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あっしらさん、今回が最終回ということになるますが、まず冒頭に、5回にわたり懇切に付き合っていただいた感謝を申し上げたいと思います。
さて、フリードリヒ・A・ハイエクでありますが、彼についてはなんといっても社会主義の思想的誤謬を痛烈に批判した『隷従への道』(ちなみにこの言葉はトクヴィルの叙述にヒントを得たものであるという)が有名ですが、彼の学者としての生涯を考えた場合、この著作はスタートに過ぎなかったといえます。「法の支配」、「法のもとの平等」を基調とする「自由社会」を実現し、存続させ、発展させるにはどうしたらよいか、という彼の探求は、『自由の条件』・『法と立法と自由』によって集大成されるのです。
○「適法」であるだけでは「法の支配」の下にあるとはいえない(『自由の条件』より)
【法の支配とは、すでに知られている規則の実施を除いては、決して個人を強制してはならないということを意味しているのであるから、法の支配とは立法府の権力を含めて、あらゆゆ政府の権力の限界を設定している。〔中略」もちろん、法の支配は完全な適法性を前提としているが、これだけでは十分ではない。もし、ある法律によって、政府に対してその好むままに活動する無制限な権力が与えられたとしたら、政府の活動はすべて適法であろうが、それは法の支配のもとにあるとは明らかにいえないであろう。したがって法の支配とは立憲主義以上のものである。それは、すべての法律がある原理に従うことを要求する】
はじめに余談ですが、英米法を研究している伊藤正巳氏によると、彼の友人であったかつての日本の最高裁長官ですら、「法の支配(rule of law)」の真の意味を理解していなかったといいます。この原理は、ローマ法の受容を拒否したイギリスにおいて、法官であったコーク卿によって確立されたものであるそうですが、それは“立法それ自体”が“法”による制限を受けるとするものであり、“憲法それ自体”が無効であるということすら起きます。
ハイエクは、この「法の支配」の観念が現代では喪失されてしまったことを嘆いています。立法府で制定された法律は、すべて「合法」として通用してしまう。憲法それ自体も立法府によって制定されるのだから、「法の支配」などあったものではありません。
ハイエクは「自由」の定義として、他者から強制されることができる限り少ない人間の状態であるとしました。この状態を実現するためには、人々は他者の恣意的な命令ではない一般的ルールに従わなくてはならないが、この一般的ルールと政府機関をを動かすルールとは別物であることを彼は説きます(国家と社会の区別といっても差し支えません)。
そして、一般的ルールには従うが他者からの恣意的強制はない「自由社会」の秩序を「自生的秩序(spontaneous order)」とし、特定の目的を持った(貧富の差をなくすなどといった)立法をこの社会に適用することは、漸次国家の強制を強めていくものであるといいます。
「自生的秩序(spontaneous order)」を、ハイエクは別のところでは「自己増殖的秩序(self-generating order)」、あるいは「自己組織的構造(self-organizing structures)」としており、これは人が意図して形成したものではないから、また意図して廃したり、意図して設計したりしてはならないとします。「計画経済」と同じく、「計画政治」を批判しているのです。
○「自由社会」の存続に必要な3つの洞察(『法と立法と自由』より)
【自由人から成る社会の存続はこれまで十分に解明されてこなかった三つの基本的洞察に依拠する〔中略〕その洞察の第一は、自己増殖的または自生的秩序と組織とは別ものであり、その差異はそれらを支配する二つの異種のルールもしくは法に関係づけられるということである。第二のものは、今日一般的に「社会的」正義または分配の正義とみなされているものが、この種の秩序の第二のもの、すなわち組織の範囲内でしか意味をもたず、アダム・スミス(Adam Smith)が「偉大な社会」と呼び、カール・ポッパー卿(Sir Karl Popper)が「開かれた社会」と呼んだ自生的秩序のなかでは意味をもたず、まったく両立しないということである。第三は、同一の代表機関が正義にかなう行動ルールを制定し政府を指示する、自由主義的民主制度の典型的モデルは、必然的に、自由社会の自生的秩序を組織化された利益のある連合への奉仕に導く全体主義的体制へと、漸次、変換していくということである】
「自生的秩序(spontaneous order)」と組織を区別し、前者には一般的なルールしか適用してはならないとするのがハイエクの立場であります。一般的ルールとは、たとえば民法でいえば、旧民法なら長子単独相続、新民法なら均分相続というように、あるいは刑法であれば人を殺してはならない、といったような特定の意図から独立したルールのことであります。
ところが、現代の立法のほとんどは、そうした一般的ルールではなく、具体的命令でしかないものであります。年金に関する法案、道路公団に関する法案…いずれも一般的ルールではありません。しかし、いずれも立法府によって制定されたということをもって「合法」となります。
何でもかんでも政府の権力を制限することは、対外勢力に対して自国を脆弱にします。使うべき権限は使ってもらわなくてはなりません。しかし、政府機関に対する命令と、社会秩序に関する“法“とは、明確に区別されねばなりません。ハイエクは、この区別を徹底するために、それぞれ独立した議会を設けるべきだとさえいいます。現代民主制においては、そうすることにおいてしか、「法の支配」・「法のもとの平等」を実現することはできないと断じています。
とりあえずこれで、「正統の哲学」シリーズは終了とさせていただきます。また気が向いたらひょっこり顔を出させていただきます。
有意義な議論をありがとうございました。頓首。