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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu71.htm
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明治天皇も大正天皇も正妻の子ではない
明治・大正天皇には正妻のほかに側室がいた
2004年5月28日 金曜日
◆ミカドと女官 菊のカーテンの向こう側 小田部雄次
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/258-mikado_jokan.htm
皇室典範の第1条に、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と、うたわれているので、天皇の血族の男性しか天皇になれない。天皇制は前近代のものだから、現代社会にはなじまない。近代社会に天皇家を生き延びさせるために、1夫1婦制を取り入れて、側室制度を廃止した。しかし、そのツケは大きく残っている。昭和天皇だった裕仁が側室制度を廃止したことは、もっと注目されて良い。
裕仁の戦争責任が、あるとかないとか云々される。もちろん彼に責任があったのは当然で、軍部に踊らされたというのは、天皇家を存続させるための責任逃れである。彼は日本国の裕仁ではなく、天皇家の裕仁だったから、太平洋戦争に負けたときの最大の関心事は、わが国の存立ではなく、天皇家の存続だったろう。
何もできない天皇を装っているが、裕仁は皇室制度をさかんにいじっている。女官についても、周囲の反対を押し切って、制度改革を行っている。女官とは、天皇家の女中さんではない。天皇のセックスの相手のことである。
明治天皇や大正天皇には、多くのセックス相手がいた。建前上は、ある位以上の女官しか、セックスに誘ってはいけなかったが、女性の色香に迷うには男の常である。しかも、子供を産ませることが奨励されていれば、天皇たちは気軽に女性に手をだした。明治天皇も大正天皇も、正妻の子供ではない。
明治天皇と一条美子の結婚には法的規定はなく、美子が入内して「女御宣下」(天皇の寝所に侍する高位の女官であるという内輪の命令)があったのみであった。今日「古式ゆかしい」と伝えられる賢所大前での神前結婚の定式は嘉仁親王(=大正天皇)と節子の結婚以後に定まったものである。
皇室婚嫁令のみならず、近代天皇制を支えた法令の多くは明治以後に制定されたものである。P69
明治以降、天皇制を確立するために、さまざまな手段が講じられた。とりわけ皇位の継承には、細心の注意がはらわれた。それが側室制度で、天皇たちは多くの女性とセックスをし、多くの子供を出産させた。しかし、その多くは小さいときに死んでしまい、なかなか育たなかった。
ちなみに、昭和天皇の裕仁は、正妻・節子の子供であるが、節子は16歳で裕仁を出産している。つまり、大正天皇は15歳の節子とセックスをした。15歳とは、今日の中学3年生である。中学生のセックスを、世の親たちは奨励するだろうか。天皇にとってはセックスが可能なら、相手の年齢など、どうでもよかった。
天皇と肉体関係をもったことにより、女官の発言力が高まり、隠然とした権力を手にすることもあった。また、天皇の生母であれば、発言力もました。大正天皇の母親である柳原愛子は、大きな影響力を持ったらしいし、「魔女」といわれた今城誼子は、裕仁の妻=良子をつうじて、さまざまに影響力を行使したという。
女官は、おおくが華族の娘から選ばれたが、例外もいた。
華族出身ではない女官で異色なのは、岸田俊子と下田歌子であろう。俊子と歌子は近代の女官のなかでも特異な存在であったが、俊子と歌子の女官辞任後の生き方はまったく対照的であった。P78
大正天皇の正妻だった節子は、裕仁、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)、祟仁(三笠宮)をつぎつぎと出産した。多くは成人まで育たないのであるが、4人とも無事に成人した。大正天皇は、病弱だったことも手伝って、節子以外の女性とのあいだには、子供を残さなかった。そうした事実を受けて、昭和天皇である裕仁は、側室制度を廃止した。
女官がセックスの相手をしなければ、彼女たちは住み込みの必要がない。裕仁は1夫1婦制をとると同時に、宮内大臣だった牧野伸顕の反対にもかかわらず、女官を住み込みから通勤制に変えた。つぎつぎと宮中の改革を進めた裕仁が、国政にだけ無関心だったとは思えない。おそらく軍部の動向も、きちんと掌握していたに違いない。それは2.26事件の時の、彼の発言を見てもわかる。
天皇のセックス相手以外にも、女官は必要だった。それは乳人とよばれる女性、つまり人工栄養のなかった時代、授乳をする女性である。
当時(=昭和初期)、軍部や右翼が政治的に台頭し、牧野や一木ら天皇機関説派とよばれる宮中側近を攻撃する動きが強まっていた。なかでも、平沼騏一郎枢密院副議長は宮中側近の地位を狙っていたが、その右翼的な傾向が元老西園寺らに忌避されており、平沼は現職の宮中側近を攻撃することでその野望を遂げようとしていた。こうした政治的策謀の渦に乳人選定が巻き込まれたといえる。P184
選挙以外で選ばれた者を、政治権力の座につけることは、決して良いことはない。どんなに名君であろうとも、身分制の害悪からは逃れられない。血統にもとづく天皇制は、悪い制度である。またそこに使える女官たちにも、彼女たちの人生に悪い影響しか残さない。天皇制は、近代的な制度にはなりえない。たとえ男の子が産まれても、時代遅れの天皇制は呻吟を続けるであろう。(2002.12.13)
◆122代 明治天皇
http://www.logix-press.com/scriba/jm/tn122.html
在位期間 1867年 1月 9日 〜 1912年 7月30日
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孝明天皇┌─明治天皇┌─大正天皇
‖──┘ ‖──┘ ‖───昭和天皇
中山慶子 柳原愛子 九条節子
孝明天皇の第二皇子。万延元年(1860)親王宣下。慶応二年(1866)十二月父帝の死去により、翌年一月践祚して皇位を継承。徳川慶喜の大政奉還により、同年十二月王政復古による新政府を樹立。慶応四年(1868)三月、五箇条の御誓文を発し、新政府の大方針を示した。同年九月、明治と改元、一世一元の制を定めた。翌十月、京都から東京に移って江戸城(のちに宮城)に入った。明治二十二年(1889)欽定憲法として発布された大日本帝国憲法により、日本最初の立憲君主となった。
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御名・異称 睦仁 むつひと
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略年譜 誕生・嘉永5年(1852)9月22日
即位・明治元年(1868)8月27日
崩御・明治45年(1912)7月30日(61歳)
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配偶者 皇后・一条美子
葉室光子、橋本夏子、柳原愛子、千種任子、園祥子
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御 父 孝明天皇
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御 母 中山慶子
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皇子女 稚瑞照彦尊、稚高依姫尊、薫子内親王、敬仁親王、嘉仁親王(大正天皇)、韶子内親王、章子内親王、静子内親王、猷仁親王、昌子内親王、房子内親王、允子内親王、輝仁親王、聡子内親王、多喜子内親王
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皇 居 宮城 きゅうじょう……東京都千代田区
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陵 墓 伏見桃山陵 ふしみのももやまのみささぎ……京都府京都市伏見区桃山町古城山
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◆<宮内庁長官>皇太子ご夫妻の公務見直しを検討
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040528-00000077-mai-soci
皇太子さまが10日の記者会見で、皇太子妃雅子さまの心身疲労の背景について「人格やキャリアを否定するような動きがあった」などと発言したことに関連し、宮内庁の湯浅利夫長官は27日の定例会見で、今後の皇太子ご夫妻の公務について「希望の実現のため努力する」と述べ、見直しを検討することを明らかにした。
また、今月中旬、湯浅長官と藤森昭一氏、鎌倉節氏の歴代長官が集まった席で、天皇、皇后両陛下から「力になってほしい」と要望されたことを明かした。財界人らから任命している宮内庁参与が皇太子ご夫妻と話し合う機会を提案する考えも示した。
湯浅長官は発言の真意を聞くため皇太子さまに面会を申し出ているが、「本日までに招かれていない」と述べた。今後の面会は未定という。【竹中拓実】(毎日新聞)
[5月27日20時56分更新]
(私のコメント)
皇太子殿下の「雅子妃への人格を否定した行為」発言以来、皇室問題を考えているのですが、学校における歴史教育でも、テレビなどのマスメディアも明治天皇や大正天皇が側室つまり妾さんの子供であることは教えない。私もネットを検索していて始めて知った。また歴代の天皇には多くの側室がいるのが本当の話で、大正天皇が裕仁を生んだのも15歳の時であり、中学生が女官に手を出して子供を生ませたなどとは、学校の先生やワイドショーのキャスターなどは口が裂けてもいえないだろう。
昭和天皇はこのような前近代的制度を改めましたが、その改革のつけが今の皇太子に影響が及んでいる。たとえ雅子様が男子をご出産されてもこの問題が解決されたわけではありません。ニュースなどでは女帝を認める動きが大勢ですが、これも大きな問題をもたらします。まず女帝だと一人の女性が産める子供には限りがあり、一人も産めなかったりするとお家騒動が起きる。また女帝に何人も男の側室を持たせるのも、父親が誰かで問題が起きる。安易な女帝論に次のような問題を指摘する人もいる。
◆女帝論に見る政治家の無知 (現在はリンク切れになっている)
国民待望の新宮さまが誕生された。「敬宮愛子」内親王殿下――ご退院の日、テレビで初めてお顔を拝見した時は感激の余り涙がこみ上げた。巷には、天皇・皇后両陛下が伊勢神宮ご参拝を終えられ、ご帰京直後にお生まれになられた内親王様ということから、ご誕生を平成の「天の岩戸開き」に譬える人もいる。そんな話が不自然とは思えないほど、内親王様ご誕生に対する国民の喜びは深いということだろう。いずれにしても、筆者もまたかかる国民の一人として心からお祝い申し上げたい。
ところで、こうしたご慶事に関わる話題としては必ずしも適切ではないのだが、直後にマスコミを賑わせた「女帝論議」についてここでは書いてみたい。これがわがマスコミそして政治家の性癖でもあるのだろうが、まさに図ったかのごとく、一斉に「女帝あってしかるべし」の大合唱となったからだ。いちいち名前は書かないが、やれ男女平等だの、男女共同参画だの、あるいは外国はどうだ……だの、いかにも安直な理由を臆面もなく掲げ、彼らは皇室典範の改正をこもごも訴えた。中でも念が入っていたのが、小沢一郎自由党党首の「男系に限ったのは明治以降の話で、女性の皇位継承は一向に差し支えないと思う」との発言である。テレビを見ていて、思わずアホかといいたくなった。どこかでの聞きかじりだろうが、こんな知ったかぶりをされると、何も知らない政治家は黙っていろ、とさえいいたくなる。
まず何といっても失礼な話である。やっと第一子がお生まれになられたばかりなのだ。当然国民としては続けて第二子、第三子のご誕生をお祈り申し上げている所であろう。それをこれでもう将来は決まったとばかりに「女帝論」というのは、誠に非礼な話という他ない。軽い気持ちでの発言なのだろうが、ことの性質上黙って見過ごせる話でもない。
次に男女平等云々である。それなら人間も平等なのだから、皇室特別視は止めにしよう、といわれたらこの政治家たちはどう反論するのだろうか。そもそも天皇制度があるということは、男女平等だの人間平等だのということとは次元が違う話であろう。そこに安易にこんな話をもってくると、それでは天皇の職業選択も自由に、信仰も自由に、結婚も自由に――という話にさえなってくる。時の流れがそうだというなら、そういう話になる筈なのだ。むろん、問題はそんな次元ではなく、伝統的な天皇制度の本質はそもそもどこにあるかという話であろう。女帝云々はあくまでもそうした本来の論理の中で考えられるべき問題なのだ。
そこで小沢党首の発言である。たしかに明治以前には十代八方の女性天皇が存在した。しかし、それは今ここで論じられている女帝とは質が違う話なのである。それは簡単にいえば、天皇が崩御されたが本来の皇位継承者は未だ幼少であり、それが成長されるまでの「中継ぎ」として未亡人たる皇太后が即位されたといったケースである。今でいえば「摂政」ともいうべきお立場であろうが、当然そこには男系の皇位継承予定者がおり、いずれ男系に戻ることが予定されていた。その間のいわば「つなぎ」がこの女帝だったのだ。
ところが、今論じられている女帝は違う。男系の皇位継承者が存在しなくなったケースでの話なのである。かかるケースでの女帝などというのは、これまでいない。そうしたかつてないケースをどう考えるかという話なのだ。その女帝のあとは、当然そのお子様が継承されることになろうが、その時皇統は「女系」に移る。しかしわが国の歴史では、これまで女帝はいても「女系」は存在しなかったのだ。だとすれば、問題は慎重の上にも慎重な検討が必要とされるだろう。
むろん、どんなことがあっても皇統は維持されなければならない。その意味では、いずれ皇室典範を見直すということも可能性としては否定できない。しかし、それにしてもそれは大衆的に論じられるべき題材ではない。責任者が粛々と検討を進めればよい話なのだ。無責任な政治家の議論などましてや論外である。
かつて木戸孝允や大久保利通といった政治家は、新たな天皇制度の確立に向けて命がけの努力をした。また旧皇室典範の制定は、これ以上ないというほどの真剣な研究討議の上に行われた。そうした人々の努力に対して、今の政治家は余りにも無知無関心なのではなかろうか。もっと真剣に、もっと威儀を正して、この種の問題は考えるべきだ。
(私のコメント)
私は天皇制反対論者ではありませんが、多くの問題を抱えているにもかかわらず、具体的な改革論は起きていない。現行憲法からすれば男女同権を謳っているのだから、女帝も認めるのは自然な感じですが、天皇制自体は憲法で定められたものであり、天皇家自身は憲法が定める人権の範囲から出ている部分があります。つまり職業選択の自由や信仰の自由なども認められていない。ならば婚姻制度も正妻のほかに側室制度を設けるなどの措置があってもいいかもしれない。
しかしこれでは日本国民のモデルとしての皇室は問題を起こしてしまう。天皇家が正妻のほかに妾を何人も持っているのだから私だっていいではないかという不心得者が出てくることは必定である。戦前では大きな問題にはなりませんでしたが、戦後の現行憲法下では大きな問題になる。これもGHQによる陰謀なのだろうか。