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(回答先: 正統の哲学Dハイエクの遺言―「法の支配」と「法治主義」とは似て非なるものである― 投稿者 竹林の一愚人 日時 2004 年 6 月 22 日 12:31:47)
竹林の一愚人さん、どうもです。
現代を深く考える契機となり得る刺激的なシリーズ論考を投稿していただきありがとうございました。
左翼やリベラル左派に近い政治的価値観をお持ちの方も少なくないはずなのに、今のところ、シリーズに関して議論がはずんでいないことを少し寂しく思っています。
そのような状況こそがシリーズに通底する“絶望”の正当性を示すものかもしれないと嘆息しています。
叫ぶのも走るのもいい、でも、その前に知るべきことや考えることがあるだろうと、代わって(誰に?)言いたい。
最低限でも、今回のシリーズから、保守主義や保守主義的自由主義をぷっと笑い飛ばしたりクソな反動思想と打ち捨てても革命はできるかもしれないが、シリーズで言う正しい意味での革命は達成できないことを理解する必要があると思っています。
敵や「悪」は倒すものではなく溶かすものである、という身構えができないものには革命に関わって欲しくないと思っています。
(従来的な敵対活動は、断言しますが、敵や「悪」に倒されたり利用される範囲を超えることができないからです)
例によってですが、ハイエクの考え方は、基本的に、反全体主義の政治的パンフレットと言える『隷従への道』を通じてしか知りません。
「自由」を盾にした反全体主義や反集産主義は受け容れられますが、経済効率を根拠とした反全体主義や反集産主義は論理的に破綻している内容なので克服されるべきものだと判断しています。(この意味で、『隷従への道』は政治的ないし思想的プロパガンダを超えるものではない)
>○「適法」であるだけでは「法の支配」の下にあるとはいえない(『自由の条件』より)
>ハイエクは、この「法の支配」の観念が現代では喪失されてしまったことを嘆いてい
>ます。立法府で制定された法律は、すべて「合法」として通用してしまう。憲法それ
>自体も立法府によって制定されるのだから、「法の支配」などあったものではありま
>せん。
まさに民主制が行き着く先であり、多数による「専制」ですね。
「法」が家族やグループでの取り決めと同じように受け止められ、国家(政治権力)が人々を規制したり強制する“根拠”であることが失念されていることから生じる悲喜劇です。
国家(政治権力)が人々に手出しできる範囲は、隣人に手出しできる範囲が自ずと定まっているように、限定的なものであるはず(べき)なのに、民主主義的手続きという形式性を支えにすることで制限がゆるゆるになっていく。そして、人々はそれを“善きこと”と歓呼する。
(「世界は一家、人類みな兄弟」というスローガンは、“俗耳”には人道的で心地よいものであっても、政治権力の無制限な手出しを認めてしまう心性を醸成する極めて危険な「思想」なのです)
その一方で、民主制で主権者の全員賛成でも許されない立法とは?、「“立法それ自体”が“法”による制限を受ける」範囲は?、「“憲法それ自体”が無効である」根拠は?という難問があります。
とりわけ、そのような思惟をめったにしない“大衆”が主権者である近代民主制においては、難問の解で合意形成することそのものが難題になってしまう。
>ハイエクは「自由」の定義として、他者から強制されることができる限り少ない人間
>の状態であるとしました。この状態を実現するためには、人々は他者の恣意的な命令
>ではない一般的ルールに従わなくてはならないが、この一般的ルールと政府機関を動
>かすルールとは別物であることを彼は説きます(国家と社会の区別といっても差し支
>えません)。
これが難問に対するハイエクの解の一部でもあるわけですが、生きるために、他者から強制される日常をおくらなければならない人が圧倒的多数になっている「近代」でどこまで通用性(合意形成可能性)があるかと考えると、空論の域を越えないと判断せざるをえません。
民主国家が、“法”による制限を超えて“立法それ自体”を行うのも、無効である“憲法それ自体”を制定してしまうのも、主権者たる国民の圧倒的多数が他者から強制される日常をおくらなければならない現実に身を置いているからではないかと反論できます。
言い換えれば、他者から強制されることができる限り少ない生存条件(ハイエク流に言えば資産)を所有(保有)していない主権者(人々)が圧倒的であることが第一の問題になるという指摘です。
(そこから、ある人々は、自分はどうせ何も持っていないのだからと共産主義(生産手段の公有)に吸い寄せられ、また別の人々は、持っている人の資産引き剥がしを熱望するようになる)
現在のような高密度で多岐な社会的分業構造は、持てる者とて、「他者から強制されることができる限り少ない人間」として生きていけないという洞察も生まれます。
>そして、一般的ルールには従うが他者からの恣意的強制はない「自由社会」の秩序を
>「自生的秩序(spontaneous order)」とし、特定の目的を持った(貧富の差をなく
>すなどといった)立法をこの社会に適用することは、漸次国家の強制を強めていくも
>のであるといいます。
といいつつも、貧富の差をなくさないで国民経済を維持しようとしたら、国家が借り入れで財政支出を増やし、金持ちが使わないために生じる貨幣不足(需要不足)を補わなければならない。
そして、金持ちや企業は、増税で吸い上げられるよりもそのほうがいいと判断するのみならず、自分たちの所得が増えるよう赤字財政支出の増加を迫る醜態さえ見せるようになる。(それが国民のためであるという“高貴な嘘”を吐きながら..)
前近代には確かにあった「自生的秩序」は、今やハイエクの頭のなかだけにあるもので、いくらもっともらしくとも懐かしむ対象でしかないとも言えます。
(「自生的秩序」に従って生きていける少数派の資産家さえが、「自生的秩序」を足蹴にしている現実なのですから...)
ハイエクが語るべきは、「自生的秩序」を回復できる条件であって、存在しない「自生的秩序」を盾に現実を批判することではない、と思っています。
>○「自由社会」の存続に必要な3つの洞察(『法と立法と自由』より)
>一般的ルールとは、たとえば民法でいえば、旧民法なら長子単独相続、新民法なら均
>分相続というように、あるいは刑法であれば人を殺してはならない、といったような
>特定の意図から独立したルールのことであります。
長子単独相続から均分相続へのルール変更も、「自生的秩序」に抵触する「計画政治」と言えないこともありません(笑)
農耕民に定着した長子単独相続制そして遊牧民に定着した末子相続制は、それぞれが「自生的秩序」で、それを変更することは人々の生活様態をある意図で変えていくものです。
余談ですが、近代刑法のすごさは、「人を殺してはならない」ではなく、「人を殺した者は○○の罰を加える」と、背後に善悪観念を含意しているとしてもそれを表には出していないことです。(まさに、「思想信条の自由」であり「価値自由」です)
>何でもかんでも政府の権力を制限することは、対外勢力に対して自国を脆弱にします。
>使うべき権限は使ってもらわなくてはなりません。しかし、政府機関に対する命令と、
>社会秩序に関する“法“とは、明確に区別されねばなりません。
区別できる人々が多数になり、「他者から強制されることができる限り少ない人間の状態」の創出に向かうようになることを待望しています。
その区別ができるのなら、暫定的ないし過渡的な政策も「専制」的ではないものとして遂行されるようになるはずです。
>ハイエクは、この区別を徹底するために、それぞれ独立した議会を設けるべきだとさ
>えいいます。現代民主制においては、そうすることにおいてしか、「法の支配」・
>「法のもとの平等」を実現することはできないと断じています。
制度で解決できる難問ではないので、これは夢想ですね。
仮にそれが民主的手続きで承認され、「上院」は非民主的手続きで哲人王候補者が選ばれ、「下院」は現在と同じ民主的手続きで選ばれるとしても、自他ともに認める哲人王候補者がまともである保証はないからです。
(せいぜいが小賢しい智恵や「高貴な嘘」で決められることになります。なぜなら、現実がそのような条件ではないからです。国民国家として存続しなければならないという絶対命題が、哲人王候補者をも押し流すことになります)
繰り返しで、亡くなってしまった今では繰言にもなりますが、ハイエクが語るべきは、「自生的秩序」を回復できる条件であって、存在しない「自生的秩序」を盾に現実を批判することではない。
竹林の一愚人さん、ほんとうにありがとうございました。
新しい企画を心よりお待ち申し上げております。