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(回答先: Re: ご回答 投稿者 アラフラの蛸 日時 2004 年 4 月 21 日 14:30:37)
アラフラの蛸 さんご回答ありがあとうございます。
わたしの他の板での書き込み が汚いのは、何らかの反応があってもなかなか物理的に時間をとってレスできない可能性が高く、それ以上の知識を持ち合わせない貧困さからくるものかもしれません。ずいぶん以前にも、あっしらさんからの問いかけをいただきましたが、未だこれに対応できずにいます。また、わたしの知っている範囲で自分の言葉でものの道理をといてみようとすると、メディア情報や一般化された抽象的な概念を使うには勉強不足ですし、身の回りの事例をあげていく必要が生じてしまい。せっかく「一般人」という実生活と関係ない名前を使って書き込む意義を失いそうなので議論板での書き込みは難しいと感じているところです。
その意味では、「長壁さん」のような方の登場は、実社会との境がなく、ここ(仮想現実)に書き込みをされるのは面白いなぁ。と眺めさせていただいているところです。長壁さんの意見に賛同出来るかどうかはべつですが。
さて、アラフラの蛸さんのお答えに沿って書き込みさせていただきます。
>(1)小職のそれ程長くない書き込みを、こいつは政府の味方と即断されるのは如何な
>ものかと思います。場合によっては他の誰よりキツイ政府批判をするかも知れませんよ。
>小職は、政治的にも宗教的にもどのセクターにも属せずあくまで自身の考えで拙くとも
>自分なりの判断を主義としております。
潜入観念を排除してもう一度、「アラフラの蛸」さんの文章を眺めさせていただきました。
アラフラさんは「小職のそれほど長くない書き込みを・・・・」といわれていますが、新規投稿されているわけではなく、小阪修平さんへのレスとして書き込まれている文脈の流れが存在していることが読み手側にはあることをご承知ください。自己完結性の高いテキストであったとしても、何かのレスポンスであれば相対的なテキストの価値があなたの書かれた時の思いとは関係なく、読み手の側に発生していることを考慮される必要があると思います。独自の考え方といわれても、価値体系は相対的なもので判断されます。たとえば、あなたが自分は右だと思っていても、あなたよりもっと右の人が現れれば、あなたは左ということになります(たとえですから、あなたが本当に右だといっているわけではありません)。
また、申し訳ないことに「アラフラの蛸」さんの他の書き込みをあまり眺めたこともないので、ほかではまた異なる意見を持たれているというお話には私自身対応ができません。ただ、不特定多数の多くの人が読まれると考えると短文であろうと長文であろうとそれなりの意味性をもってしまうと思われ、どちらかというと短文の方が読み手からすればある一定の断定をせざるおえないことと、逆に効果的である(短いコマーシャルの連呼が有効的であったり、俳句が多くの人々に深い印象を与えたりするように)こともあるかと思います。
>(2)政府関係者の心中察し申し上げますの一文が俎上に挙がっておりますが、これは
>相当皮肉をこめたつもりです。(真意=これであの首相官邸あたりが頭から湯気を出し
>て怒っているだろうな。スペイン軍・ウルグアイ軍などが撤退も開始しており、アメリカ
>には芳しからぬ情勢で、このあたりでまた訳のわからぬ事件が起こるかも知れないの
>に、何を考えておるのだ、うつけものが。 てな具合です)
「アラフラの蛸」さんの真意はわかりました。
ただ全体の論旨は個人の自己責任を促す内容に重点が置かれているように思われ、私にとっては、「御上は頑張っているのに、下々のものの無責任な態度はなっとらん」と言いたげな御上偏重型の印象を真意を伺ってもぬぐえないようです。多少主義主張にバリエーションをお持ちであったとしても、特にこの時期に御上偏重的な発言は、自衛隊が進軍しようが退却しようが、戦争擁護を暗に促す態度と感じられます。ご自身がそこまでのご意見をお持ちでなかったとしても、軍靴の音が忍び寄る社会を助長されている事に同調されている事と然程かわりがないと思います。
今回の5人の自己責任を声高に言われる方々は勿論のこと、イラクやこれにまつわる事項について思考停止されている国民が、わたしの考えていた世の中よりも非常に多いことに現在驚きを隠せずにいるところです。情報操作や報道管制がどの程度あるのかはわかりませんが、今後東アジアでの紛争を好戦的に進めていく素地としての世論の形成が完成しつつあるのだと感じています。日本人がナショナリズムに対して非常に敏感で消極的だという概念は崩れ、戦争好きで全体主義的な日本人のナショナリズムが静かな広がりをこのようなかたちで、経験しようとは夢にも思いませんでした。
>(3)余談はさておき、一般人さんの文面からは体制側の義務という言葉は何回もでてき
>ますが、個人側の義務については一切出てきません。民が最初にあって、その上に政府
>・体制があり政府・体制側は民を導き守る義務云々というのに反対はしません。
「民」から「政府・体制」に対する義務は存在しません。というよりも存在しようがありません。なぜなら「政府・体制」は実存ではなく、基本的に制度ですから。義務があるとすれば、制度を通した向こうにある(自分以外の)民に対してです。
「民」が最初にあって、その上に政府・体制がある」ということに異論はありませんが、「政府・体制側は民を導き守る義務」はありますが、「政府・体制側は民を導く義務」はありませんし、できません。「民が最初にある」という存在の肯定だけが自明ですから、「政府・体制は民を守る義務」は絶対必要条件です。しかし、「導く」は「民」が導きを要求しない限り、体制が積極的に導くことはできません。体制は民からの要望を受け入れ、その要望が実行可能かどうかを実務的に判断するだけです。
もし、仮に十分条件として「導く」ということを体制がおこなう場合には、体制にとって「導こうと思惑を図る主体」の存在が必要になります。そこで、「導こうと思惑を図る主体」が何か?ということが重要な訳ですが、まず、「民が最初にあって、」と言う自明性しか与えられていませんから、「導こうと思惑を図る主体」というものも「民」でしかあり得ないのです。体制が主体として導くことは誤りです。
基本的に「政府・体制」は制度ですから実存的な存在ではありません。それを官僚職として人間が執り行なうので実存的な存在として見なしてしまう間違えを犯してしまうのではないでしょうか。逆に実存的な存在として認められていないので「政府・体制」の職務につく人間は、解雇されない、給与が安定している等、別のかたちで非常に保護されているのだと思います。
>(4)小職の申し上げたいのは、民の側でも最低限の態をなすべきだという事です。また
>譬えで申し訳ありませんが、個が末端の細胞組織の一つだとすれば、せめて細胞膜くら
>いは自分で形成して、細胞ひとつの態をなすべきだという事です。これは民主主義だろ
>うが、共産主義だろうが如何なるイデオロジーにかかわらず保持すべき最小基本共通
>事項ではありませんか。個がアミーバ状態では、いかなる体制も存続せず,養豚国家また
>は養鶏国家に成り下がるでしょう。
アラフラの蛸さんのおっしゃっているのは、体制側に対して「民の側でも最低限の態をなすべき」とおっしゃっているのだと思いますが、その理由が述べられておらず判然としません。民が「ほかの民に対して最低限の態をなすべき」ということならよく理解できます。
体制の主体性をどうしても認めたいのなら、それは民主制ではなく封建制みたいのものではないでしょうか。そうであればあなたのこれまでのお話はよく理解できます。(ただし、今の総理大臣をはじめ官僚が、君主としてのさばるのは御免被りたいですが、民のことをよく思い行動する君主のいる封建制なら、現在の民主制よりマシかもしれません。)
また、ここで言われる「これは民主主義だろうが、共産主義だろうが如何なるイデオロギーにかかわらず保持すべき最小基本共通事項ではありませんか。」というのは、「モラルとしての義務」の問題であると推察します。私の理解では、「モラル」とは主体となる民同士が一定の利害を尊重しあって、お互いが守っていこうとするものです。「政府・体制」と「民」の関係性の問題ではありません。
アラフラの蛸さんは
「事故が起きたからといって、政府のガイドが悪いとか・現地公館の対応が悪いとか・責任があるとか一方的に言うべきではない。考えてみよ、現地に来る日本人はピンからキリまで、それら全ての行状からくる責任を一手に引き受けられるものか。」と書いておられましたが、海外渡航のそれに関わらず現実の社会の中で、こちらがピンであろうが、キリであろうが、行政サイドが何か責任を引き受けて、行動してくれた事例をみたことも、聞いたこともありません。大方の行政官は誰ががたがた言おうがそ知らぬ顔で与えられた職務のみを与えられてた時間に全うするだけです。もしある担当行政官が心をつくして職務以上に、あなたに何かしてくれることがあったとしたら、他の行政官に隠れてしてくれたことでしょう。もし後で他の行政官にしられたら、問題視されたりすると思いますし、制度を尊守しないので、優等生な行政官ではなくなります。(もちろん、心ある行政官もいると思いますが、そのような人たちは、制度としての自分達の枠を超えられない不甲斐無さに悩みます。そのような行政官が評価され、行政の質がもっと問われ見直されてくれば良いと思いますが。ただし、それでも制度としての体制の役割は変わらないとおもいます。)
生まれた子供が母親や父親にそれぞれ愛情関係を結ぼうとするように、最初に家族という枠組みを認識する訳ではありません。それは親もおなじで家族だから子供を愛する訳ではなく、子供としてあるいは一個の人間として愛することがまず大事なのだと思います。たとえ家族や家を守るといっても、民主制の在り方は旧家の家族制のように家長を中心とした封建制とは違うものであるはずです。(勿論、その人間性中心の社会が必ずしもベストであるとは断言できませんが)
自己責任とは全く見知らぬ人間や、政府・体制、マスコミが揶揄していうことではなく、事を起こした人間の身の回りのものや直接関わったもの同士で確認しあえば良いだけのことで、全く会ったこともない外部の人間がえらそうに社会の徳など説くものではないと思いますし、政府・体制が発言すれば、それは人間的にモラルを促す発言だったとしても、それは民意としてではなく制度と化してしまう恐れがあります。その意味では逆に今回の拉致事件や北朝鮮の拉致事件で面会しないという内閣総理大臣の態度は、ひとつの態度として決して間違いではないと思っています。それよりも、民意を訴求しようと努力のみられない内閣外の与党議員や野党議員の政治家としての役割が、いまや国民にとって無意味化して来ているように思えます。
養豚国家や養鶏国家についてのニュアンスはわからないでもありませんが、国家と民との関係性で考えるよるも、民同士の関係性から考えていくことの方が重要であると思います。まぁ、私自身は馴染めませんが、国家と民との関係性で話をする方が話題性はありますし、民同士の話では話題としては地味で、現実的な厳しさもあるので、このような板では、「アラフラの蛸」さんのような話の方が面白いかもしれません。