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(回答先: Re: 初期印象の重要性とその危険性 投稿者 アラフラの蛸 日時 2004 年 4 月 26 日 17:47:35)
アラフラの蛸さん、どうも。
私の年齢はご想像にお任せしますが、普通に比べて、子供から老人まで関わる人の幅は広い、日常の仕事環境のようではあります。
自己確認の意味も込めて書き込みされているのかなぁと、勝手な印象を持ちました。
阿修羅の議論板はユニークですが、私自身は実生活との関わりで意味があるものでなければ、何を書いても意味がないように思えています。社会事情も自分の権限のおよばないことは、知った風な気になって、あーだこーだと言い切らず、直接の対話の中で、論点をはっきりするだけの断定をもって、しかしながら、思考の変更に対しても許容をもって(意固地にならずゆとりをもって)、人と接することが出来ればと考えています。
そう言ってしまえば、私自身自己確認みたいに書き込んでいるところでもありますが。
その意味では、メディア(特にマスメディア)は意図的にまたは無意識的に、あらゆる物事を断定しているようで、一方通行なので当たり前ですが、こちらの思考を許容してくれません。知らない内に自分の価値観がテレビなどに影響されていたりします。自分の生活はどうせ影響されるなら、生身の人間や署名つきの著述から影響されたい訳で、由来のはっきりしないものや、憶測でしか感じることの出来ない由来よりも、身近な人の言葉を信じたり、聞いてあげたり、評価して上げたり出来ればと思っています。
ここのような、投稿板では、ある程度、一般性も踏まえ、著名な文献からなどの引用が有効かもしれません。論理性よりも、自分自身ができうる限り選び抜いて生んだ言葉、または自分が信じている言葉や信じたい発言、を確実に表明で切ることが大事であるように思えます。そして、それが確実なものかどうかを自らが確認するために自分以外のものを必要としているようです。
さてさて話がかみ合っているのかどうかわかりませんが、立ち戻って「自己責任」を考える時、
他者に対して「自己責任」口にする人が、もし自分の狭量と利己性で、不快感を覚えて発言していたのなら、「自己責任」口にした人は、事の大小に関わらず、自分を取り巻く環境に対して保身のために常にそのことに気を配らなければならなくなる。「迷惑だ」と言えばいいところを、「自己責任」を問うその気遣いのために、決してその人は幸福とは言えないでしょう。
また、もし自分が、他者に対して「自己責任」を促さなければならない状況が発生したとしたら、「我々は愛する人々の幸福を願うべきである、しかし、それが自分の幸福との引替えであってはならない。」という意識を促すことが「自己責任」を促すための筋道であるのではないでしょうか。返して言えば「我々は自分の幸福を願うべきである。他の人の幸福との引替えであってはならない。」であり、そに自己責任性のバランスが必要だと言えるだけで、発生した自己責任の内容は強要するものでもなく自分で考えてもらうしかないと思います。
このような自己責任のやりとりは、「対話的人間の行為」であって、百歩譲った言い方として、政府・官僚が公に言うのは、「権力の執行をともなう人間の行為」であり、これが許されるのかどうかだと思います。当然、私の立場からいえば「対話性のない、権力の執行をともなう人間の行為」であり許されない。と言うことになります。
また、もしアラフラの蛸さんのおっしゃるように教育が大事であるとするならば、人を規制したり萎縮させることとしてはじめるのではなく、身近なものの価値のある部分を、メディアや大臣の言葉よりも、偉大でありうることを認めてあげることなのだと感じますし、自らの実生活の中でそれをしていければと私は考えているところです。
自由至上主義者のバートランド・ラッセルは。
「もしも私に、私の理想どおりに高等教育を組織する権限があるとしたら、・・・・」というところで、
若い人たちが過去を生き生きと意識するようにしてやりたい。つまり、人類の未来は、どう見てもその過去よりも測り知れないくらい長いことを鮮やかに実感することとともに、私たちの住んでいる惑星がいかに小さいか、また、この惑星の上での生命がいかにたまゆらの事件であるかを、しみじみと悟るようにしてやりたい。そして、ともすれば個人の卑小さを強調しがちなこれらの事実と同時に、全く別のひと組の事実も提出したい。
すなわち、若い人たちの心に、個人が成就しうる偉大さや、個人に匹敵するほど、価値のあるものは広大無辺の宇宙空間のどこにもない、と言う知識を結びつけるものである。」と言っています。
参考までに,今年度の沖縄大学の入学式辞を転載します。以下転載。
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入学式式辞
新入生の皆さん。ご父母の皆さん。ご入学おめでとうございます。この4月から学長
職を務めることとなった桜井国俊です。
新入生の皆さんにとって、沖縄大学に入学した2004年という年は特別な節目の年です
が、後で振り返ると、おそらく2004年は日本の歴史にとっても重要な曲がり角の年で
あったということになると思います。この入学式は、日本が海外派兵をしている中で
開かれる戦後最初の入学式です。願わくは、これが最
初で最後の海外派兵の中の入学式であって欲しいと願っています。
皆さんは学徒出陣という言葉を知っていますか。日本の歴史の中で決して忘れること
のできない出来事です。大学に学ぶ若者たちが、学びやから狩り出され戦 地に赴い
ていったのが学徒出陣です。息子が、夫が、そして恋人が戦地に狩り出されるという、
決して繰り返してはならない出来事です。そして彼らは、自ら の命だけでなく、ア
ジアの人々の命をも犠牲にしたのです。それが遠い昔の出来事だったと笑っていられ
る事態ではなくなりつつあるのが昨今の日本ではない でしょうか。自衛隊の存在自
体、だれが考えても憲法違反ですが、さらにそれを捻じ曲げて人道支援という名目で
海外派兵をする所にまで日本は来てしまいま した。イラク戦争が大義なき戦争であっ
たことは、いまや殆んどの人々の共通認識です。いずれ歴史が審判を下すこととなり
ますが、侵略戦争であったとの評 価が下されるでしょう。イラク戦争を無批判に容
認し、自衛隊という名の軍隊を派遣することは、侵略戦争への加担であるとの審判が
下される可能性が大です。また戦前の歴史を振り返ると、こうした事態が学徒出陣に
まで至るのはあっと言う間です。1926年、つまり大正15年かつ昭和元年の日本は、ま
だ大正デモクラシーの余韻の中にあり自由な雰囲気が漂っていましたが、わずか10年
後の1936年には戒厳令が発動され、戦時一色に染まりました。これを見ても、時代が
悪化するのはあっという間です。イラク派兵に関しては、すでに戦時の報道規制が導
入されており、事態を正確に知ることすら困難になりつつあります。困難な時代が今
はじまりつつあります。若い皆さんは、こうした時代の状況を真正面から見つめて生
きていくことが強く求められていると言えます。
このように、今日本は、大変に厳しい局面にあります。政治的には、戦争のできる普
通の国に急速に傾斜しつつあります。また経済的には、勝ち組と負け組みがはっきり
し、ほとんどの人々が負け組みになっています。そして社会的には、大学は出ても仕
事がない、就職口が無いというということで、若い人たちに生きがいを提供できない
でいます。これでは未来がありません。
ではどうすれば良いのか。それは新しい皆さんの時代を皆さん自身で切り拓いていく
ことです。これからの時代、21世紀は皆さんの時代です。戦争で始まった21世紀では
ありますが、21世紀という時代が、一人ひとりが大事にされる良い時代となるように、
皆さんには積極的に新しい時代を切り拓いていって欲しいと願っています。他力本願
では、時代の悪化を食い止めることはできません。世の中は、自分の手で良い方向に
変える必要があるのです。
しかし皆さんは、自分にはたいした能力は無いと言うかも知れません。そういう皆さ
んは、本日この後にある熊本県水俣市の吉井正澄前市長の入学式記念講演をよく聞い
て下さい。水俣市はかつて公害のまちというマイナスのイメージが強いところでした
が、環境再生に努め、今では環境のまちというプラスのイメージに転化しています。
そこでのキーワードは、ないものねだりではなくあるもの探しをすることです。皆さ
んも自分の持っている良いものを最大限に生かすことが大事なのです。
さて皆さんは、今日から大学生です。大という字を分析すると、横に一、そして人と
書きます。つまり大という字は、一人と読むことが出来ます。従って、大学とは、一
人で学ぶところということになります。教師は、皆さんが自ら一人で学ぶのを手伝う
のがその役割です。新しい時代を切り拓く力を身につける場所、それが大学です。皆
さんには、自分が、また自分の恋人が戦地にいかないために、そして他の国の人々を
殺さなくてすむように、しっかりと時代の変化を見つめ、平和な沖縄、平和な日本、
そして平和な世界をつくっていくよう積極的に社会とかかわって頂きたいと願ってい
ます。平和とは、単に戦争がないことではありません。隣の人や隣の国に住む人々、
そして隣の生き物と調和して生きること、つまり共生することが積極的な意味での平
和です。21世紀は皆さんの世紀です。この世紀を生きるに値する素晴らしい世紀とす
るために、自ら学ぶのが大学という場所です。これからの4年間をぜひ有意義に過ご
して欲しいというのが、沖縄大学の全教職員の皆さんに対する願いです。
さて、先ほど申し上げましたように、私はこの4月に学長になったばかりです。沖縄
大学では、3年に1度、全教職員の投票で学長が選ばれます。ということは、大学運営
に関する私の方針が教職員に支持されて学長に選出されたということです。では、沖
縄大学のあるべき姿に関する私の方針は何でしょうか。
それは、4年後に皆さんが卒業する時に、すべての学生が沖縄大学で学んで良かった
と思って卒業することです。つまり、学生満足度が高いことです。大学の良し悪しは
偏差値で決まるのではありません。そこで学ぶ学生のどれだけが、自分の人生でやり
たいことはこれだと発見し、やりたいことをやりぬくだけの力を身につけて世の中に
出るようにさせたかにかかっています。その意味では、かつて私が教えていた東京大
学は決して良い大学とは言えません。確かに偏差値の高い学生が入学しているのです
が、多くの学生は自分は隣の学生より劣っているのではとの劣等感に苛まれているか
らです。他人との比較ではなく、自分の持つ個性・可能性に目覚めることこそが大事
なのです。ということで私は、近い将来、9割の学生が沖[縄]大[学]に学んで良
かったと言って卒業できるようしようと考えています。
しかし皆さん! 忘れてもらっては困ることがあります。それは、大学の主人公は学
生だということです。教師が皆さんにかわって何かをしてくれるとは期待しないで下
さい。皆さんは、皆さん自ら、必要と思う行動を起こすのです。それに対して教職員
は最大限サポートするでしょう。「馬を水辺に連れていくことはできる。しかし彼ら
に水を飲ませることは出来ない」という有名な諺があります。皆さんを馬に喩えるの
は恐縮ですが、自らの潜在的な力を開発しようとするとき、我々教職員は最大限支援
します。しかし、水を飲むのは皆さんです。皆さんが飲もうとしない限り、物事は始
まらないのです。沖縄大学が提供するものを活用するか否かは皆さん次第なのです。
新入生の皆さん、そしてご父母の皆さん。沖縄大学は、学生、父母、教職員が一体と
なって学生の潜在能力を開発し、そして世の中をよい方向に変えていく教育研究機関
です。新入生の皆さんが自ら行動を起こし、百万人といえどもわれ行かん、との気概
を持つとき、つまり、他人が何と言おうと自分の信ずる道を進もうとの決意を持つと
き、それは本当の意味で皆さんが大学を卒業できる時です。大学は卒業証書を得るこ
とが目的の場所ではありません。皆さんが自信を持って、実社会に出る覚悟が出来る
ことこそがその狙いなのです。
「後生おそるべし。侮るべからず」と言われています。若者はあっという間に成長す
る可能性があるので、馬鹿にしてはいけないという意味です。大学生の4年間は人生
で最も成長する時期です。今日のこの日の皆さんと、4年後の卒業式での皆さんとが、
はっきりと違い、成長のあとが、誰が見ても明らかとなるよう、新入生の皆さん、わ
れわれ教職員、そして父母の皆さんの共同作業で取り組んでいきたいと考えています。
それでは新入生の皆さん。今日始まる4年間が皆さんにとってかけがえの無い、人生
の飛躍の時となりますように。そのことを祈って入学式の式辞とします。
2004年4月3日
沖縄大学学長 桜井国俊
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