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(回答先: 明治天皇も大正天皇も正妻の子ではない 投稿者 TORA 日時 2004 年 5 月 28 日 12:35:41)
・20.「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史-其の肆- (1998.1.4)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4.html
(重要部分を抜粋)
さて、本題に映ります。ずばり言いましょう。なんと、明治天皇も「暗殺」されていたと。では、なぜ、そう言えるのか? まずは、下の表を通して、「即位前」と「即位後」の「明治天皇」(正確には睦仁親王と言うべきですが・・・)を眺めてみて下さい。
即位前(睦仁親王時代) | 即位後(明治天皇時代) |
---|---|
睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。 | 明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。又、実際の顔にも「あばた」は無かった。 |
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。 | 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。 |
睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。 | 体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。 |
睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。 | 明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。 |
即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。 | 明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。 |
以上、即位前と即位後の明治天皇(睦仁親王)を比較してみましたが、誰が見ても、同一人物とは思えません。即位前、虚弱体質で臆病で字が下手で女官と遊んでいた「睦仁親王」と、即位後、相撲で相手を投げ飛ばす程の巨漢で字が上手く乗馬もこなした「明治天皇」。これらの事実から、「睦仁親王」と「明治天皇」が「別人」であったと考える方が、むしろ自然では無いでしょうか? これは一体どう言う事なのでしょうか? 考えられる事はただ一つ。つまり、睦仁親王とすり替わった「何者」かが、「明治天皇」として即位したと。そして、睦仁親王は父・孝明天皇同様、岩倉具視一派によって暗殺されたのだと。
・【明治天皇の出自】〔平成13年3月〕
http://www8.ocn.ne.jp/~shizoku/meijitennou.htm
・大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室
http://www.ma.megafit.net/~kt145/oomuro.htm
(冒頭部分)
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)の秘密についてお話します。(こっそり)
◆山口県田布施町の大室さん
そもそも、田布施町のタブー(この事)については、(大室寅之祐について)田布施の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤、岸すら知っていたが、「うち」の爺さんが「大室家が南朝の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家23代目なんて嘘だ!」と言っていた。始め意味が分からなかったが本質は 1.寅之祐が本当に南朝光良親王から23代も続いているのか? 2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。その後、大室家(後大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文政時代に初代大室家当主が死去。だから、大室寅之祐の代で、後大室家5代目に当たる。
なお、阿修羅過去ログにもこの記事あり。
http://www.asyura.com/2002/bd18/msg/943.html
・有馬範顕卿御一代記
6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/bakumatsu7.html
・明治天皇は、山口県田布施町出身の南朝の末裔・大室寅之祐。検証を重ねた結果をここに明かす。
http://www.infact-j.com/kashima/tyosyo.html