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(回答先: 「あっしらさんへ」”彼ら”やお金の問題を踏まえて主ー客構造のおさらいを少し。特に彼らの冷酷さについて。 投稿者 オニオン 日時 2004 年 6 月 25 日 17:49:18)
オニオンさん、どうもです。
●【なぜ彼ら(金融家)はあのように冷酷に成れるのか】
チェイニー、パール、ウールジーそしてカソリックの枢機卿たちの“爬虫類顔”におぞましさを感じない人の感性や美意識を疑うくらいです(笑)
“彼ら”があれほど冷酷無比になれるのは、「支配−被支配関係構造」を超えた価値観・世界観を基礎にしているからだと思っています。
日本をはじめとする儒教圏で徳が重視され、そうであることをめざす支配者も少なくなかったことからわかるように、「支配−被支配関係構造」の支配者だからといって、冷酷なわけでも非道なわけでもありません。
堕落や腐敗が付き物とは言え、ほとんどの「支配−被支配関係構造」が、外的要因(防衛)の必要性や“自然”的形態として理解され、今風の字義としての支配をめざすものではなかったはずです。支配者も、被支配者を客体化して考えていたとは言え、共同体性意識を持っていたということです。
オニオンさんが指摘された「人が人に対して冷酷になるには自分と相手との間に一体感が無く、分離、独立意識が醸成されているときと言えるのではないか。つまり自分と他者の間に双方向的な関係性(共同体性)が認識できず、相手を何かの対象としてしか認識できない状況。これは自分を主体とし、他者を客観と観ている状態とも言えそうです」は、“彼ら”の心性を理解する鍵になります。
“彼ら”を寄生者と呼ぶわけもそこにあります。
寄生者だからこそ、「双方向的な関係性(共同体性)が認識できず、相手を何かの対象としてしか認識できない」ことになってしまうのです。
そして、そのような「支配−被支配関係」から醸成される被支配層の違和感や憎悪が“敵意”とならないために、宗教や思想などで正当性を刷り込もうとします。
一方、冷酷無比の“彼ら”とて同じ人ですから、人が持っている感情や理性を共有しています。いくら強欲だとは言っても、自己嫌悪や精神失調に苛まれる苦は耐え難いはずです。
このため、“彼ら”も宗教や思想に依存することになります。それは、安定的な支配の道具として被支配層に刷り込む宗教や思想とは別種のものです。
インサイダーではないのでたぶんですが、基本は、エリート思想ないし選民思想です。
それによって、自分たちは被支配層とは別の存在であると素直に考えられるようになり、エリートや選民ではない愚かな被支配者たちを支配するのは当然であるを超えて義務だと信じられるようになります。
●【お金と「彼ら」その関係】
>太古の昔と言えど共同体間には活発な交易があったと推測されます。
>(農本)共同体は、その身を外敵から守るため武器とその原料(銅や鉄)を手に入れ
>る必要があるからです。身を守る武器なくして初期の共同体、ひいてはその後の文明
>も成立しなかったでしょう。そしてこの共同体間の交易にこそお金の起源が在ると考
>えられるのではないか。また、その交易を司っていたであろう商人こそ彼の根源的
>(精神的、思想的)なルーツにあたるのではないか。
人は好奇心旺盛だし、遊牧民は移動性に富んでいますから、太古より共同体間に交流があったと考えています。
初期の共同体は、動物から身を守るための武器は必要としても、人から身を守るための武器は必要としなかっただろうと考えています。
人から身を守るための武器を必要とするようになったのは、外部共同体との敵対的な交流を経験してからだと推測しています。
貨幣は、共同体間交易にルーツがあると考えています。
(初期貨幣は“歩く貨幣”=家畜だったろうと推測しています)
>さてこの古代の商人の方々は自分達以外の共同体をどのように認識したでしょうか。
>初めは良いお得意さんとして仲間意識を持っていたかもしれません。しかし、時がた
>ち【お金というものも生まれて(ここが重要?)】人口も増加し共同体(都市国家?)
>の数も増えてくるころには、各地域共同体は、儲けを手に入れるための対象としてし
>か認識できなくなったのではないか(つまり仲間意識から、主ー客意識への変容)。
>まるで近代人が他者を儲け得るための手段(存在)として見るようになったように。
都市国家の興亡史でもあったオリエントが、都市国家(共同体)間に「主ー客意識」を醸成したであろうとの想像は難くありません。
しかし、それを商人ないし商業活動とダイレクトに結びつけるのは“危険”かなと思います。
継続的な商業活動とりわけ遠隔地間媒介商業は、売り手と買い手に信用されることが重要な要素になります。駆け引きも重要だとは言え、売り手や買い手が存続できないような商法は自身の破滅にもつながります。
悪としての「主ー客意識」は、商業活動よりも、略奪や支配拡大のほうが効率がいいという現実的判断から生まれたとみます。
商業活動は対価が必要で利益もそれほど厚いわけではありません。どのみち軍事力を保有しているのなら、それを使って、タダで略奪や支配拡大を達成したほうがいいと考えるのは“自然”です。
● 【近代は人を彼ら(モドキ)にする】
>人がお金を得ることを目的に活動する。自然、他者を利潤を得るための対象としか見
>なくなる。そして人と人との繋がりがお金を介する事でどんどん抽象的なものと成っ
>ていく。共同体が崩壊し、他者に対する配慮を失う。
>まさに共同体性の崩壊であり、亡国ですね。ついでですが、近代の自然破壊の遠因も
>ここにあるかも知れません。
共感しつつ同意です。
● 【お金が主ー客意識を醸成す】
>お金が「人類最大の発明」と言われる理由は、価値の保存機能とその交換性にありま
>すが、それこそが「主−客意識」を醸成する一番の理由と言えるのでしょうね。
貨幣の恐るべき機能は、価値保存でしょうね。
この徹底的に理に反した機能が、貨幣を支配力の源泉にするとともに、経済(生存)活動を歪めまくっています。
保存できない労働の仮初の表象(記号)でしかない貨幣が保存できるというとんでもない欺瞞に気づく必要があります。
(食べてしまえばなくなってしまうもののために支払った貨幣がいつまでも保存できるということに異様さを感じないものでしょうか?)
貨幣の怖さは、「主−客意識」を醸成するというより、「主−客意識」をも破壊しかねい超越性にあります。
「金さえあれば問題ないように感ずる」意識が他者の存在性を失念させ、“貨幣崇拝”に導きます。
ユダヤ教やイスラムといった超越神宗教が信仰される素地、というより、超越神宗教が創り出された基礎は、貨幣を軸とする商業活動から醸成される価値観だと考えています。
>本来なら労働して何かを生産してもそれを使う(消費)人がいなければ無意味なこと
>です。またお金があっても(自分には作れない)必需品を生産してくれる人がいなけ
>れば生きていくことすら出来ません。なのに人と人との間にお金が入る(お金の交換
>性)事でそれが見えずらくなる。
● 【解決策は?】
>なかなか、簡単には思いつかないですね、、(苦笑)
一人でも多くの人が、書かれたような現実の在り様を理解し、それに心から共感することが出発点です。
それが、“彼ら”が刷り込もうとしている思想や価値観を斥け、現実の奇妙さや異様さを素直に認識する唯一の道です。
それだけで間違いなく解決できる“とんでもなく困難な”問題です(笑)
(必ずしも鉄砲をぶっ放すひつようはないんですから...)