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(回答先: 誰かという問いは人間だけしか使えません 投稿者 縄文ビト 日時 2004 年 6 月 17 日 20:23:41)
縄文ビトさん、どうもです。
ゆっくり深呼吸してから読み、読み進めるときも時々ゆっくり深呼吸してください。
(願わくば、私が悪意をもってあなたに何かを言っている者ではないと思っていただければ...これまでのいきさつからちょっとムリかもしれませんが...)
今回の投稿は、「「人間とは誰か?」と言う問いには意味がないとする」あなたの主張を補足的に説明する内容にはなっていないように私には思えます。
(「人間とは誰か?」となんか問う必要はない、それが個々の人間であることは自明だと書かれていたのなら、主張の補足になっていたと思います)
※ 深呼吸!
>誰かという問いは、人間だけにしか使えません。
この常識を受け容れます。
しかし、だったら、「人間とは誰か?」は、論理的にも成立し、問いにも意味があるのではないですか?
「犬」云々以降の説明は、そのような対象に誰かと問うのは非常識だということですよね。
あなたは、「これ等は誰かではなく「何か」という問いになります。つまり豚を見て「何」と問うのが普通です、そのときそれは豚だよと答えるだけです」と書かれています。
これは、何かを知らない動物(存在者)を見てその名称を訊ねている状況を考えるとわかりやすいものです。(豚だと知っている人が豚を見て「何か」と問うのは不自然です)
「人間とは誰か?」という問いは、ある動物種が人間と呼ばれるものであることを知っていることが前提であるはずです。
(犬が人間と同じように会話と思考ができると想定して、人を知らないシロという犬と人を知っているタロウという犬が一緒に初めて人を見て、シロが「あれは何?」と問うようなものではないという意味)
ここまでで、豚を見て「何」と問うことと「人間とは誰か?」と問うことが意味的に違うことがわかるはずです。
※ 深呼吸!
豚を見て「何」と問うことは、知覚したある存在者の名称を知りたいということで、「人間とは誰か?」と問うことは、ある概念(名称)に当たる具体的な存在者は“何か”を知りたいということで、二つはまったく性格が違う問いなのです。
「人間とは誰か?」は、「人間とは何か」も含みつつ、ある種の疑念を表明する問いでもあるのです。
これまでの説明を基に、「豚を見て誰かという問いを発する人もいません」が本当なのかを少し考えます。
「誰か?」とは、「ある概念(名称)に当たる具体的な存在者は“何か”を知りたいということ」という抽象化が前提であることを踏まえてください。
養豚業者であれば複数の豚を飼っています。
ある日、お客さんが来たので1頭の豚を解体することにしました。業者は、「どいつ(誰)にしようかな?」と考えながら、豚たちを見渡すことでしょう。
これはあなたを論駁したり屁理屈のために言っているのではありません。
家畜を飼っているまともな人は、食べるだけの人のように豚や牛を抽象的な豚や牛として見るのではなく、個(別)性を持った生き物として接しているからこそ、一頭一頭に情を持つのだと思います。
牛一般・豚一般ではなく、あの牛でありこの豚なのです。
一頭一頭に名前を付けている人もいます。そのような場所では、自然に「あいつは誰だっけ?」という問いも出てくると推測できます。
だからこそ、お金になるとは言え、出荷するときは辛く悲しいのです。
「人間」という抽象的な考えで済ますのではなく、誰か?という個別化の問いに意味があるのは、そういう(接している相手に深い情を抱く)ことだと思っています。
(「人間とは誰か?」に意味があるのは、人間が「生物学的“人”属性をもつ諸個人を抽象した名称(概念)」としてしか、ある種の人たち(支配者)に考えられていないような現実のときだけかもしれません)
※ 深呼吸!
「人間とは誰か?」という問いの今日的意味は、やり取りをしたなかから抜粋した下記の内容をもう一度お読みになられて再考していただければと願っています。
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「近代では、人権思想に代表されるように、抽象的な概念である「人間」があたかも現実的存在であるかのように取り扱われてしまう傾向があります。
「人間」なるものを安易に持ち出すと、生身の個々の人が消えてしまうとまでは言わないまでも、ぼやけてしまう危険性があります。
「人間とは誰か?」という問いは、ヒューマニズムや人権思想が横溢している現実ではそれなりに意味があると思います。」(「奇妙な要求はしないようにしましょう。」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/124.html ))
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「私が説明に使った「ある人に対して「あいつは人間じゃない」という判断が有効だとしたら、「人間とは誰か?」という問いも有効であるはずです」を、「これは日常的会話であり。これは哲学とは無縁な問題」と言われていますが、哲学を語っているあなたの思考からそれが出たことに驚いています。
「あいつは人間じゃない」と口にする人が“じゃあ、人間って誰?”と疑いを持たないままであれば、哲学とは無縁な問題だと言えないことはありませんが、“じゃあ、人間って誰?”と自問すれば、一般的な哲学概念に照らすと、立派な哲学的思惟に入ったと言えるからです。
「あいつは人間じゃない」は“日常的会話”だとは言えますが、「人間とは誰か?」という問いはそれほど“日常的思惟”ではないということです。
私の説明は、「近代では、人権思想に代表されるように、抽象的な概念である「人間」があたかも現実的存在であるかのように取り扱われてしまう傾向があります。
「人間」なるものを安易に持ち出すと、生身の個々の人が消えてしまうとまでは言わないまでも、ぼやけてしまう危険性があります。
「人間とは誰か?」という問いは、ヒューマニズムや人権思想が横溢している現実ではそれなりに意味があると思います」がまとめにあたる部分なのですから、どうせなら、そちらに触れていただいたほうがもっと有意義だったと思っています。
非哲学的な事象かもしれませんが、ブッシュ政権は、人権・民主主義・自由・文明などを人類普遍の譲ることができない価値だと宣言し、そのためだと称して「対テロ戦争」を遂行しています。
そのようなブッシュ政権が、テロリストであるということを盾に、米国内でも容疑も示さないまま起訴もせず多数の市民を長期拘留したり、グァンタモナ基地では、誰を拘束しているのか、どういう経緯で拘束したか、どういう容疑があるかなどを明かにしないまま長期拘束したり、イラクでは夜中に住宅に踏み込んだり検問で引っ掛かったイラク人を同じように長期拘束しています。
人権や自由が人類の普遍的価値であり正義であると宣言しその体現者を自認しているブッシュ政権がそのようなことをしているのなら、人権と自由を故なく奪われた人達は「人類に属さない」(「人間ではない」)という論理も成り立ちます。
それは、人権や自由を享受できるはずの「人間とは誰か?」という問いが意味を持つと同時に、言葉では人類の普遍的権利とされている人権や自由も、実のところはまやかしでしかいないのでという疑義も提示できることにつながるものです。
戦争や戦闘という殺戮行為も、人権や自由を最大限に奪うことですから、人権や自由を絶対的普遍的価値だと考えている人の殺戮対象は、生物学的には人であっても、政治(社会)的な観点においては人間ではなくなっているのではないかという疑義を導き出すものです。
テロリストだから殺してもいい、民主主義や自由を確立するための軍事行動で“誤爆”され死んでも仕方がないという説明が多数の人たちに受け入れられるとしたら、生物学的な人であっても、政治(社会)的には人ではない人もいることを、無自覚かもしれませんが、受け入れてしまっていると言えます。
このようなことから、「人間とは誰か?」という問いは今日的意味があると思っています。」(「あまり気持ちのいいレスとも哲学的なレスとも思えない内容ですね。」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/133.html ))