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(回答先: エリートは自己のエリート性を投げ捨てたときに初めて有用で「有能」な存在となる。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 06 日 20:27:48)
初めに私のスタンスを説明しますと、精神世界を中心に読書をして来て、最近ではケン・ウィルバーの「万物の歴史」を読んでとても感動を覚えました。頭が大雑把なので言葉の使い方が厳密さを欠くと思いますがご勘弁下さい。
私も以前は「社会の指導者が変われば世界が変わる」と考えていましたが、今はむしろ「世界が変われば社会の指導者が変わる」という方が適切かなと考えています。指導者も乱暴に言えば社会全体に支持されている(民度を反映している)からその地位に居られる訳で、指導者も被指導者も全体で一塊だと思うからです。従って私にとって世界を変えるということは、指導者と被指導者を一部交代するとか、指導者の心得違いを正すとかではなく、全体の塊ごとレベルアップするというイメージになります。
私が理想とする世界をたとえると、人類全体がまるで一人の人間の様に滑らかに動く世界です。エリート(他より何らかの点で優れている人)というのは、例えば手(器用に細かいものを操るのが得意)や、足(筋力が最大で移動には欠かせない)や、眼(物を見るのが得意)などにたとえることが出来ます。
さて、この一人の人間が、仮に目の前にある本を部屋の隅の本棚に片付けようとする時にどの様に体の各部が動くでしょうか。眼が本を捉え右手が本を掴み足が自然に立ち上がり本棚の前に移動し、本を左手に持ち替え本棚の空きスペースを眼で確認しながら本を滑り込ませるでしょう。一連の流れとして特に何も考えずに行うことが出来るはずです。これが私の理想とする世界の姿です。
分かり易くするために、反対に現在の人類世界をこのたとえで表現しますと、まず眼が本を見る前にテレビを見たいと言い、右手がこの本は重いので送料1000円くれと言い、足は手より重い物を運ぶのは不公平だと言い、左手は物を持つ前に脳みその許可が必要なので待てと言うというように支離滅裂で二進も三進も行かない姿と、私の目には映ります。
理想の世界の方に戻ってこれを具体的な社会の形に引きなおしますと、海の幸を山の民へ、山の幸を海の民へ、全ての人々が阿吽の呼吸で必要を満たし合い、個性のままに生きる世界と言うことになります。
そこで肝心なのは、どうしたら現在の状態をそんなお目出度い理想状態に変えることが出来るのかという事ですが、結論から言いますと「変わるときに変わるだろう」という風に考えています。
人間が意識を高め社会制度を改善することによって変化を起こすのを「下からの革命」、神・霊・非二元性などと呼ばれる物が変化を起こす場合を「上からの革命」と私は名付けているのですが、私の考えでは後者が本質的・決定的で、前者は後者に依存しており、私の予想ではその両者は同時に起こる(シンクロする)のではないかと思っています。
「上からの革命」自体を認めず「下からの革命」のみを考慮する人や、「上から」「下から」の両方を認めても重点の置き方として「下から」が主体だと考える人が多いのはないかと推測しますが、私の場合は「上から」が主体だと考えます。
なぜそう思うのかと言うと、これまでの人生経験(無力感を味わってきた)に基づくとしか言えません。
従って、表現が難しいのですが、「下からの革命」を目指す人はその様に努力し、私の様に「上からの革命」を待つ人は待ち、然るべきときに「革命」が起こるということになると思います。
以上、我ながら役に立たんことを書いた物だと思いますが、要は、譬えを用いて上述しました「理想的な社会」が存在しうるんだという根拠のない確信を私が持っている(勿論ニューエイジの本等を読む前の子供の頃からですよ!)ということを、少しでも他の人に知って欲しかったということだと思います。