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(回答先: ここに一つの答えがある 投稿者 真理を愛する者 日時 2004 年 7 月 06 日 17:42:01)
「社会の指導者が変われば世界が変わる」は、その通りだと認める。
そして、社会の指導者が変わる必要、それも緊要に変わる必要があるとも思っている。
しかし、「社会の指導者が変われば世界が変わる」ということは、現在のような世界をつくった(世界にした)のも変わるべき指導者(エリート)だということでもある。
であるならば、指導者(エリート)は、どうして現在のような世界をつくったのか、どうして現在のような世界をそのままにしているのかと、庶民は問わなければならない。
そして、変わる必要がある指導者が、どうして変わらない(変わろうとしない)のかも解き明かす必要があるはずだ。
それらを不問に伏したまま、社会の指導者(エリート)に変化を求めるのはアホの極みである。
なぜそのように言うかと言えば、指導者(エリート)は、指導者(エリート)であり続けるためであれば、過去の言説や政策を恥じることなくゴミ箱に捨て、新しい言説や政策を振り撒くものだからである。
対中国戦争や「大東亜戦争」を指導した連中の恥知らずな生き様を今一度思い起こしたり、バブル形成とバブル崩壊に関わった政府・国会議員・官僚・日銀・企業経営者の無責任ぶりと庶民への責任転嫁ぶりを考えれば、苦もなくわかることである。
(今日本で進んでいるのは、私欲と地位にしがみつく恥知らずで無能な指導者(エリート)が積み上げたこの20年のツケを庶民に回す政策なのである)
指導者(エリート)は、自分たちの地位が脅かされず自分たちの生活が劣化しない限り現状を維持しようとし、そうでなくなれば、地位や生活ぶりを維持するためにあれこれ対応策をひねり出すのである。
これが指導者(エリート)の本性である。
「医者、弁護士、大学教師、牧師、学者、神学者、会社役員・・・いわば社会のリーダーである。私は職業で人間の優劣を判断しない。しかし、こういった指導的な職業についている人々がやはり優秀なのは事実だ」の「優秀性」は、歴史的支配論理に照らした「優秀性」であり、先行する指導者(エリート)のお眼鏡に適った「優秀性」でしかない。
バブルを称揚した連中が手のひらを返すようにバブルに踊った人たちを非難したように、今市場原理自由主義や「構造改革」を善として叫んでいる連中が、状況の変化のなかで社会主義政策を唱導するようにもなるのである。
(社会主義こそがエリートたちが最大の力を手に入れる国家社会なのだから、それに反対する道理はない。自分たち以外の者たちが社会主義をめざすから、それに反対してきただけである。エリートによる新しい社会主義を認めることは、庶民が隷属の度合いをさらに高めることである)
指導者(エリート)にとって庶民とは、指導者(エリート)であり続けるための必須条件であり、指導者(エリート)が指導者(エリート)として生きていくための手段である。(すべてがエリートであれば、エリートという存在は自動的に消滅する)
職業宗教家・政治家・官僚は庶民の生き血を吸って生きている指導者(エリート)に今求められているものは、これまでの意味での指導者(エリート)を必要としない社会構造をどうやって築くかということ、すなわち、自分の存在性の否定である。
自分をエリートだと思ったり、エリートと見られることに喜びを感じるようなやつは、そのことだけで、有害であり無能なのである。
「有能」なものこそ地に降りて人々とともに苦楽をともにしなければらないのである。それによって、「有能」な人はより「有能」に、それほど「有能」でない人も「無能」の人も有能になる手掛かりを得られる。
それは人類全体の思考力や活動力が大きく高まることを意味するから、個々の人は、より楽に面白く生きていけるようになる。
そのようなことが現実的に可能な物質的条件は、庶民の奮闘を中心にした歴史的営為によってすでに達成されているのである。
22歳までの高等教育を4割ほどが受け、60歳でリタイアする人がほとんどでもなお、週3日も働けば現在と同じ生活条件を手に入れることができる。
かつてのように、支配層と庶民が分化していなければならないような物質的条件ではないのである。
庶民を劣位に置くことで自分の有能性やエリート性が維持できると考えている「カス」は、他者が「有能」になることによってのみ自分もさらに有能になれるという論理を知らない、すなわち、「有能」に至る道を知らないアホである。
自分の生や自分の救済とやらを指導者(エリート)に委ねたい人はそうすればいい。
多数がそうであれば、そうであり続ける。
私は、指導者(エリート)が指導者(エリート)である限り、彼らの有能性も信じないし、彼らの支配もイヤイヤ渋々にしか受け容れない。
人々を救済できると錯誤している指導者(エリート)こそが、世の中に大災厄を振り撒いてきたのである。
それは、ここ100年の歴史をざっと顧みるだけでわかるし、日本であれば今を見るだけでもわかることである。