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(回答先: ゆらぎさんの「誤読」を中心としたレスです。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 06 日 23:03:37)
一点だけ。「善」を共有化する前提として、「悪」判断の共有をすることもあるのでは?
>それどころか、「善」と言われていることや思われていることさえ、「悪」
>ではないのか疑い、とことん議論したほうがいいと主張しています。
>何か新しいことをやろうとしたときは、全知全能ではなく高が知れている
>思考力ですが、「悪」につながる恐れはないのかを徹底的に詰めるべきだ
>と思っています。
この部分は賛成です。しかし、下記の「共有」については疑問です。
>議論を重ねた「悪」判断の共有は必要不可欠だが、「善」を共有化する必
>要はない、それどころか「善」の共有化は、十字軍・魔女狩り・フランス
>革命・大東亜戦争などでわかるように、人々を思考ではなく行動に駆り立
>て歯止めもかかりにくい危険なものだと考えています。
"認識を共有"することは大事だとはおもいますが、『「悪」判断の共有』と言う"判断の共有"と言う行為自体を胡散臭く感じています。
一つの例として、カルトに献身(カルトにとっての善、一般社会にとっての悪)させるために、「サタン」の考えを共有したりとかね、、。
ことさら、「悪」か「善」かどちらの"判断の共有"が必要、必要でないと言い立てても意味がないと思います。
むしろ、「悪」にしろ「善」にしろ、その"判断の共有"によって何を意図しているかの見抜く認識を得ることの方が大事だと思います。
いずれにしろ、「"判断の共有"をする」なんてのは「善」にしろ「悪」にしろ同じコインの裏表なのに「そっちは駄目」「こっちの方がいいんだもん」と、あっしらさんにしては随分大雑把過ぎる考えで、本文中のこの箇所にはちょっとビックリしています。
※但し、「認識を得ること」の「共有」なんだよと言われれば、返す言葉もございません。「判断」というのは「認識」の次にくる行為だと思っているからです。
※「悪」とか「善」とかは相対的で一時的な可能性もあるからです。社会的な事象では特にそうです。