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http://www.ier.hit-u.ac.jp/COE/Japanese/discussionpapers/DP98.4/honbun4.htm
4. 対露主要輸入品動向
1) 石油
ロシアからの石油(灯油)輸入が1913年に絶えて、1926年まで輸入されることはなかった。その後1927年から輸入が再開され、1930年代初めに急増することとなった。1932年9月、松方幸次郎は「 ソユーズネフチエクスポルト 」との間にソ連産ガソリン輸入の契約に調印した。契約に先駆けて松方は駐日ソ連通商代表部と数十回におよぶ折衝を重ね、日本市場の状況に対するソ連側の理解を取り付けて、1932年8月27日、故後藤新平秘書の森孝三を伴って敦賀出帆の「天草丸」でウラジオストクに赴き、モスクワに乗り込んだのであった。この、日ソ貿易史上画期的な出来事は当時、日本国内の石油市場を支配するロイヤル・ダッチ、スタンダード、ライジングサン等の石油商社や石油業者間にセンセーションを巻き起こした。それまで、石油価格は商工省の主要産業統制法によって国内6社によって支配されており、このソ連産ガソリンの輸入の話は、値上げの矢先の出来事であり自動車業界はこぞって歓迎したのである。このことは、全国各地からの自動車業者が、帰国の松方を敦賀埠頭で熱狂的に迎えたことからも、いかに6社の脅威から逃れようとしたかがわかる。また、当時の国際環境を考えれば、日本が軍国主義の道を走り始めており、新規石油の供給参入は日本海軍に対して燃料供給の鍵を握っている米国のくびきから逃れることを意味しており、ウォール街の石油株が一時4ドル下がったといわれるほど衝撃的であり、石油を英米にのみ頼りにしていた日本に新たな道を開いたことで松方の功績は高く評価されたのである。
ソ連側は日本の石油市場の状況を考慮して松方と契約を結んだ。その内容は、@委託販売を原則とし、FOBを基礎にした販売手数料制にすること、A買い手の費用で順次数カ所に貯油所を建設すること、Bソ連はバクー、グロズヌイより精製油を供給すること、C輸送費、関税はソ連側の負担とすること、D契約期間は1933年より5年間で、期限満了の際更新契約のこと、Eこの期間の最低契約数量は20万tとすること、等日本側への配慮がみられた40。 満鉄顧問に就任した松方は1935年10月に、松方日ソ石油販売事務所を改組し、新会社「日ソ石油株式會社」( 資本金170万円 )を設立した41。 契約にしたがって松方が輸入した1933年から1935年間のガソリン輸入総量は2,680万ガロンであった。ソ連産ガソリンの輸入を何としてもくい止めたい国内石油業者は直系販売企業の動揺を抑えようと、松方が安値で販売するといっても統制法の適用を受ける、ソ連産ガソリンを契約したといっても本当に入ってくるのか疑わしい、などと必死に説明し、同時に北樺太石油のガソリン輸入も検討していることを明らかにし、従来の原油専門輸入の立場を変更せざるをえなくなった。松方が輸入するガソリンはボーメが高く、ビィウイク自動車1ガロン当たり走行距離が18哩であるのに対し、ソ連産は23哩であり、急坂でもノッキングしないことや寒気に対してもエンジンが掛かりやすいなどの利点がますます石油業界6社のいらだちをつのらせたのである。
北樺太石油會社は1928年から1932年にかけて利権油田に隣接するソ連側の原油を約30万t購入しており、さらにバクー産の石油を購入する交渉を行った結果、独占販売権を獲得した。これによってガソリンは松方幸次郎、原油、重油その他一切は北樺太石油會社が取り扱うことになったのである。この他、松方と関係の深い共盛商會主堀清は専ら朝鮮中部地方を市場にベンジン、灯油を輸入する契約を1932年11月に駐日ソ連通商代表部との間に結んだ。この契約は翌1933年1月に朝鮮商事會社(代表 岩本恆人)とソ連との独占販売契約成立で破棄されることとなった42。
このようにソ連産石油の輸入契約が実現されるようになって将来の拡大に期待がもたれたが、日本を取り巻く国際環境は日毎に厳し、ソ連からの輸入どころではなくなったのである。