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世界貨幣=近代の終焉?
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投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 6 月 22 日 18:01:22:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 「どこから利潤が上がろうと問題ではない」という柄谷=岩井的言説について:バルタン星人さんへ 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 20 日 13:17:06)

あっしらさん、いつものことですが詳しいレス感謝します。 バルタンです(この間の熱さと暴力的なエアコンのせいで体調最悪です)

(承前)
>ここまでの説明は、経済活動が今なお国民国家を基盤として行われていることを
>再確認したものと受け止めていただければ十分です。
了解です。異議ありません。
前投稿のベイリーですが各商品が対置された差異の体系=共時間的構造=価値というのはある意味で非常に「魅力的」です。(極一部に対してだけとは思いますが)これはソシュールの言語論と酷似していて、このとおりだとベイリーは元祖構造主義になってしまいます。こうなるとベイリーの主張なのか岩井克人がベイリーをとおして自分を語っているか判らなくなってきますがこの穿鑿はおいて柄谷と岩井の対談(「貨幣、言語、数」)で岩井は「単一の言語をしゃべる貨幣」という概念を開示したあと「事実上の世界言語としての英語」について語ります。柄谷は言下に否定して「それはドル本位制のようなものでしかない」と言い「あなたが経済学者としてしゃべっていないことは判る」と切り返します。そんなことは文学者や政治思想家?が夢想することだというようなことでしょうか。
あっしらさんの議論は国民国家という形で分節された共同体間の「価値体系の差異」が利潤を生むと言うことも出来ると思いますが、それは「世界貨幣は絶対に不可能」であることの証明ですが、逆に「世界貨幣」がもし成立すれば「近代の終焉」がやってくるということになりませんか?

あっしらさんのいう「重商主義」という言葉に引っ掛かるのは何故かと「精神分析」してみました。重商主義=重金主義による金銀の退蔵にたいする嫌悪は「共同体と共同体の間における交換」が不等値交換であり不道徳な詐術である、金銀はその極めて安定した化学的物質(防錆メッキ、食器)であるという希少性以上の価値はない。金銀という物神の正体を白日の下にさらけ出し、物神信仰の蒙昧さを嘲笑し理性の勝利を高らかに歌い上げるというのがアダムスミス=古典派による「仮象批判」の「刷り込み」だったと思います。汗して労働して得られた商品群が「国富」であるなら「労働価値」も極めて実体主義的なものにならざるを得ないでしょう。たしかに膨大な大な商品は富としてある。しかしこれも「詐術」ではないのか?「実際には売れていないのに売れたことにしている」のではないか、確に個別資本家が「自分は労働力再生産以下の最低の賃金しか払いたくないが、自分以外の資本家がより高い賃金を労働者に支払う」という「価値体系」の違い(購買力)から利潤を得る事を熱望した様に、個別資本家間あるいは都市と農村など労働力再生産費用の異なる国内的な価値体系の差異からも利潤は生まれるかもしれない。(残存している共同体が退蔵している財貨の吸出し)しかしそれはすぐ平均化し食い潰されてしまう。これはテクノロジーを梃子にした技術革新という絶え間無い自己差異化の脅迫的な動機づけになりますが、これは問題の拡大再生産であり「ところでこの商品は誰が買うんだ」と言ったとたんに商品恐慌が起きます。(「君達はあれほど金銀を幻想と批判しながら 鹿が清水を求めて鳴くように何故また欲しがるのだ!」)
この商品の奔流があっしらさんの書かれたインドの伝統的手工業=共同体の破壊をもたらし、吸い取り紙の様に財貨を掻き集めたことになると理解しています。(剥き出しの暴力で奪い取るより継続的かつ効率的に)重商主義(狭い意味)は略奪だったけど産業資本主義は等価交換だから「銃で脅かして買わせているわけじゃあるまいし。消費者に安価で良質な製品を提供する、何が悪いんだ!この抵抗勢力」です。この「差額」が不透明なシステムを介して個別資本の利潤と言う形で分配され、ようやく「剰余価値=労働価値」が実現されて(しつこくてすいません)サイクルが一巡するのではないかと。

今、労働組合が総崩れなのは「差益、差損」とか変に経済に明るくなって「経営者の視点」でまるで自然現象のように見えるから「社長を責めてもしかたないよ」とか物分かりが良くなってしまったのかもしれません(サカサにして振り回せばジャラジャラぐらいは出そうな気がしますが)
あと、たとえ売れなくてもシシローストラップと言う商品を持って市場から退場できる「産業資本家」は「とりあえず売れたことにして」決済を先送りすることが出来ますが(もちろん無限に先送りは普通詐欺といいます)労働力商品というナマもの以外売るもののない賃金奴隷は「今、ここ」で処分しない限り今日という1労働日は永遠に失われてしまうわけですから。つまり「死に関わる存在」は時間を退蔵できない。「支配─被支配」というのは時間性にも関わるものでもあると。

>世界「総資本」を対象とする国際金融家の目ではなく、一国「総資本」を対象とする
>国家主義者の目で見ていきます。(原理論的には同じですが、そのほうが、現実論と
>してわかりやすいし、現実的な意味も大きい)
詳細な解説ありがとうございます。私以外の読者にとっても有用なものであると思います。
前回の「市場と貨幣が成立した世界が経済学の前提」は「最初の一撃」であるとともに実は「このいま」として不断に反復されていることでもあります。電流の流れは電子の動く方向と逆方向というのがありました。自由電子が移動しているように見えるが実はホール(正孔)という欠乏の「移動」であるように、巨大な商品群は決済されるべき巨大な 「空乏」を産み出しているとも言えないでしょうか?当然それは、コマが回転を止めて倒れない限り決済され一部は「信用」や経済外的条件によって未来永劫にまで先伸ばすことが可能かもしれません。(米国商務省債券の最大の引き受け先が日本であるというのは確認する必要もないことですが)
岩井が経済小説と呼ぶ近松の作品ですが「堅い商いをしている夫婦が大晦日に帳尻をあわせたら差引持金ゼロ(売る商品は持っている)ところが勘違いで、木戸を閉めてから取り立てが来て”二十文?(端金)払ってくれ”と言われます。困窮した夫婦は”松の内が明けてからにしてくれ”と頼むのですが相手も”年が越せない”と帰りません。ついに金が無いことを打ち明けると怒った相手は”XX屋は一文無しだ”と叫びながら町内を走り回り、夫婦が破滅することを暗示して終わります。」たしか映画かテレビで見たのですが記憶の彼方。
必ずつまずく、破綻するなどと言いたいのではないわけです。収支が瞬間的にゼロでもマイナスでも全く問題がないのであり、もし破滅=世界の終わりがあるとしたら法則や必然とは全く無関係な事件性、偶然性にしかなく、貨幣物神が死んで商品を抱えた他人が無媒介に向き合うという「生き地獄」であろうと思うだけです。


>ユダヤ教が同胞愛を語り同胞からの利息取得を禁じ、イスラムが共同体性を強調し
>金持ちの貨幣退蔵を非難して喜捨を勧め、やはり利息取得を禁じている“直観”
>(啓示のこと)は、身内からの利益や貨幣退蔵が、民族や宗教共同体の全体に
>とってまったく益にならないどころか害であり、ひいては金貸しや大商人の損
>にもなるという現実論理に基づいています。
「人間の本質は社会的諸関係の総体」ですから諸個人は「関係の束」(浅田彰)とも言えます。「共同体」とはとりあえず「国民国家」ですが、そのなかも無数の共同体に分節されていて個人が同時に多くの共同体に所属しています。これは地理的、空間的な制限はありません。
高校生の時,地元工務店で一夏バイトしたのですが、社長(親方)をはじめ職人さんは全部ある離島の出身者でした。昼休みに話を聞いていると「たばこや煙草屋の娘の誰々が漁協の事務やってた誰々の息子と一緒になって名古屋にいるが、子供が生まれたらしい」「今度電話して祝いを送ってやらにゃ」とか話しているわけです。集団離島したのでそんな集落はもうないのです。電話(当時)というテクノロジーが共同体のリソースになっているわけで、後から「あの人たちはさまよえるユダヤ人か」と思ったりしました。
私の血縁者の一人が商売が上手く行かなくなり親戚中頭を下げて借金に回ったのですが、うちの親父は断れずに貸したのですが利子も取らない/取れないし、結局返ってこなかった。裁判やるわけでもなしほとんど贈与です。そのかわりというか商売物の食い物をいやというほど送って来ました。原価いくらだから換算していくら分返済という意識はなかったと思います、「返礼」でしょう。とても食い切れないから母親はいつもご近所に「贈与」してましたけど。その息子とは時々会いますが「いやー叔父さんには悪いことをした、今度一緒に飲みに行こう」って言われても近代主義者の意地があるから「いいよ、昔のことは」なんて死んでも言わない。そのせいかまだ一回も返礼してもらってないんですけど。(笑)

>世界の「総資本」をリアルなものにしようとするグローバリズムは、重商主義の否定
>でもあります。
世界を覆う「帝国」がなにか勘違いして「世界通貨」を発行したら、経済活動はあるが利潤も利子も生まない共産主義へ平和的に移行して...という事までネグリが妄想していたとすれば、それはそれで大したことかもしれません。(何が大したかはともかく)
「実践」を断念し大英博物館の椅子に穴が空くほど座った方はまず現実の批判-知ることで世の中に線を引こうとしたわけで、カントが言うように「知ることは絶望する事でもあるが前進である」という「過酷な楽観主義」で行くしかないのかと思っています。

冒頭に書いた事情で少し引っ込んでから出直します。

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