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(回答先: 世界貨幣=近代の終焉? 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 6 月 22 日 18:01:22)
バルタン星人さん、どうもです。
体調最悪だとのこと、お大事にしてください。
それを考慮してというわけではありませんが、擦り合わせ的なレスを続けさせていただきます。
● 「産業主義近代」の終焉
いただいたレスのタイトル「世界貨幣=近代の終焉?」について、まず..
ドルやユーロを超えた正真正銘の「世界貨幣」が誕生するかどうかは、「近代」(産業主義近代)の終焉には直接かかわらないと考えています。
このままドルを基軸としながらのユーロ・ポンド・円といった多角的国際通貨構造が続いても、「産業主義近代」は終焉を迎えることになります。
産業活動が世界支配層の効率的な資本増殖手段である時代は、ほどなく(10年ほどで)終焉すると予測しています。
これは同時に重商主義の終焉でもあり、だからこそ、金融主義を基礎とした「世界貨幣」が確立されることになります。
「世界貨幣」は、ポスト「産業主義近代」の「近代」において、世界支配層がスムーズに貨幣的富を増大できるよう確立されるものです。
(世界支配層は、貨幣的富の増大を目的としているのであって、産業の発展を目的としているわけではありません。産業の発展は、貨幣的富の増大という目的を効率的に達成する手段でしかありません)
>あっしらさんの議論は国民国家という形で分節された共同体間の「価値体系の差異」
>が利潤を生むと言うことも出来ると思いますが、それは「世界貨幣は絶対に不可能」
>であることの証明ですが、逆に「世界貨幣」がもし成立すれば「近代の終焉」がやっ
>てくるということになりませんか?
「産業主義近代」は、産業資本的利潤がスムーズに得られない経済主体の増加や、産業資本的利潤獲得競争が人々の生活を困窮に追い込む状況の深化によって終焉します。
ほどなく、「産業主義近代」として“利潤なき経済状況”ないしは“利潤が嫌われる情況”が生まれます。(それまでは生きていたいと願っています(笑))
このような見通しを持っているので、「社会主義世界」の到来を予測しています。
それは、共同体間の「価値体系の差異」を貨幣形態として捉え、それが消滅からというわけではありません。
それがなぜかは、現時点では、このスレッドである「どこから利潤が上がろうと問題ではない」という柄谷=岩井的言説について:バルタン星人さんへ」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/322.html )や「必読!日本への警告!:「産業資本的重商主義の終焉」を理解していたヒトラー:「輸出貿易は他国の近代化とともに消滅する」」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/297.html )を参照してください。
共同体間の「価値体系の差異」というより、共同体間の「電位差」を考えたほうが見えやすくなるはずです。
(貨幣は価値の表徴ではあっても価値そのものではありません。今となっては物神性もなく、社会的分業(諸個人の分断)に支えられた統合記号とも言えるものです)
「電位差」が少なくなくなるというのは、すでに脱落したところは別として、諸国民経済の経済状況が平準的になるということです。
「産業主義近代」がそれなりに信仰されたのは、先進国だけが良い目を見たわけではなく、搾取されているとされた後進国もその恩恵を感じたからです。そして、そのような関係性を支えたのが「電位差」だったと考えています。(詳細な説明は後にさせていただくつもりです)
「産業主義近代」の終焉は世界支配層から産業資本利潤を我が物にする機会を奪いますが、“彼ら”の実体は金融家ですから、産業資本利潤に匹敵する利息を得られるのなら無問題です。そして、それはポスト「産業主義近代」でも可能で、「世界貨幣」はそれを確かにする手段になります。
● マルクスの剰余価値説の誤り
【バルタン星人さん】
「この商品の奔流があっしらさんの書かれたインドの伝統的手工業=共同体の破壊をもたらし、吸い取り紙の様に財貨を掻き集めたことになると理解しています。(剥き出しの暴力で奪い取るより継続的かつ効率的に)重商主義(狭い意味)は略奪だったけど産業資本主義は等価交換だから「銃で脅かして買わせているわけじゃあるまいし。消費者に安価で良質な製品を提供する、何が悪いんだ!この抵抗勢力」です。この「差額」が不透明なシステムを介して個別資本の利潤と言う形で分配され、ようやく「剰余価値=労働価値」が実現されて(しつこくてすいません)サイクルが一巡するのではないかと。」
労働価値説は論理的に正しいが、剰余価値説は論理的に誤ったものと考えています。
「この「差額」が不透明なシステムを介して個別資本の利潤と言う形で分配され、ようやく「剰余価値=労働価値」が実現」という見方は、新プラトン主義の流出論的考えとしては理解できるのですが、のすでに剰余価値説を超越しているというか、剰余価値説から逸脱していると判断します(笑)
剰余価値説の論理的な誤りをいくつか指摘します。
まず、「不払い労働分」という考えですが、これは、賃金労働者は労働の主体ではないという視点が欠落したものです。
賃金労働者はあくまでも機械と同じ手段であり、合目的的な活動である労働の主体は資本(家)なのです。
倫理的には「不払い労働分」という指摘は間違いではありませんが、ある時間提供する労働力の対価を受け取ることですべてを資本(家)に委ねているのですから、経済論理としては誤りです。
(剰余価値はせいぜいが小作農に適用できる概念です)
また、近代産業の特性は、大工場制という多数の労働者が結合した協業形態にあります。
協業によって、ある労働者の労働の算術的総和ではなく、それをはるかに超えた労働成果が上げられています。(もちろん、それを結果論から割り算して個々の労働者の労働に還元できた気になることは認めます)
剰余価値が「不払い労働分」にあるとしたら、機械化を進め労働者の数を減らすことは愚策になってしまいます。
たぶん、資本家や近代経済学者は、同じ財を生産して商売するのなら、一人の労働者も雇い入れずに完全自動化で生産する企業が最大の利潤を上げると考えるはずです。
同じ貨幣表現だからと言っても、「労働価値の貨幣額−労働力費用の貨幣額」という数式は、「りんご10個−みかん5個」が成立しないように成立しないものです。
バルタン星人さんが言われる「差額」は、労働価値の差です。
英国とインドの人件費がまったく同じだとします。
英国は100人の労働者で1日に綿シャツを5千着生産するとします。
一方、インドでは、1日に100人の労働者で綿シャツを1千着生産します。
そのような差は、生産手段の違いに拠って発生しているはずで、英国の綿シャツ生産設備のほうが自動化が進んでいるはずです。
その分、英国のほうが固定(不変)資本への投資やエネルギー費用が多いことになります。
そして、固定(不変)資本の強みは、その使用価値の持続性です。
英国の固定資本である生産設備(原材料を含む)の生産に15000人日を要しているとします。
英国の綿シャツ5千着が固定(不変)資本の価額(耐久時間)の1/3000で生産できとすると、“見えない”5人の労働者が綿シャツの生産に関わっていると言えます。
(インドは同じ考えで計算して、“見えない”労働者が3人関わっているとします)
これらを基に1着のシャツの生産に要する労働力を計算すると、
英国は105/5000で0.021人、インドは103/1000で0.103になります。
英国はインドよりも労働価値(生産性)が4.9倍も高いことになります。
(これに輸送費など管理費が加味されて実際の価格競争力が決まります)
最初の「「産業主義近代」の終焉」に少し戻って..
上の事例でインドという市場がない英国を想定します。
英国製綿シャツは、インドでも英国でも0.08(貨幣単位)で販売されているとします。
そのような状況でインド市場がなくなり、英国内でのみ販売しなければならなくなったとします。
そのとき、英国製綿シャツはいくらで売れるかと言えば、ざっぱくですが、0.021(貨幣単位)になります。(利潤はありません)
英国でインドと同じ0.08(貨幣単位)で綿シャツが売れていたのは、0.021労働価値で生産された綿シャツのある割合がインドに輸出されてなくなった“恩恵”によるものです。
5千着の綿シャツを生産するための賃金はすべて英国の人々に支払われているのに、英国で販売されるシャツはその一部でしかないから、“高く”売れるだけなのです。
(綿シャツの生産以外の労働に従事している人を考慮しても同じです、なんでもつくるコングロマリット1社があり、綿シャツではなくなんでも生産していると置き換えればわかります)
これが、「産業主義近代」を根底で縛っている「供給→需要」の論理です。
剰余価値を利潤と置き換えるなら、外部国民経済との労働価値の落差を利用して、生産した財を輸出することで得られるものということになります。
グローバリズムが完遂されれば(落後者以外の諸国民経済が平準化)、重商主義的利潤は消滅し、剥き出しの「供給→需要」の論理が立ち現れることになります。
(これまでの欧州(EU)はそれに近いもので、拡大EUによって“電位差”を高めたと言えます)
どこもが輸出超過(貿易収支黒字)になるというのは絶対にムリな話です。