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(回答先: 八九式中戦車乙型 イ号 燃料消費率の少ないディーゼル・エンジンを用いることが国策 投稿者 hou 日時 2004 年 5 月 23 日 06:29:17)
対米依存度
1938年度(ノモンハン事件の前年、太平洋戦争開戦の三年前)対米輸出状況
対米依存度は、生糸で総輸出の82%、絹織物で15%、缶詰で13%、玩具で25%に達する。
以上の商品が米国市場を失うと外貨取得源の四分の一(23%)となる。
基礎資源の対米依存度は、石油は82%、鉱油は56%、綿花38%にも達していた。
以上のことから、日本は米英の経済圏なくして、戦争を遂行することは不可能であった。
そのため、米英経済圏を無視して、日本が経済的活動を行うには、
南方の資源を手中に入れなくてはならなかった。
すなわち開戦である。
対日経済締め付け
対日武器禁輸(道義的禁輸)(38年6月)
日中戦争が始って11ヶ月目のこと、日本の中国侵略に対して、米国は、最初の対日経済封鎖を実施した。
それは「対日武器禁輸(道義的禁輸)」であった。
41年8月1日、南部仏印侵攻に対して、米国は石油全面禁輸、在米邦人の資産凍結を表明した。
先立つ7月24日、ルーズベルト大統領は「もし米国が日本に対する石油供給を停止していたら、日本は一年前に蘭印に押し寄せていたろう」と語る。つまり、米国は戦争抑止のため、今まで石油の禁輸処置をしなかったと言明したのである。
41年6月5日付けの軍令部石川軍務第二課長が起案した文書には、「米蘭が石油供給を禁じたる場合、猶予なく武力行使を要す」としている。
日本は、石油(蘭印)、ゴム(東南アジア一帯)、ボーキサイト(ビンタン島)、ニッケル(セレベス島)、錫(スマトラ・マレー)鉛(蘭印)、銅(比島)、鉄鉱石(比島)、米(インドシナ)、マニラ麻(比島)、キニーネ(蘭印)、さらに綿花(インド)、羊毛(濠州)の物資を確保する必要に迫られたのである。
備蓄
開戦前日の石油備蓄は4300万バレル
戦争に備えて、優先度の高い物資の輸入を政府は促進してきた。
羊毛:37年を百として、40年には40%減。綿花:36年を百として、41年に32%減。
それに対して、ボーキサイト:36年を基準に40年には11.3倍。ニッケル:36年を基準に41年に20.4倍。
開戦前日の石油備蓄は4300万バレル(これは現在の10日分の消費水準。)
41年8月1日の石油禁輸発動に対して、軍令部軍務局は「16年10月までに開戦しなくては第二年末には決戦用の燃料に事欠く」と談じた。
開戦の年、日本の石油生産量は米国の721分の1であった。(日本194万バレル、米国14億バレル)
南方からの石油供給
開戦当初、南方の石油産出地帯の占領が破壊を最小限に押さえられた。そのため、2594万バレル(6510万バレルが年産)まで生産が可能になった。その内の40.5%が日本に向けて輸送された。
その最初は42年4月であった。翌43年には76%まで回復して、4963万バレルとなったが、日本に運ばれたのは三分の一であった。
44年になると3693万バレルに落ち込んでしまった。ついに、日本に運ばれる石油は皆無となった。
シーレーンの破綻がその最大の原因であった。
日本の油槽船は開戦当初、834000総dであった。4分の3が南方からの輸送に従事した。 42年4074d、43年388016d、44年754106dと油槽船の喪失は急増した。
開戦時燃料事情
開戦時、海軍は650万`g、陸軍が120万`g、計770万`gを所有していた。
軍部の算段:海軍は一年で230万、陸軍は100万、合計330万で二年間はもつ。その他、20〜30万の国内産出、北樺太石油への期待、人造石油?の生産への見込み(実際、海軍では一年間で485万`gを使用し、見込みの甘さが指摘される)
41年8月1日、米、全面石油禁輸。在米邦人資産凍結。英蘭同調。
この年の石油輸入量は前年比13%。52万`g。'
東条内閣企画院総裁鈴木貞一は、全面禁輸に驚くとの談話。松岡洋右前外相は禁輸の可能性大なりと進駐には反対。豊田貞次郎外相兼商工相は野村吉三郎駐米大使の警告にも関わらず楽観視。及川古志郎海軍大臣、永野修身軍令部総長は懸念を表明しながらも進駐を認める。米内光政・山本五十六・井上成美・古賀峯一らは明確に反対。
開戦当時の日本の全製油所の精製能力は約九万バレル弱であった。パレンバンには、コロニアル石油スンゲイゲロン製油所とバターフセ石油プラージュ製油所があり、原油精製能力は、八万バレル/日であった。
石油消費 米ソに次ぐ、世界第三位の消費国
1985年の石油消費量は、432バレル/日,年間2億5千万バレル。しかし、原油埋蔵量:5700バレルで、これは全世界産出量の0.01%に過ぎない。
1931年の(昭和13年)の、石油消費量は400万`g/年。これは現在の六日分の量に匹敵する。
1931年の柳条湖事件で対日石油禁輸が行われ、日本は南方資源の軍事的獲得に乗り出す。
終戦時、日本が保有していた原油量は10`gで、開戦時の3%であった。陸軍は本州中部に、3万`gの航空ガソリンを本土決戦用に隠匿していた。
昭和20年4月時の海軍の艦隊用燃料の保有は25万`gで、これは戦艦5隻の10回分の燃料。
モーラル・エンバーゴ
1935(昭和14)年12月、米はモーラル・エンバーゴを発動した。
「正当の理由なくして、空中より市民を爆撃し、あるいは機関銃を持って攻撃する国に対し、高級揮発油の製造に必要な装置、製造権および技術的知識の輸出を道義的に禁止する。」
これは、ソ連のフィンランド爆撃を憤慨しての報復であるが、事実は日本に対する牽制であった。
日本揮発油(昭和三年設立)は米国のUOPから接触分解設備の輸入を企画したが、モーラル・エンバーゴ政策の為、この企画は破断した。日本はUOPを相手に、民事訴訟を起こすが、米国は受け入れなかった。
さらに、米、ハイオクタン航空ガソリン・四エチル鉛を輸出許可制とし、日本への締め付けを強化した。