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(回答先: Re: 愛について 投稿者 haru 日時 2004 年 5 月 02 日 19:46:19)
まさしくあなたの言う通りです。
私はあなたに教えられました。
私は大きな過ちを犯しました。
私はどうしても解ってもらいたいために、この場で書いてしましました。
しかしこのようなことを公開してはいけない、ということです。
それは宗教者と同じ、ということを意味しています。
それはたとえ、公開したことが正しかったとしても、
私も人間だし、相手も人間だから正しくは伝わらないということです。
そしてそれは不幸を呼びます。
つまり広めてはいけない、相手に理解してもらおうと思ってはいけない。
自分自信で気付き、自分自信の中で考え続けなければいけない、ということです。
ゆえに
「我想う、故に我在り」
それが人間としての存在価値
ということではないでしょうか?
ありがとうございます。わたしも宗教者のパラドックスに陥っていました。
つまり自分では「論」を出さず、相手の「論」に対しては突っ込み程度にしなければいけない
ということですよね、
そして私は真理を解ろうとしました。しかし真理を完全には解ってはいけない。
解ったと想った段階で真理を解ろうとしなくなるパラドックスに陥るのだから。
しかし解ろうとする努力は、自分の出来る範囲内でしていかなければならない。
そしてこの問題を追及すればするほど大きなパラドックスに陥る
追求=完全を意味し、完全=ありえない、つまり追求=パラドックス=(無)自殺を意味するのです。
つまり自分の出来る範囲を超える段階で妥協をしなければ死ぬ、ということです。
申し訳ありませんが、私の書いたことを忘れてください。
そして自分自信で、自分の論を、自分の出来る範囲内で考えていって下さい。そしてそれを人に知ってもらおうとしてはいけない。突っ込みや質問程度にしなければいけない。
それが
「我想う、故に我在り」
想うレベルがどうであろうと、想う以上、わたしやあなたであり、それが人間・・・
想ったことを知ってもらおうとした段階で、神を目差すことになります。
本当にありがとうございました。