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(回答先: Re: すれ違いの見解の是正の試み 投稿者 宮本浩樹 日時 2004 年 5 月 01 日 03:21:24)
宮本浩樹さん、どうもです。
>こういうケースを評価する、ということ自体にある種の品位のなさ、やじ馬根性を感
>じてしまうのですが、そこからもし、何か有用な価値が生み出されるのであれば、目
>的の崇高さによって、手段の下劣さは相殺されると考えてお付き合いさせて頂いてお
>りました。
ここは、政府機構でも、政党でも、学校でも、出版社でも、「コンサル」でもない、たんなる私的公開掲示板です。
今回のスレッドに「ある種の品位のなさ、やじ馬根性を感じ」られるのなら、多くのスレッドに同種の感慨を持たれるはずだと思うのですが...
例えば、このスレッドのケースを取り上げることに「ある種の品位のなさ、やじ馬根性を感じ」るのに、「人質事件」や「ファルジャーの虐殺」などにそれを感じないとしたら、その違いは何に由来するのですか?
石ころ一個がどこかに転がっていたというケースの考察から何か有用な価値を生み出すかどうかは、人それぞれの思考営為次第であり、石ころ一個がどこかに転がっていたというケースそのものの問題ではありません。
>>もちろん、インド人たちを実際に救出できたかどうかは別として、チョモランマ登頂
>>を断念し、酸素ボンベの中身や食べ物を遭難者たちと分かち合い遭難者たちの体力が
>>回復する道を選択することはできる。
>>(自分たちが帰還できる条件を確保した上で分け与えても遭難者たちが可能な助力を
>>得ても下山できないことがわかったら、そこで「見殺し」にすることはやむをえない
>>というより、そうすべきだと思う)
>この「そうすべき」に強烈な違和感を感じます。
どういう違和感なのか説明がないので真意はわかりませんが、躊躇してぐずぐずしていれば共倒れになってしまうから「そうすべき」だと主張しています。
>>しかし、難関とされる世界最高峰チョモランマの北壁ルート登頂を目的とした事業に
>>挑んでいる人達にそれを求めるのは、経営者(資本家)に競争関係にある他の会社
>>の危難を救えと言うに等しい筋違いの要求だと思える。
>このたとえも的外れが甚だしい、と感じます。
>金儲け、生きるための資を稼ぐ行為。とただ山に登りたいというやむにやまれぬ衝動
>を現実化する行為とをイコールで結ぶのは、人間性への冒涜であると思うからです。
「私の見解」の脈絡を捉えれば、価値観によって判断が方向付けられるということでの類似性として提示したことはご理解いただけるはずです。
それは別として、「よりよく生きるために金儲けに励む行為」と「ただ山に登りたいというやむにやまれぬ衝動を現実化する行為」を並べるのは、一方の行為に対する「人間性への冒涜」だと思われるわけを示してもらえれば幸いです。
私はどちらも「自己愛」であり、どちらも現実の国家社会では倫理的にも法的にも容認されていることだと思っています。
「ただ女とやりたいというやむにやまれぬ衝動を現実化する行為」は、「自己愛」だとしても、それが合意に基づかないものであれば倫理的にも法的にも容認されないものです。
>>登山家は、頂上近くで遭難者に出会ったことで断念するくらいなら、端からチョモ
>>ランマ北壁ルート登頂に目指さないように思える。
>>(キャリア志向なのかキャリアに価値を感じないかという違いで、世の中の見え方
>>や出来事に対する感じ方が違うということをイメージしてもらってもいい)
>これも全く同意できない見方です。(大きなお世話というのが登山家の本音でしょう。)
同意できないのはわかりましたが、「大きなお世話」がさしたる理由にはならない(そういってしまえば多くの議論がほとんど成り立たない)と思っているので、あなたのお考えを示すのがまっとうな対応だと思っています。
>>このケースは、日本人登山家をサポートしたネパール人シェルパと日本人登山家の価
>>値観の違いを際立たせているとも思う。
>ここも日本人とネパール人という区分は外すべきで、仕事でやっているのか、そうで
>ないかの違いのみにしぼるべきです。
「日本人とネパール人という区分は外す」と何か意味があるのですか?
>>私は端からチョモラマン登頂をめざさない人間だが、社会が、「インド人たちを実際
>>に救出できたかどうかは別として、チョモランマ登頂を断念し、酸素ボンベの中身や
>>食べ物を遭難者たちと分かち合い遭難者たちの体力が回復する道を選択する」もの
>>であってほしいと思っている。
>>おいそれとはそうできないたいへんなことだとはよくわかっているつもりだが、どう
>>してもチョモラマン北壁ルート登頂を達成したのならチャレンジし直せばいいじゃ
>>ないかと思うし、それに価値を認める人が多いのなら断念した登山家たち人が
>>チャレンジし直せるような世界であって欲しいと思っている。
>この部分が最大の引っかかりです。
>「社会が、世界が、・・・このようなものであって欲しい。」
>「・・・」の中身がいかなるものであっても私は受け入れないのですが、今はそれは
>主張しません。
>「そのような理想社会を実現するための方法、手段が提示されない限り、それは単な
>るプロパガンダに過ぎない。」とおっしゃったのは貴殿ではなかったでしょうか。
今回のケースは、準備と資金の問題がクリアできるのならチャレンジし直せる例ですから、言われるような大げさな話ではないと思っています。
登山隊一人一人に人生プランがあるはずですから何年か後に再チャレンジすることが可能かどうか即断はできませんが、遭難者を救出しようとして登頂を断念した場合、それをうまくアピールすれば資金の問題はクリアできる可能性が高いと思っています。
>で、この繋がりが私にはよく見えないのですが、ご紹介のジグレール氏の主張が、そ
>の方法、手段なのでしょうか?
ジグレール氏のその後の展開を引用しているのでお読みいただけばわかるように、まったく無関係でしょうね。
『私有化される世界』より:
「これは、グローバル化した資本の略奪者たちが日頃経験する具体的な状況を彷彿とさせる談話である。・・
帝国をつねに拡大すること、これらの至上命題が完全にモラルの欠けた行動を要求する。・・・支配者の強欲はその取り巻きたちにも伝染して、彼らの脳を汚染している。今日では、多くのボスたちが嬉々として自分の企業を食い物にしている。彼らの行動はまるで百年戦争時代の追いはぎ強盗のようだ。」
>この学者氏の見解を、貴殿は支持しておられるのでしょうか?
事実をそのように形容して語っているというものです。
氏の形容は当たっているとは思っています。
>私は支持出来ません。
>この学者氏の見解は、「帝国の支配構造」という巨大な問題を多国籍企業の社長ども
>のモラルの低下などという極端に小さな問題に矮小化し、問題を隠ぺいするものであ
>る。と考えます。
『私有化される世界』を読まれたのかどうかわかりませんが、ある部分だけを取り出して、「「帝国の支配構造」という巨大な問題を多国籍企業の社長どものモラルの低下などという極端に小さな問題に矮小化し、問題を隠ぺいするもの」などとどうして批判できるのですか?
そのような独善的で上滑った批判をするあなたのモラルのほうが解せません。
>私としては、裏切られたという思いです。
>長々と書き連ねましたが、一言でいえば、貴殿の出された結論があまりにも「つまん
>ない」ということでも有ります。
あなたがどのような感想をお持ちになられようとご自由です。