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Re:『賊軍の旗としての日章旗』/「日の丸」を国旗にするということは、賊軍、とくに東北人にとって‥( 無着成恭)
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/448.html
投稿者 東北原人 日時 2004 年 5 月 05 日 19:10:49:FdPef1bO/XpiA
 

(回答先: 日本の教師、国旗法への怒り [CNN] 投稿者 揚げ豆腐 日時 2004 年 5 月 04 日 12:18:31)

(タイトル)

『賊軍の旗としての日章旗』/「日の丸」を国旗にするということは、賊軍、とくに東北人にとっての悲願でもあった。(無着成恭)

(ここから本文)

以下は少し古い論考ですが無着成恭氏の「賊軍の旗としての日章旗〜仏教者としての私の主張〜」(1999年7月10日太郎次郎社刊行の『公論よ 起これ!「日の丸・君が代」』に所収)からの引用です。全体は一万字程の長い論考なので、ここでは無着氏の「日の丸」に関する極めて独特な見解・立場を中心に、要約と引用によって、この論考を紹介していきたいと思います。

 まず始めに触れておかなくてはならないことは、この論考は「国旗・国歌法案」が可決成立する以前に書かれており、この法案に向けて様々な議論が展開されている時期での発言であるということです。
 無着氏の立場は「国旗・国家」問題を天皇制の問題、したがって憲法問題とも関連させて考えなくてはならない、というものです。
 無着氏は次のように主張します。

(引用開始)
結論からさきに書いておきたい。
@日章旗を日本国の国旗とすることに私は賛成である。
A「君が代」を日本国の国歌としないことに、私は賛成である。
B天皇や皇族にも私たちと同じ国籍と戸籍と、自由と義務と権利をあたえ、一個人
として私たちの仲間に迎えることに賛成である。
(引用ここまで)

 そして無着氏は、これらについて、国民投票によって決するべきだ、と主張します。

 さて、ここで問題にしたいのは、もちろん@の主張についてです。
 無着氏は、「日の丸」が使われてきた歴史的な経過に触れ、明治以降、法律上「日の丸」が国旗として定められたことは一度も無かったという事実を確認し、その上で、次のように指摘します。

(引用開始)
基本的には「錦旗」(菊章旗)が官軍の旗で、「日の丸」(日章旗)は賊軍の旗であることにある。安政四年‥‥アメリカへ渡った咸臨丸の船印は「日の丸」であった。明治維新のとき榎本武揚のひきいる賊軍の艦隊は「日の丸」で、官軍の艦隊は「菊の紋」であった。明治以後、第二次世界大戦が終わる1945年まで日本の戦争道具にはすべて「菊の紋」が刻印されていた。「日の丸」はどこにも刻印されていない。鉄砲も機関銃も大砲も軍艦も、すべて「菊の紋」であり、天皇のもちものであった。
「天皇陛下からお借りして敵をやっつけるのだ」と私たちは教育された。戦争をしたのはすべて「菊の紋」であって、「日の丸」ではないというのが私の認識である。そうでなければ‥‥元日本兵横井庄一軍曹が、なぜわざわざ天皇のところへ鉄砲を返しに行ったのか!
私の意見は、日本軍がおこした戦争の根元に天皇制(無責任体制)があり(司馬遼太郎『この国のかたち』四、文春文庫、「統帥権」にあきらか)、「菊の紋」(錦の御旗)があったのだということを内外に闡明にすべきだという点である。
(引用ここまで)

 更に1979年5月8日の衆議院内閣委員会における内閣法制局長官答弁「昭和25年の法務省見解というのがございまして、菊の御紋は天皇の紋章であり、天皇は国家の象徴であるから国家の紋章として菊の御紋章を使用しても差支えないという見解が示されております」を引用しつつ、次のように結論しています。

(引用開始)
つまり、明治以来、日本国民を支配するシンボルは一貫して「菊の紋」であって「日の丸」ではなかった。だからすべての戦争道具や武器は「菊の紋」であったし、パスポートは「菊の紋」であるし在外大使館・公使館・領事館は「菊の紋」なのである。
(引用ここまで)
 
 さて「日の丸」が一度だけ、帝国議会で国旗として、法制化されるチャンスがありました。
 1931年(昭和6年)のことです。一度は法案が上程されたにもかかわらず、可決成立までに至らず、廃案となったのは何故か?無着氏は、当時の国会での議論経過を調べることができなかったことをことわりつつ、氏自身の推測として以下のように述べています。

(引用開始)
「日の丸」を国旗とすることは徳川方(賊軍)を認めることになる。賊軍の旗を国旗にするということは菊の旗(官軍)と交替させるということになる。国民がこの事実を知ったならばおのずから「日の丸」を国旗にするということは天皇のご退位、天皇制の廃止ということになりかねない。だからここは曖昧にしておいて、軍事的支配としては「菊の紋」、国民的感情としては「日の丸」というかたちをとって、両立させておいたほうがよい‥‥というようなことだったのではないかと思う。故
「日の丸」を国旗にするということは、賊軍、とくに東北人にとっての悲願でもあった。
それは天皇制の終焉、天皇陛下の円満ご退位と皇族の国民化(同和)というシナリオが用意されることになるとしてもである。
「日の丸」を法的に国旗にするということが、いまならば、戦後教育のなかで差別をなくすためにも重要な問題である同和教育の本質にふれることでもある。
(引用ここまで)
 
 次に、無着氏は「君が代」が国歌としてふさわしくないことへの主張に移りますが、今回の私の投稿ではそこまで触れるつもりはないので、その紹介は省略します。

 実は仏教者としての無着氏がこの論考で一番訴えたいことは、この後の部分における、<日本国における天皇制支配と宗教の関係>にあるものと思われます。無着氏は「『日の丸』・『君が代』・『天皇』を考えることは、明治維新というものを功罪の両面から見直すということである。私たちは明治維新の功績の側面からばかり教育されて、罪業の面からはまったくなにも知らされなかった。」としています。
その上で無着氏は、
@ 明治政府が行った、「神仏分離」と「廃仏毀釈」、天皇を仏教から引き離し、国家 神道の頂点に据えて、国教化したことの問題(天皇家は聖徳太子以後孝明天皇まで敬 虔な仏教徒だった、と無着氏は言う。)を指摘ます。
A そして、タイやカンボジアの例を引き合いに出しながら、国家の政治的な支配体制 とは別個に仏教が国民の精神的支柱として(支配の道具としてではなく)存在してい ること、タイでは憲法上「国王が仏教徒でなければならない」とされていること、カ ンボジアでは、国王が仏教の僧として修行した者しかなれないこと、ベトナムについ てはホー・チミンの話として「共産主義の考え方で政治や経済を考えるが、共産主義 は宗教ではありません。人間の心は宗教でしか癒されません。だから仏教は大事で  す。」と言ったという話を用いて、「共産主義」と仏教が同居していることなどにつ いて述べます。
B その上で、ベトナムにおける王制廃止のプロセスに触れながら、「天皇とか国王と かいう地位についているかたがたが、近代国家のなかでの自分の役割というものを自 覚している場合、最終的には全責任が自分のところに集中するのだとなれば、それは 不可能ということになり、かしこければベトナムのグエン王朝の最後の国王のような かたちでピリオドを打つであろう。そのとき国民は偉大な国王であったと歴史に銘記 するであろう。逆に、全責任が自分にあることを自覚できないまま無責任体系の頂点 で傀儡化されているならば、国民は肝の中では嘲笑しながら、表面では尊敬している ふりをするだろう。その結果が、大きな、世界的な犯罪を引き起こさないという保証 はどこにもない。」と断じます。
 
 無着氏は、更に、
C 仏教を中心とした宗教家の堕落(廃仏毀釈運動や太平戦争期も含む)の問題、
D 一切の私物を持たないのが本来の仏教徒であること、
E 1995年カンボジアの仏教寺院に日本の仏教界から南伝大蔵経(トリピタカ)を 贈呈した際の話(贈呈式でシハヌーク国王が無着氏ら日本の仏教僧侶に土下座して三 拝した)
などに触れながら、次のように述べます。

(引用開始)
仏教は、万国の、つまりすべての国々の仏教であって、一か国に限らない、という思想を根底に持つ。自分の国家のためにだけいのちをすてた人を祭る宗教とは違う。
(引用ここまで)
 
 長くなりましたが、終わりに、この論考の最後の部分を引用します。

(引用開始)
賊軍の旗を国旗に――――シャレたはからいである。
最後に、「日の丸」は私たち賊軍の末裔にとっては怨念の旗であることを言っておきたい。私の父は鬱屈した心を吐き出すように「どうせわれわれは賊軍だからな」とか、「長州の足軽どもが」などとよく言った。(無着家の由来が上杉藩の足軽であり、曽祖父は明治維新で失業し、食えなくなって祖父をお寺にあずけた。そのお寺が無着禅師(禅宗の祖師の1人)の法系なので小僧たちが無着を姓にした)‥父は心のなかにいつも賊軍の末裔としての意識があり、私に「われわれ東北人は、菊に追いつめられて食えなくなった賊軍なんだ。だから菊の花を食うんだ。」などと言って菊の花を散らかしていた。‥‥「あいつら錦の御旗だ。おらだ日の丸だ。」とも言った。こういう感情はなにも山形県人ばかりではない。東北六県みな賊軍意識をもっている。とくに会津若松や二本松のかたがたの心の中には、遺伝子に組み込まれているといっていいだろう。「錦の御旗」(菊の紋)の前に血を流し、その血で染めた怨念の旗「日の丸」がようやく国旗として日の目を見ようとしている。日本は菊をひっこめて日の丸を立てるところまできたことを、仏教徒として喜びたい。
(引用ここまで)


【PS】
「国旗」=「日の丸」、「国歌」=「君が代」の学校への強制の問題について、ここで自分の見解や認識を述べることは、またまた長くなるので別の機会にしますが、私も東北人なので、無着氏のこの論考には、従来から「日の丸」や「天皇制」に関する私の認識や言動の変更を迫るものがありました。例えば、新年の皇居における一般参賀の際、「日の丸」の小旗が無数振られる中が天皇が挨拶に立ちますが、賊軍の旗「日の丸」が振られる前に立つ天皇=「菊の紋」が立つという構図は、それまでの苦々しさとは違う
ブラックなユーモアを感じしてまう場面でした。確か永田町の自民党本部にも賊軍の旗がはためいていると思うのですが‥‥。
 
 一方、ここで引用した『公論よ 起これ!「日の丸・君が代」』には、網野善彦氏へのインタビュー論考『花綵(かさい)列島の歴史のなかに「日の丸・君が代」をおいて視る〜「日本」という国名、天皇の称号、そして「日の丸・君が代」』も掲載されており、その中では、無着氏の見解・立場を相対化する観点が出されています。

(引用開始)
「日本」は地名でも、天からふってきたものでもなく、七世紀末にヤマトの支配者が決めた国の名前であるということを日本人自身がまずはっきり意識し、そこから出発しなければならないと思います。

日本という国名は‥‥中国大陸の大帝国から自立しようとする意識と、しかしあくまでも中国大陸――その当時の隋や唐――の国制をモデルにしようとする意識と、その両方がコンプレックスとともに重なってできた国名であると、古代史家は言っています。

倭国から日本国へと国の名前を変えたことの意味は、ひじょうに重大なのです。

日本国ができたとき、関東まではともあれその国制のもとにはいりましたが、それ以前の時代、関東が倭国にふくまれていたどうかはかなり疑問ですね。戦争もふくめさまざまな交流を通じて、関東人は倭国に編入されていったのだと思います。東北にいたっては日本国の出発当初はその国制のもとにははいっていなかったので、日本国が侵略したわけですよ。
‥古代史家は日本国と東北人との38年戦争といっています。
‥そして最終的に東北人は日本国に屈服していないのです。
‥津軽・下北・岩手北部は11〜12世紀までは日本国ではありませんでした。日本国はそこまで国境を北上させることができなかったのです。日本国ははじめから、東北(蝦夷)、南九州(隼人)などを未開の地とみて侵略・併合しようとする古代帝国主義的な特質をもっていました。
(引用ここまで)

 したがって、「日本国の国制」が侵入してくる以前の東北はまだ仏教の進出もなかったということになるはずです。では日本国の侵略以前、仏教の浸透以前の東北とはどういう世界だったのでしょうか?
 これは、仏教者である無着氏に対して投げかけても無意味な問いかもしれません。
が、こういう問いを提出してみると、無着氏の先の論考で示した視点・認識は、射程が小さく、底が浅いものに思われてくるようにも感じたのでした。


以上長くなって済みませんでした。

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