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(回答先: 素朴な疑問 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 03 日 11:26:28)
律さん、どうもです。
少し、全般的なことを説明したほうがいいでしょう。
まず、「幼児虐待」も暴力も殺人も、多様で種々雑多な感性・価値観・判断力をもった人たちが関わりあいながら生きている「社会」なのだから、あって欲しくはないと思っていても、そのようなことをする人がいなくなることはないという社会観を持っています。
エロスやパトスが考え活動する(生きていく)“牽引力”だと思っていますので、経済状況がどんなによくなろうとたとえ「所有」意識がなくなろうと、ひととの関わりにおいて、むかついたりいらついたりカチンときて罵ったり殴ったりすることもあるだろうし、惚れた相手が見向きもしなければ思いが昂じて不埒な挙に出るものもいると思っています。
「幼児虐待」や暴力・殺人をなくすことが「善」だと考えて、多様で種々雑多な感性・価値観・判断力を、これなら「幼児虐待」や暴力・殺人をしでかさないと誰かが判断したある「感性・価値観・判断力」に統一するようなことは、目的さえ達成できずに、抑圧や支配につながるだけだと思っています。
(ひとの「感性・価値観・判断力」を完全に統一することはできず、仮にできたとしても、生の様々な局面で手や足が出たり罵りが口をつくことは避けられません)
だから、「私物化意識」といったような概念を持ち出して、それを解消すれば「幼児虐待」や「子殺し」がなくなるという考え方を“危険思想”だと非難しています。
「幼児虐待」や暴力・殺人はあって欲しくはないけど、それを“絶滅”するために公的機構や他人が諸個人や家族の内側に踏み込むようなことはすべきではありません。
そうではなく、自分(自分の家族)たちがより気持ちよく生きていける条件を手に入れる合理的な方法は他の誰もが同じ条件を手に入れることだという理解のもと、みんなでその条件をどうやって現実化するかを考えそれを達成することで、「幼児虐待」や暴力・殺人はけっこう減るだろうと思っています。
手に入れた条件のもと、どういうことをして気持ちよくなるかは各人の判断に委ねられるべきで、公的機構の介入は、万が一その行為が法規範を犯している場合に罰を与えるということに制約されるべきだと考えています。
他者は、それはまずいんじゃなないのとかよくないよとか、こういうのは面白いよと言うレベル(相手が聞かないのも勝手)の関わりにとどめるべきです。
【律さん】
「まあ、「家族の孤立化状況」など個々の家族がどうにかテメエで落とし前をつけるべき問題なんだから、そんなことは考えなくてもいい、というようなところなのかな、とは推測しておりますが。
でも、孤立化を解消するには他者との交流が必要なわけですよね。これを阻害しているのが「支配−被支配関係構造」の中にとらわれて、「他者を“手段”や“客体”と考える意識」であると(間違っていたら、ご指摘くださいね)。
としたら、「他者を“手段”や“客体”と考える意識」は解消されるべきものとなります。なぜなら、「支配−被支配関係構造」は解消されるべきものと、あっしら様はおっしゃっているから。結果的にこれが解消されれば、「家族の孤立化状況」も改善方向に向かいます。としたら、結果的にはあっしらさんは、「家族の孤立化状況」をも解消するという志向を潜在的には持っていることになります。
しかし、「他者を“手段”や“客体”と考える意識」(これは「私物化」としてゆらぎ様が定義されている概念に近いものだと思っていますが。違いがあるのならご説明ください)を解決する手段は、「経済状況の改善」ではない。
では、どうしたらよいのでしょう?」
私や誰かによって、「支配−被支配関係構造」が解消できるわけでも、「家族の孤立化状況」も改善されるわけでもありません。
「支配−被支配関係構造」の解消は、エリート層や「前衛」がしてあげれることではなく、一人ひとりが自らの智恵と活動によって実現することです。
(誰も、誰をも救済することもできなければ幸せにすることもできないのです。そんなことができると思っているものこそ支配者(エリート)意識の持ち主であり「カス」なのです。「私がみなさんを幸せにします」といった言動を吐くヤツは「カス」です)
このような思いから、「テメーラで落とし前を付けろ」と言っているのです。
(家族内で落とし前を付けろという意味ではありません)
「家族の孤立化状況」も、公権力やひとが外からどうこうやって解消する(できる)ものではなく、家族=人々が自分たちで解消するしかないのです。
(別に、地域の仲良しクラブを自分たちでつくれといっているわけではありません。都市で顕著なように、家族間が“競争”関係にもなっている現状では、孤立化や対立性は根底的にはなくなりません。表面的な相互扶助関係や仲良しクラブができる程度です。それはそれで意味はあります)
幼児虐待や殺人を解決しようとは一言も言っていません。(逆に、人の世では解決できないと言っているのです)
それを解決しようという発想は、みんなが天皇を崇敬するようにするのと、対象は違うとはいえ同種の価値観チェックや強制を求めるようになるからです。
国家機構が今できるし今しなければならないのは、生活条件としての「経済状況の改善」だと思っています。(それで、幼児虐待も少しは減るだろうと考えています)
【律さん】
「「家族」「個人」の自律性を重視なされるあっしら様にとってはもちろん、多くのほかの人々にとっても、監視社会化は望ましい状態ではありません。だから、まず、いきなり「監視社会」の話ではなく、虐待をする環境条件を取り除くことを考える必要があるわけですよね。ひとつには、あっしら様のおっしゃっている「経済状況の改善」です(これは幼児虐待の解決法として明示されていた)。しかし、おそらくゆらぎ様は、虐待の要因として「経済状況」だけでは説明できない部分があるから、そっちにも対処しなければならないだろうといっているわけですよね。」
ゆらぎさんは、持論や持説を訴えることはどんどんやればいいと思っています。
私が反対しているのは、子育てを面倒だとかうっとうしいと思う親に子育て放棄の自由を認め「社会」とやらが代わりに面倒をみることや、よその家族に内や人々の内面にまで踏み込まなければならないようなことを主張していることです。(後者を公権力でやらないのであれば、持論や自説を訴えることと実質的に変わらないので文句はありません)
【律さん】
「あっしら様のこの部分の答えは、親に「私物化」意識があったとしても、「子どもの自主性を尊重する意識」もあるという答えでした。これがその解決策ということでしょう。本当に「子どもの自主性が尊重される」のであればめでたしめでたしですが、なんかおかしいですよね?子どもを「私物化」する親の意識が虐待を生み出しているという話をしているのに、「そう思っていない人もいるのだから、大丈夫だ」みたいなのは。「意識」の話に「意識」で対抗するということになって、結局、批判は自分に返ってくるのではないですか。「子どもの自主性を持っている」から大丈夫、というのなら、本当にそういう意識を持っているかどうか一軒一軒調査しなければならないと(きっと大丈夫とは言っていないとか、おしかりを受けるんでしょうね。でもそう深読みしますよこれじゃ〜)。」
本当に理解力が欠けた人ですね(笑:びっくりしました)
「親に「私物化」意識があったとしても、「子どもの自主性を尊重する意識」もある」というのは、近代人の“自己分裂的精神”を意味したり、言葉だけの理解で内実をほとんど考えていない精神情況を揶揄したものです。
世間の論調が「子どもの自主性を尊重しなさい」である→“確かにそうかもしれない”→「子どもの自主性を尊重しなければ」という程度であれば、「子どもの自主性を尊重する意識」は広く浸透しているということです。
その一方で、子どもが塾をサボって遊んだのを知ったら叱り、それに子どもが反論したら叩くということは行うわけです。(その直後に、「子どもの自主性を尊重すべきだと思いますか?」と質問すると、その親も、疑問を感じず「はい」と答えるだろうということです。
そして、「子どもの自主性は尊重しなければならない」と心から思っている親に、“自主性”とはどのようなものか、“尊重”とはどうすることかと問えば、明確に答えられる人はあまりいないだろうと推測しています。
子どもに“自主性”や“個性”を認めると言っても、“自主性”や“個性”は「善」だと思っているだけ、自主性や個性の内実はあまり考えられていないと思っています。
※ 他の部分は、とりあえず別レスでぐにゃぐにゃと説明したということにさせていただきます(笑)