーションの手段としての言語、定義を明確にした概念の有用性は認める。
また、科学の方法によって蓄積された知識の有用性も認める。
しかし、それ以上の幻想をロゴスに抱いてはならない。
言語が持つ本質的な限界を忘れて、言葉の意味(概念)を組み合わせれば世界の認識に至るはずだ、と信じるのはロゴス信仰というべきであろう。
概念は、モノとしての私にとっては、思いこみでしかない。概念で構成された世界も思いこみでしかない。
概念を通して、この世界(Physics)を理解しようと試みても、ヒトを理解することは出来ない。
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これだけだと不親切なので、もう少し敷衍しときます。
「科学的な知識」というのは、仮説として提案された普遍的なモデルを機械的な・無私な態度で検証した結果、「客観的な世界」(主観の有無に関らず存在する世界)と対応関係があると確認された知識のこと。
モデルというのは思いこみですから、「科学的な知識によって構成された世界」というのは、検証された思いこみで構成された世界ということになります。
「客観的な世界」というのも思いこみですけどね。「科学的な知識で構成された世界」というのは「客観的な世界」のうち、普遍的なモデル+機械的な検証という方法で検証することが可能な部分に限られるということです。
「客観的な世界」の中に《私》は含まれていますが、「科学的な知識で構成された世界」の中には、いまだ、《私》は含まれていません。
最初に述べたような《私》が科学的なモデルとして検証可能であれば、《私》も「科学的な知識で構成された世界」の中に含まれるようになるかもしれません。
>すべての、人間の精神は、Physicsに属するのではない。
同意します。
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結局のところ「自然界」という言葉のイメージの違いだったようです。「自然界」というと次のような複数のイメージが湧きます。
(1)雷、火山、野生動物のようなもので構成された、非人工的な世界。
(2)自然科学的な知見で構成された世界。
(3)宇宙史がその総体であるようなもの。その中の地球の表面付近。
乃依さん(どう読むのでしょう?)は(2)、たけ(tk)は(3)の意味でイメージしていたようです。
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グーグルしてみたら…
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http://homepage.mac.com/berdyaev/rinrigaku/gaisetu/rinri10.html
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アリストテレスはその師プラトン以上に、はるかに鋭く、理性の限界、人間の知の限界も感じていたようです。
彼は、医者の息子らしく、現実に存在するものを現実的に見、人間の魂がその身体と密接に結びついており、理性の能力も、身体的感覚器官の助けで働くことによって、存在しているものの「形相」を認識させるのであり、決して単独で、身体から分離された状態で存在しているのではない、と認識していました。
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だってさ。