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(回答先: 一点だけ。「善」を共有化する前提として、「悪」判断の共有をすることもあるのでは? 投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 7 月 07 日 08:42:09)
クエスチョンさん、どうもです。
>"認識を共有"することは大事だとはおもいますが、『「悪」判断の共有』と言う"判
>断の共有"と言う行為自体を胡散臭く感じています。
共有された『「悪」判断』が、真理だとか正しいとか主張しているわけではありません。
『「悪」判断の共有』は、共同体的意志としてそれをやらないとか刑法規範や罰を付与する根拠としてのみ意味を持つと思っています。
(真理でも普遍的正義でもなくても、他者関係性のなかで人々が生きている社会(共同体)にはそのような規制が必要だと思っています。その意味では、悪法も法ですが、人々が決めたものでしかない悪法は、それが「悪」であることを説きその合意を得られれば改めることができます)
『「悪」判断の共有』がないまま、それはやってはならない(やめさせる)、それは処罰の対象だから処罰されるというほうがより胡散臭いことだと思いますよ。
>一つの例として、カルトに献身(カルトにとっての善、一般社会にとっての悪)させ
>るために、「サタン」の考えを共有したりとかね、、。
表題の「「善」を共有化する前提として、「悪」判断の共有をすることもあるのでは?」は、この部分にかかってくるものだと判断しました。
「悪」に打ち勝つのが「善」という論理で、「「善」を共有化する前提として、「悪」判断の共有をすることもある」はその通りだと思います。
「サタン」に対する「悪」判断が共有されるだけであれば問題ではなく、それが、カルトへの献身は「善」に結び付けられることが「悪」だという話です。
さらに言えば、個々人が、ある宗教観念を信仰することを「悪」だとは思っていませんから、信仰するカルトに献身することも「自由」(勝手)だと思っています。
>ことさら、「悪」か「善」かどちらの"判断の共有"が必要、必要でないと言い立てて
>も意味がないと思います。
歴史を顧みれば、意味があると何度も書いています。
「悪」は行為を禁止する消極的なものですが、「善」は行為を推奨する積極的なものです。
これをなすことが「善」だと共有されることで起きた災厄は数限りなくあります。
(「悪」は、あることをしないことにつながるものですから、そのような災厄を生み出すことを抑制します。せいぜいが、合理的思考の不十分さにより「悪」ではないと判断したことが、結果的に「悪」だったというものになるはずです)
「善」を言い募るなと言っても、「善」を言い募る人はいなくならないでしょうし、「善」を言い募る人を抹殺したり口封じすべきだとも思っていません。
だからこそ、「善」を言い募るなとたびたび言い、誰かが言い募る「善」に吸い寄せられるのは危険だと言っているのです。
>むしろ、「悪」にしろ「善」にしろ、その"判断の共有"によって何を意図しているか
>の見抜く認識を得ることの方が大事だと思います。
そう言ってますよ。
これはほんとうにやっていいことなのか、それとも「悪」なのかを徹底的に議論して詰めるべきだと書いているはずですが...
>いずれにしろ、「"判断の共有"をする」なんてのは「善」にしろ「悪」にしろ同じコ
>インの裏表なのに「そっちは駄目」「こっちの方がいいんだもん」と、あっしらさん
>にしては随分大雑把過ぎる考えで、本文中のこの箇所にはちょっとビックリしています。
他者関係性や他者関係的活動においては、ある程度の“判断の共有”が不可欠なのは自明ではありませんか?
あなたにとっては「コインの裏表」でしかないのかもしれませんが、人を行動に駆り立てる「善」と人の行動を抑制する「悪」は、活動の在り方を大きく変えると考えています。
>※但し、「認識を得ること」の「共有」なんだよと言われれば、返す言葉もございま
>せん。「判断」というのは「認識」の次にくる行為だと思っているからです。
何を言いたいのか不明です。
「判断」も認識活動の一部です。
一人ひとりが内に持っている「世界」(認識体系)を言葉を中心に表現する議論を通じて、お互いが「世界」を補ったり修正して、あることに関する認識(判断を含む)をできるだけ近づけようというのが私の趣旨です。
(「世界」の一致はありえないのですから、あることをなすことが「悪」なのかどうかを議論を決さなければ、どのような共同体(社会)であっても、うまく動かないと言っているのです)
>※「悪」とか「善」とかは相対的で一時的な可能性もあるからです。社会的な事象で
>は特にそうです。
これも、何を言いたいのか不明です。
ひとの判断に誤りは付き物だと一貫として言っています。
だからこそ、目的そのものが「悪」ではないから始まり、「悪」ではないとされた目的が達成できる方法なのかも衆知を集めて徹底的に議論されなければならないと言っています。
そして、「悪」ではないと判断された活動の途中でも「悪」に向かっているのではないかと常に考え、結末が「悪」であれば、なぜ誤った判断をしたのかを徹底的に考え(議論し)て見出さなければなりません。
(そのような過程を通じて、人やその関係性総体である社会(共同体)は智恵を増やしていくものだと思っています)
多数派が「悪」や「善」と判断したことが、ほんとうに「悪」や「善」かあてにならないものです。
(その原因は、庶民が持っている情報は限られていること、庶民は日々の生活に追い立てられていてものごとをじっくり考える余裕を持っていないこと、庶民のなかには、そのようなことは利口なエリートに任せるしかない、エリートがそう考えたのなら「正しい」のだろうとしてしまう心性などにあると思っています)
最も望ましい条件に人々が置かれたとしても、人は全知全能ではないのですから、その集合体である多数派も、誤った判断をすると思っています。