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オルテガについては、『大衆の反逆』による文明批評が有名であるが、これは彼の「社会哲学」の一応用であり、この「社会哲学」もまた、かれの「生の哲学」の応用であります。「生の哲学」については、とてもではないが小生が解説できるほど単純なものではありませんので、ここではかれの「社会哲学」の一端を紹介したいと思います。
オルテガも痛烈にフランス革命を批判しているが、その論点はアレントとはやや趣を異にしています。彼によれば、フランス革命は西欧近代を特色付けた「合理主義」の行き着いた末路であり、完全に時代遅れであると断ずる。そして、その源流をデカルトに見出す。
○合理主義が革命を起こす(『現代の課題』より)
【デカルト的人間は純粋な知的完全性という一つの徳に対してしか感受性を持たない。自余のものに対してはすべてつんぼであり盲である。だからして、彼にとって、以前のものも現在のものも共にに何ら尊敬するに値しないのである。それどころか、理性の見地からすれば、過去も現在も犯罪の様相を帯びている。したがって、彼は増大する犯罪を絶滅し、かの正確な社会組織の建設を速やかに押し進めるよう説きたてる。純粋知性によって建設される理想の未来が過去および現在に取って代わるべきなのである―これがすなわち、革命を生み出す精神にほかならない。政治に適用された唯理主義は革命主義である】
オルテガの視点はこうである。「宇宙中心的」な文化であった古代世界(ギリシャ・ローマ世界)が滅びたとき、ゲルマン人は「神中心的」な文化の中世世界を形成し、さらにルネサンスを経て「人間中心的」な文化である近代世界を樹立した。いまやこの近代文化はその可能性をすべて吸い尽くしたのにもかかわらず、新たな文化を創造する思想がまったく生まれない。
では、真に新しい文化を創造するにはどうしたらよいのか? それをなすには過去を越えるしかないという。では過去を越えるにはどうすればよいのか? それには過去をすべて吸収するしかないという。歴史の英知をすべて吸収した上での「新文化の創造」でなければならないという。そして、これは「合理主義」の落とし子たる「革命」には不可能であるというのがオルテガの主張であります。何によって可能になるかといえば、逆説的に聞こえるかもしれないが、既存の社会慣習の延長線上にしかありえないという。
○「社会」と「協同体」を混同した近代思想の重大な誤謬(『大衆の反逆』序文より)
【共存と社会とは同義語である。社会とは、共存という単純な事実から自動的に生まれてくるもののことである。共存はおのずから、しかも不可避的に、習慣、風習、言語、法律、社会的権力といったものを生み出す。そのと飛沫の影響をいまだわれわれが被っている「近代」思想が犯しているもっとも重大な誤謬の一つは、社会と協同体(アソシエーション)を混同することであったが、後者はほぼ前者の逆に位置するものである。社会は、意志の同意によって形成されるものではない。むしろ逆に、すべての意志の一致は、一つの社会、すなわち、共存する人びとの存在をあらかじめ想定しているのであり、意志の一致は、そうした共存がすでに存在している社会の、何らかのあり方を明確にするだけのことである。契約的集合体、したがって法的集合体としての社会という概念は、本末を転倒したもっともばかげたものである。〔中略」法がまだ生まれもしないうちから、その法によって現実の社会に住んでいる人びとの関係を規制したいと願うことは、私には―暴言をお許し願いたいのだが―かなり滑稽で蒙昧とした法概念を持つことのように思われる】
オルテガがこの節で言っているのは、人為的に作った「法」によって「社会」を“創造”することはできず、「社会」は非人為的な慣習によって成立してるということであります。だから、その「社会」の改革は既成の慣習を破壊しない形で行わなくてはならないということになります。その慣習こそは真の「法」であるとして、つぎのように述べております。
○「法」とは改革能わざるもの(『世界史の一解釈』より)
【法とは、たとえば引力の法則にみる宇宙の法則と同様に作ることのできないものであったといましょう。そして、そこにはもし法が作ることのできるものであれば、これの破壊も、これまた可能なはずであり、したがって、法とは可変的なもの、不安定で不確かなものになるという考えが流れています。〔中略」法とはその本質からして改革能わざる、普遍的なものであります。しかしながら、集団的生から生じるさまざまな必要性から、法に修正を施すことはどうしても避けることのできないものであり、そこからやがて改革も必至となります。〔中略〕ローマ人は自分たちの法の改革にそれこそいやいやながらゆっくりと少しずつ進めてきましたが、彼らは自分たちのもろもろの制度を構成する胴体部はこれを破壊することはけっしてしませんでした。したがって、彼らのほうの改革の進めたかたを見ていくと、そこには法とはその本質からして改革能わざるものであるとしたローマ人の意識をもっとも明瞭に読み取ることができるのです】
オルテガははっきりと、法が改革能わざるものであるにもかかわらず、それでも時折改革する必要があるという彼の理論の重大な「矛盾」を認めております。しかし、彼はこの「矛盾」をこそ、現実の世界の構造なのだと言ってのけます。既成の慣習を打倒するから進歩するのではなく、既成の慣習を保守しているにも“かかわらず”(あるいはそうしているからこそ)社会は進歩していくと彼は考えていたのではないのでしょうか。