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(回答先: Re: 素朴な疑問 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 05 日 03:09:36)
あっしら様、阿呆がまた煩わせてしまったようですみません(笑)。
もうこの部分については別のところで答えてもらったものと思っていたのですが。
あっしら様***********************
まず、「幼児虐待」も暴力も殺人も、多様で種々雑多な感性・価値観・判断力をもった人たちが関わりあいながら生きている「社会」なのだから、あって欲しくはないと思っていても、そのようなことをする人がいなくなることはないという社会観を持っています。
(中略)
「幼児虐待」や暴力・殺人をなくすことが「善」だと考えて、多様で種々雑多な感性・価値観・判断力を、これなら「幼児虐待」や暴力・殺人をしでかさないと誰かが判断したある「感性・価値観・判断力」に統一するようなことは、目的さえ達成できずに、抑圧や支配につながるだけだと思っています。
(ひとの「感性・価値観・判断力」を完全に統一することはできず、仮にできたとしても、生の様々な局面で手や足が出たり罵りが口をつくことは避けられません)
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前半はそうだろうと思います。
でも後半は、ほんとうに抑圧や支配につながる「だけ」なんでしょうか。だって、「善」を主張する人のすべてが「思想の完全統一」などということを考えているわけじゃないですよね。これまでもいろんな人々がいろんな「善」を唱えてきたと思われるけれども、それを道具として抑圧・支配するのに使われた場合もあっても、逆にその主義主張を唱えることが弾圧の対象となることだってありましたよね。
それこそひとつひとつの「善」の主張は、「多種多様で種種雑多な感性・価値観・判断力」があるなかの一つの考え方であって、いかに多様な「感性・価値観・判断力」を含み込めるかどうかがその社会の活力になると思っています。
そうだとしたら、あっしら様が気をつけるべきことはある種の「感性・価値観・判断力」を「善」だと主張しているということではなくて、それを社会に「完全統一」しようとしているかどうか、ですよね。そして、相手の「価値」の中身自体は問題ではなくて、それを全体に「強引に」浸透させようという傾向を持っていないのなら、それでよい、ということなのではないでしょうか。しかし、私には「価値」自体を批判しているようにみえますけれど(理解の幅が狭いので間違ってたら済みません)。
あっしら様********************
だから、「私物化意識」といったような概念を持ち出して、それを解消すれば「幼児虐待」や「子殺し」がなくなるという考え方を“危険思想”だと非難しています。
「幼児虐待」や暴力・殺人はあって欲しくはないけど、それを“絶滅”するために公的機構や他人が諸個人や家族の内側に踏み込むようなことはすべきではありません。
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『絶滅』させるとまで言っていたのかどうかよくわかりませんが・・・・「絶滅」させようとしてなければ問題はないんですよね。
あっしら様*********************
私や誰かによって、「支配−被支配関係構造」が解消できるわけでも、「家族の孤立化状況」も改善されるわけでもありません。
「支配−被支配関係構造」の解消は、エリート層や「前衛」がしてあげれることではなく、一人ひとりが自らの智恵と活動によって実現することです。
(誰も、誰をも救済することもできなければ幸せにすることもできないのです。そんなことができると思っているものこそ支配者(エリート)意識の持ち主であり「カス」なのです。「私がみなさんを幸せにします」といった言動を吐くヤツは「カス」です)
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おそらく、「支配−被支配関係構造」の解消も人の世では解決できないたぐいの問題なのではないかという危惧を持っています。
エリート統治ではそもそも「支配者」がいるわけだから形容矛盾だし、一人一人が自らの知恵と活動によってのみしか実現できないのであれば、多種多様な人々の存在がありながらしかも、「互いの差異を認め合う」というのはかなり困難な道のりです。「認め合う」というのがポイントです。それこそ、家族間どころか、家族内すらも競争状況にあるのだから、これも人の世では解決できない領域の話ではないでしょうか。
たまたま目にしたリチャード・ハーベイ・ブラウン(社会学者)が「理想的な民主制においては、そうした(注:行為そのものの知識が集団や階級、地位を超えて伝達されるような)共同体は、集合的な生活領域内で全体人として行為している市民から構成されている」が、そうした共同体やコミュニケーションは今日では不可能であるとのべておりました。それは「諸集団のそれぞれの世界は、他の集団のメンバーにとって、それも、援助を提供したり連帯形成を求めたりする善意のひとびとにとってさえ、計り知れない謎」だからと総括していましたが、私もそんな感じに思っています。
あっしら様は本当に「楽しそうだと思う状態」を主張されているだけで、「世の中を救おうとは思っていない」のでしょうか。わたしには「救おうと思っている」人にみえますけれども。自分の限界を知りながら、それを主張する人々は、私にとっては、皆尊敬すべき人です(自分に何でもできると誤解している人は別ですが)。あっしら様が、議論される相手に対して気にされるべきは、相手がそのような「限界」意識を持っているかどうかのはずですよね。
あっしら様*********************
ゆらぎさんは、持論や持説を訴えることはどんどんやればいいと思っています。
私が反対しているのは、子育てを面倒だとかうっとうしいと思う親に子育て放棄の自由を認め「社会」とやらが代わりに面倒をみることや、よその家族に内や人々の内面にまで踏み込まなければならないようなことを主張していることです。(後者を公権力でやらないのであれば、持論や自説を訴えることと実質的に変わらないので文句はありません)
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「社会」は公権力なんですか?(「社会」とやらとかいってますが・・・・あっしら様の理解の「社会」とゆらぎさんの「社会」とが異なるという前提で話されているのですか)。
あっしら様*********************
本当に理解力が欠けた人ですね(笑:びっくりしました)
「親に「私物化」意識があったとしても、「子どもの自主性を尊重する意識」もある」というのは、近代人の“自己分裂的精神”を意味したり、言葉だけの理解で内実をほとんど考えていない精神情況を揶揄したものです。
世間の論調が「子どもの自主性を尊重しなさい」である→“確かにそうかもしれない”→「子どもの自主性を尊重しなければ」という程度であれば、「子どもの自主性を尊重する意識」は広く浸透しているということです。
その一方で、子どもが塾をサボって遊んだのを知ったら叱り、それに子どもが反論したら叩くということは行うわけです。(その直後に、「子どもの自主性を尊重すべきだと思いますか?」と質問すると、その親も、疑問を感じず「はい」と答えるだろうということです。
そして、「子どもの自主性は尊重しなければならない」と心から思っている親に、“自主性”とはどのようなものか、“尊重”とはどうすることかと問えば、明確に答えられる人はあまりいないだろうと推測しています。
子どもに“自主性”や“個性”を認めると言っても、“自主性”や“個性”は「善」だと思っているだけ、自主性や個性の内実はあまり考えられていないと思っています。
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あえてあの一文を曲解して提示しましたが、ちょっとやる場所を間違えたかもしれませんね。済みません。お書きになられていることは了解です。
この部分で言いたかったことは、別稿で答えて頂いたようなことと同じことです。
あっしら様が主張なさっている「理想」と、ほかの方が主張なさっている「理想」、またその論の提示の仕方については、それほど大きな違いがないように見えますよ、ということです。もし、根本的に違いがあるというのなら、どこが違うのですかということを聞きたかったということです。この点についてはある程度答えて頂いたかとは思います。
ここにこられている皆様は、私と違って、豊富な知識と思考力・洞察力によって、ご自分のご意見を形成されてきているものと思います。それぞれに自負がおありでしょう。私にとってみれば、どなたも尊敬すべき方々です。そして、それぞれのお立場で「社会」の来し方行く末を見据えておられるわけですよね。
あっしら様のご意見は私にとっても賛同できる部分が多々あります。が、なにか、ご自分だけ特権的立場にあるかのように論じておられるように思われ(それがスタイルなのかもしれませんが)、それでは、ご自分がおっしゃっている「差異を認め合う」あるいは「エリート主義的立場はカス」という態度となんだか齟齬を来しているように感じるので、僭越ながら、もったいないというか、残念な印象を受けています。
まったくもって、失礼の極みでありますが、以上のように思ってしまったので「素朴な疑問」として質問させて頂きました。先述しましたように、ある程度お答え頂きました。完全に納得できてはいませんが、そのような論述スタイルを確立されておられるのだろうと解釈しております。
ありがとうございました。