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(回答先: 発展しようとしない人ですね。 投稿者 ゆらぎ 日時 2004 年 7 月 05 日 23:26:26)
ゆらぎさん、どうもです。
私の書き込みを「誤読」していると判断した内容もあったのでレスをします。
私があれこれ批判しているのは、あなたほどのひとが概念や表現を曖昧なかたちで使っていることを好ましいことではないと思っているからです。
なぜそうなのか、律さんへのレスをお読みいただければご理解していただけると思っています。
あなたの理想は、“彼ら”との過酷な言論闘争や政治闘争に勝利しなければ近づくことができないものなのです。(空虚な概念や美辞麗句的形容句をつなぎ合わせた言動で人々になんとなく「正しい」と思わせて、自分たちの利益と支配力を高めている連中です。多くの人が接するメディアも、そういう連中の意向を受けて情報発信をしています)
【ゆらぎさん】
「そもそもあなたが合理性で選択しろというから、そこに善悪の価値判断がでるわけでしょ。「善」を否定するなら、どの行為を選ぶのかも判断できないでしょ。「いい女とセックスしまくるのが目的であってもいっこうにかまわないのです。」という「いい女とセックスしまくる」のはその人にとってはそれが善なわけでしょ。
「善」と言うな「悪」と言うなというのでしたら、そもそも設問を出して、正解はどれだと楽しむのは自分の内だけにとどめるほうがいいと思いますよ。(アドバイスです)」
「善」を言い募るなとは言っていますが、「悪」を言うなとは一度も言ったことはありません。
それどころか、「善」と言われていることや思われていることさえ、「悪」ではないのか疑い、とことん議論したほうがいいと主張しています。
何か新しいことをやろうとしたときは、全知全能ではなく高が知れている思考力ですが、「悪」につながる恐れはないのかを徹底的に詰めるべきだと思っています。
議論を重ねた「悪」判断の共有は必要不可欠だが、「善」を共有化する必要はない、それどころか「善」の共有化は、十字軍・魔女狩り・フランス革命・大東亜戦争などでわかるように、人々を思考ではなく行動に駆り立て歯止めもかかりにくい危険なものだと考えています。
合理性の選択は、目的をうまく達成できたかどうかですから、一般的な意味での善悪の価値判断ではないと思っています。
目的には価値判断が関わってきます。
「「いい女とセックスしまくる」のはその人にとってはそれが善なわけでしょ」と問いの答えは、ノーです。
したいからしているのであって、せいぜいが悪ではないと思う程度で、善だと思ってやっている男は少ないはずです。
【ゆらぎさん】
「あなたは「罰」というのが大好きのようですね。「思い通りにならないこと」→「罰を与える」、「思い通りにならないこと」→「罰を与える」・・・と繰り返しているのが我々であり何度も何度も同じ行動を繰り返しながら、違う結果を期待しているのが我々の社会ですと申しました。「結果」からは学べますが、「罰」からは多くを学ぶことはできないと思っております。」
罰の適用をしないで済む世の中がいいと思っています。
「思い通りにならないこと」→「罰を与える」ではなく、共有されている「悪」をなしたから「罰を与える」だけです。
私も、「罰」からは多くを学ぶことはできないと思っていますよ。
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まず、「「私物化(所有化)意識」がなくなった場合、どうして人間が全滅するのかを、シュミレーションで具体的に教えてもらいたいものですね」という問いについて簡単に答えておきます。
ゆらぎさんは、「私物化(所有化)意識」を、「人間が何かを「所有しよう」とすることは、ある結果を期待し、その手段として「所有しよう」とするのです。つまりある結果を期待しあるものを「自分の思いどおりにしよう」とするということです。ただし、その対象(人間・動物・物等)に意志があり、自分の思い通りにならないものもあります。その場合にその対象の意志を尊重し、思い通りにならないという事を受け入れた時は、それは自分の「所有」(私物化)とはならず、共に生活するものや、その場所を共有するものとなるのだと思います。つまり所有関係ではなくパートナーや維持管理をするもの等の表現による関係性となるのだと思います」と定義しています。
生き物である人が、生きようと期待する限り、その手段として食べ物を「所有しよう」します。
植物であれば、所有されることに抵抗していると思えない人も多いでしょうが、いやがっていると思う人もいるでしょう。栽培される植物もそこに根づくのをいやがっているかもしれません。栽培植物の育成を妨げるといって抜かれる雑草もそれをいやがっているかもしれません。また、気がつかないだけで、植物の根などに付いている動物(微生物も含む)も踏まれたり洗い流されたりして嫌がっているかもしれません。
家畜も、牛はと殺場でもおとなしいと言われていますが、豚は聞くに耐えない泣き声を上げるそうです。
人類が菜食主義で生き続けるとしても、「ある結果を期待しあるものを「自分の思いどおりにしよう」とする」のです。
ある結果を期待しあるものを「自分の思いどおりにしよう」とすることを断念(解消)すれば、人は誰も生きていくことができないのです。
「思い通りにならないという事を受け入れた時は、それは自分の「所有」(私物化)とはならず、共に生活するものや、その場所を共有するものとなる」というお考えですが、親も男(女)も、子どもや相手の女性(男性)が思い通りにならないという事を理解はしているはずです。
「共に生活するものや、その場所を共有するもの」だからこそ、ある状況では思い通りにならないという事を受け入れることができず、自分の言葉では思い通りにならないことに苛立ったりむかついて暴力や罵倒に及ぶという構図です。
暴力ではなく言葉で相手を諌めるのも、思い通りにならないという事を受け入れることができずに、なんとかそれに対処しようということでは同じです。
(論理的な話で、暴力も言葉も価値判断的に同じだと言いいたいわけではありません)
>確かにあいまいな表現方法はあるかもしれませんが、話の流れからわかるでしょ。
>なぜつまらないミスに拘り、自分の殻に閉じこもろうとするのか。(あなたの問題で
>すが)
ミスに拘っているわけではなく、新しい「ただ単に「ある結果を期待しあるものを(それに意志がないものとして)「自分の思いどおりにしよう」としそれを押し付ける行為」という説明であっても、押し付け性は織り込み済みですから、それを、「私物化意識」と名付けることや子どもに対する暴力や殺人の根源的要因だとすることに同意できないのです。
(「私物化意識」では説明しづらい要因もあるし、「自己中心意識」でも「支配者意識」でも「横暴意識」でもいいだろうと...)
子どもの“販売”ではなく、子どもへの虐待や殺人は、そのような「私物化意識」だけを要因にすることはできないと考えています。
あなたは、我が子だと思う意識は「私物化意識」ではないと言われています。
(あなたが我が子だと思う意識は「私物化意識」だと認定したら、あなたの論はけっこう納得できるものです)
子どもに手を出すとき、我が子としてかわいいからというときもあれば、養育に責任を持たなければならない我が子だからとか、我が子が将来少しでもいい生活ができることを願ってなどの意識に基づくこともあります。
また、子どもが気に入らない振る舞いをしたときにむかついて手を出すことや、普段なら手を出すことはないのに気分の変調(虫の居所)で同じことをされても手を出すこともあります。
あなたはそれらも「私物化意識」に還元しようとするのでしょうが、それでは、問題要因は見えにくくなると思っています。
「「自分の思いどおりにしよう」としそれを押し付ける行為」として子どもに暴力を振るうケースのほうが少ないだろうと思っています。
(「思いどおりにしよう」という冷静な判断に基づくものよりも、むかついたり、かっとしたり、いらついてという感情の噴出として手を出すことのほうが多いと推測しています)
「私物化意識」にこだわっているあなたのほうが、自分の殻に閉じこもろうとしているように思えます。
>そもそも「人の活動原理」というおおざっぱな概念をもち出しながら、それにあたる
>から無理だというこじつけに、議論のつまらなさ、浅はかさを感じませんか?
だから、あなたがいう「私物化意識」ではないひとの活動過程性としてどのようなものがあるのかと問うています。
(今回は押し付けるという表現が加わったので少しニュアンスが変わりますが、それでも自然物や動物そして人に対して、「自分の思いどおりにしよう」としそれを押し付けるという要素は残ります。納得し切れていない人にも、「とにかくこうやってください」と言ってやってもらう局面もなくならないと思っています)
>現在の「人の活動原理」のうち、的を絞った形の「私物化意識」と言っているでしょ。
それは、私が既にそのようなものではないかと説明しています。
その上で、子どもへの暴力や殺人一般を「私物化意識」に還元して説明することはできないと思っています。
>「私物化意識」のない社会はどういったものかもある程度提示してるでしょ。
>その社会は人が活動しておりませんか?ヘタなこじつけ、我を押し通そうというその
>配慮のなさに、私は今後の議論をしていこうとする気すら萎えました。
>そもそも私は人を追い込むことに、意味を見出していないというのがおわかりになり
>ませんか?
あなたがひとを追い込むことに意味を見い出しているとは思っていません。
あなたが説明している「私物化意識」がない社会というものもよく見えませんが、あなただけとは言いませんが、ひとの観念としてならありえても、実在はしないと思っています。
人がひとを強制することは大きく減少するし、子どもに対する暴力も殺人も大きく減少するとしても、それらが絶滅することはないと考えています。
既にその方法も少しは考えていると言われた、「私物化意識」の解消方法を提示されるのを楽しみに待っています。
>こちらの質問にはまともに答えようとせずに、自分の土俵だけを意識し、相手の言葉
>の使い方等を指摘し、本筋をつかもうとせず、気に入らないと排除しようとする発展
>しない心。それは同じところを常に居続けようとするむなしいものであることに気づ
>きませんか?
おいおい、ふざけるんじゃない!
あなたの質問には真摯に答えようとしてきたと思っています。
「私物化意識」に集約するために積み残した答えを除き、まともに答えようとしなかったあなたの質問は何なのか明示してください。
あなたが子どもの虐待や殺人などは「私物化意識」が問題要因だと認識を共有しなければ議論は先に進められないと言ったから、私は、その理由も説明して「私物化意識」に原因を還元することはできないと言い、議論は続けられないと言っているだけです。
あなたと議論する意味を見い出せないと言っているだけで、あなたを阿修羅という場から排除するつもりはまったくありません。
▼あっしらさん
【「すべてが現実」という理解はしていますが、「すべてが正しいもの」という理解はしていません。
私にとって「正しい」とは、合目的性や合理性を基準に判断するもので、価値判断は含まれていません。
そのような考え方をしていますから、世界には「誤り」が溢れていると思っています。
(ほとんどの人はできるだけ楽に心地よい日々をおくりたいと願っているように見えるし、それが可能な現実的条件があるのにそのような人々の願いは実現されていないことでもわかります)】
>それは究極の理解だと言っているでしょ。
「究極の理解」ってどういう意味でしょう?
>自分が合理的に悪と判断してもそれを排除できないこともあるでしょう。それらに頭
>を悩ませるよりも、すべては正しいこととすることが前向きなものの見方ではないで
>すか?
私は、自分が「悪」だと判断したことをどうやったら減らせるかを考えます。
なお、「悪」は合理的に判断するものではなく、価値観で判断するものだと思っています。「悪」を減らす方法の可否や効率性は、合理的に判断できると思っています。
>すべてをありのままに受け入れるにはすべてを認めることではないですか?そしてあ
>りのままに認めつつも自分の望んだ方向(合理的だと思う方向)へ変えていこうとす
>るのが人間でしょ。
「すべてが現実」という意味でありのままに受け容れていますが、すべてを「正しいもの」としては受け容れません。
「正しいもの」ではないと考えるから、反対したり、変えようとするのではないのですか?(あなたの言いたいことはそれなりにわかっているつもりです。「正しい」という表現は避けたほうがいいのではということです)
>逆に言わせてもらえば、あなたのような考え方をするから、多くのものの行為を受け
>入れることができずに争い事がおこるのではないですか?(前から思っておりましたが)
壮大な争い事を経なければ、あなたがいう「私物化意識」を徐々に希薄にする現実もつくり出せないと思っています。
世界の争いごとはそのようなことで起きているのではなく、自分の欲得を実現するために意図的に起こされています。
>人間の活動も、木々のゆらめきも、台風も、雨風も、太陽の日照りも、地球の動きも、
>細胞の動きも、電子の動きも、すべては同じ生命現象でしょ。それらが間違ってますか?
人間の活動を、抽象すればそうも言えますが、それは意味がない抽象だと思っているので、並べられた他の諸事象と一緒にして「すべては同じ生命現象」という見方はとりません。
(人間は、強欲で狡猾で破壊力にも富んだ自分を含む主体的な存在だからです)
>すべてはあるべき姿でしょ。生命の流れでしょ。素晴らしいものでしょ。
詩的表現としては理解できますが、論理としては冗談でしょ。
生命の流れであることは認めるとしても、それらがあるべき姿かどうかなどはわからないことです。
素晴らしいかどうかも、ひとり一人がそれらを目の当たりにしたときに判断すればいいことです。
>人間がどんな行動を選択しようが、それはすべての生命からみた場合一側面であり、
>一流れであり、間違ったものは何ひとつないことということがわかりますよね。
>間違ったものは何ひとつないが、そこからそれぞれの主体が「いかに生きるか」を考
>えひとつの生命の流れを決定していくわけでしょ。それぞれの主体が何を選択しても
>それは自由です。人間全体がどれを善とし、どの方向へ進んでいくのか、その主体が
>どれを善とし、どの方向へ進んでいくのか。それがどこへ進んでいくにしろ生命の渦
>の中のひとつであり、間違っていることは何もない。違いますか?
あなたの気分や詩的表現としてはそこそこわかりますが、論理としてはまったく受け容れられないものです。
「こうなるはずではなかった」と思うことをしたのなら、人にとっては、間違いをしでかしたということです。
>人間が地球を破壊し、存続することができないとしても、それは全体の生命の吐息の
>ひとつです。ただそこに存在する我々がどの方向へ進みたいのか善悪を判断するのは
>自由であり、その判断すら避けるのも自由です。何をするのも自由です。何をするの
>も生命の動きであり、間違っていない行為です。
>差異を認めるというのはそういうことではないですか?差異があることが間違ってい
>るのですか?決して間違っていないから認めること、尊重することができるのではな
>いですか?
強欲で狡猾で破壊力にも富んだ人間という存在の活動に、「生命の動き」だから「間違っていない行為」という見方をすることはできません。
差異を認めるというのはそういうことではありません。
一人ひとりが好みややりたいことも違い、あることを行う能力にも違いがあるということを認めることです。
>以前あなたが言っていた「どうこういっても、人は悪を為すものであると思える。」
>と決め付ける方に問題があると私は思いますね。
私の判断が誤りで、悪が為されず罰の適用もない状況になれば何よりもいいことだと思っています。
人は、「善」と思い込みながらしゃかりきに取り組み、あとになって「悪」だったとうなだれることを繰り返しています。
人間は強欲で狡猾で破壊力にも富んだ存在でありながら、全知全能ではない存在ですから、これからも、「えっ、こんな結末になるんだったら、あんなことをするんじゃなかった」と反省を繰り返すだろうと思っています。