現在地 HOME > 掲示板 > 議論17 > 933.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 論敵に対する人格非難・態度非難は論争における敗北宣言 投稿者 たけ(tk) 日時 2004 年 5 月 16 日 14:47:03)
たけ(tk)さん、疑問があるのでこれを解明するためにお付き合いいただけるようお願い致します。
--------
上のご投稿は、たけ(tk)さんご自身の過去の経験に基づく一般論的価値判断として読む場合、私もある程度納得できる事です。
しかし、今回の具体的なスレッドの流れに即して理解しようとした場合、両義性が強くて(※ご自身が意図しての事かは
解りませんがあいまいになっているという事です)この部分を明確にしない限り、現実にスレッドにおいてたけ(tk)さんが
書き込まれた具体的な文の解釈が定まらないと思います。
そして場合によってはたけ(tk)さんの“善意”(と思いますが)が、曲解されてもたらすかもしれない事を憂慮します。
--------
私自身は明確に自身の書いたことを理解して書いたつもりでしたが、もしかすると他者と解釈がズレているかもしれないと
思い、下のスレッドでの議論は打ち切った立場ですけれど、私自身の自己チェックのため、確認させて頂ければと思います。
たけ(tk)さんの文を引用します。
>論争中に相手から人格非難をされることが多いのですが、
>そういう場合には「ああ、論争に負けたことを認めたのね」と解釈して、それ以上相手のメンツをつぶさないように、
>非難を無視するようにしています。
>論敵に対する人格非難・態度非難をする人は熱くなっているので気がつかないでしょうが、論争を眺めている人から
>みれば、大恥を晒しているだけです。彼にそれ以上大恥をかかせないためにも無視してあげるべきべきです。
【問】ここでの“彼”とは、たけ(tk)さんの過去の経験に基づいた事実を指して、そこに存在する方を“彼”と言われたのですか。
--------------------------------------------------------------------------------------------------
蛇足かもしれませんが、私が書いた文の意味も読者(当該議論の対象者以外)にもう少し開いた形で解説的に出しておきます。
出来ればスレッドの流れを追って検分していただけるほうが文脈を捉えやすいので流れをご検分頂ければという期待はあります。
下記が対象とするレスです。
--------
↑
http://www.asyura2.com/0403/dispute17/msg/887.html
投稿者 鈴を贈るねずみ
--------
>
事実として当該投稿に書かれているのは「障害」ですね。どなたにも多かれ少なかれあります。
言葉の誤用かもしれない事ならあっさり言えばいい。
そこをあなたは「障害者」と言って自分がそれであると言われてしまうのは、おぞましい人権違反か何かのように指弾しています。
語るに落ちています。
>
この文章では、前段で、障害というもの(言葉ではなく)は多かれ少なかれどんな人間にもあり、
排除的な区分性を本来持たないことであり、それ自体は人格の全体を損なった評価を本来持た
ない事実である事を言っています。
現在、国外で“ordinal abilities”“dis・abilities” という表記をもって、たまたま現在障害がない人と、
障害を負った人というような捉えかたに向かっているところがあるようです。
(言葉の上での事でしかないという議論も国内にあることは存じています)
私の前段の文は、こういう偏見に基づいた差別性を無くす方向での認識への思いがあって書いた
つもりです。
次に、後段の文ですが、ここでは「障害者」という人間全体をくくり、区分性が強く、差別性が入り
やすい言葉の発話が問題になっています。
使い方によっては差別性が籠もり、どのような動機、あるいは姿勢が存在するのか、障害という
言葉よりも発話者の意図が見えやすい言葉と思われます。
日常生活に支障の生まれるような障害というあり方は、本人や本人を支援する家族以外には
なかなか実情が理解できないものだろうと思いますが、この事実ゆえに、当事者たちは、自分に関与
してこない人が障害について語ることを、諦観をもって不関知としている場合も多い。
しかし、直接に関わるかもしれない人が、「障害者に関わる私」を政治的に演じたい場合は、きちんと
チェックしないと望ましからざる事態がありうるわけです。
完全に政治的な自覚をもち、現実の政治の中での利害打算も分かって、見通しのある人間なら善意が
小さくても利害打算の現実の上で、その限度内で助けることができるでしょう。
しかし、現実を知らない善意先行の方(それ自体は歓迎すべき事だと思っています)や、先ほどの
「障害者に関わる私」を政治的に演じたい事が核であるにもかかわらず、それが自覚できない人である
場合、当事者はどういう人と出会う事になるでしょうか。
>たけ(tk)としては善意で意見表明をする人は多いに結構だと思います。ナイーブに善意を主張する人が
>客観的に地獄への道の導き手にならないように、彼らを説得する技術を獲得するのが重要だと思っています。
ここに引用させていただいた中の
>地獄への道の導き手
に類する人でありかねないのです。
そして、説得以前に関わるものがどのような構えかを厳しく判別する意識も必要であり、もし、本当に当事者たちの
利益(福祉)や、自身の意図を満たそうとするなら、現実の中での自己のあり方を検分し、現実に対し合目的な
アプローチがとられるべきなのです。
厳しい判別や自覚が無ければ、無自覚な方を、関与者自身が知らず黙認し、望ましからざる状況に引き込まれてしまい
かねないのです。
自覚が無いだけで、もし(単刀直入に直指する事によってでも)それが説得できれば、共に災厄への道を回避できます。
説得できなければ、対象者はどうにも出来ずとも、関与者に対象者が招きかねない危なさの可能性を知らせるばかりです。
ここにおいて私が冒頭後段の文で意図した自覚や判別の必要の理由と、全体の意図を了解していただけると幸いです。
「障害者」を本当は侮蔑嫌悪し、差別していながら自覚が無いか(自覚した時の自己改革もありえます)、
自覚して政治的に共栄しようとしているのか、自覚もなしに政治的に演じたいのか、確信犯か…etc
これを自覚あるいは判別しようとする事が必要です。
お読みいただいた方々が、ここで私の提示した視点を、道具として試すに足るものになっていれば有り難い事と思います。
必要な視点は、障害者そのものの身になったところからの視点なのです。(たとえ完全には解らないにしても)