現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ35 > 460.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re:『賊軍の旗としての日章旗』/「日の丸」を国旗にするということは、賊軍、とくに東北人にとって‥( 無着成恭) 投稿者 揚げ豆腐 日時 2004 年 5 月 05 日 22:26:40)
揚げ出し豆腐さん、レスありがとうございます。
私の無着氏の論考の紹介に対して、二つの点でのご指摘だと思いますので、それぞに私の拙い考えを述べさせていただきます。
>いまだに「官軍 vs. 賊軍」の枠組みで、現在の政治を論ずる人がいるというので、と>ても驚いたことを覚えています。「東北六県みな賊軍意識をもっている。」とたいう>のは本当なんですかね。四国の百姓の子孫には、とても想像できません。
実は私も、最初読んだときは、揚げ出し豆腐さんと同じ印象を持ったのです。自分も東北人だけれど「賊軍意識」なんてもってるかな、と。少なくとも親たちは天皇を有り難がっていましたし、普通に生活している中で、特に強烈に天皇や天皇制の歴史を感じるとか意識するとかという場面はほとんどありませんでした。
ですから結局それは、自然にではなく、後で、歴史的事実を知ることによって形成される意識でしかないのではないか、と思ったのでした。
一方、東北では最近でこそ違いますが、殆どの中学で東京への修学旅行、高校では京都・奈良への修学旅行が行われてきました。その中で、東京では皇居三拝、京都では京都御所三拝が必ずといって良いほど設定されています。少し穿った見方をすれば現在の天皇も歴史的存在としての天皇も供に有り難がるようにしむけられているということなのかも知れません。
ただ、そんな中で、小学校や中学の幼い心の中で、天皇の存在をなんとも不思議だ思う、あるいは天皇を有難がる親たち大人たちに違和感を覚える場面があったことも確かです。一体天皇は何故特別なのか、天皇とはどういう存在なのか、なんで天皇を有りがたがらねばならないのか、子ども心にそんなことを考えたり、友達としゃべったりしたこともあることは確かです。でもそれは何も東北である必要はなく、「天皇制「」へのかすかな違和」ではあつても「賊軍意識」というようなものではありません。
私としては、無着氏の論考を読んだ後である現在は、むしろ歴史的に「東北」を捉え返そうとするとき、強烈に意識される観点のひとつとして「賊軍としての東北人」があると思っています。
しかし、会津地方などでは決して誇張でなく、戊辰戦争の戦場になった場所の一つとして、無着氏が言うような意識が、土地の年配の人々に根強くあることは確かだと思います。
よく考えてみると、無着氏は多分、<天皇制による東北の支配>という問題を強烈に意識していたのだと思います。すなわち、読むものに、<天皇制>という時空間にすんなり収納されてしまわない<東北>という時空間を強調したいがために、あるいは、<天皇制>への<違和>を掻き立てるための戦術として、こういう主張の仕方をされたのではないか、と思います。
確かに、第二次世界大戦で果たした役割についての曖昧な歴史認識の下で「日の丸」とその強制に漠然と反対してきた立場の人間(私も含む)にとって、「菊の紋」VS「日の丸」という構図は思わぬ形で虚を突かれるところがあったわけです。
そうです。
「日の丸・君が代」の問題は無着氏が言うように、「天皇制」の問題を抜きにしては語れないのであり、「日の丸・君が代」とその強制に反対するものは当然のこと、「天皇制」に対する立場を問われざるを得ないということです。
無着氏のこの論考も一応「国旗・国歌法案」問題に関連して、「日の丸」と「君が代」をどう考えるかのテーマになっていますが、本当のテーマは「明治期以降、神道一色に染められた天皇制」に支配された「日本国」を「仏教者」の立場から撃つことによって、日本の政治体制を天皇制から脱却させたいということにある、のではないかと思うのです。
実際、私が知りうる限りで、「日の丸・君が代」とその強制反対の闘争は日教組などが中心となり進めてきたといって良いのでしょうが、日教組の反対闘争は「天皇制」との対決を回避する形で進められたと言ってよいようです。
何故でしょうか。
その問題は、突き詰めれば、昭和天皇の戦争責任問題、そして現行憲法における「象徴天皇制」の問題に行き着くからです。
しかしこの問題は、ある意味ではあまりにもイデオロギーすぎて、前面に押し出して闘うことは、大衆組織であって政党でも思想集団でもないところのただの労働組合である日教組全体にとっては、極めて困難だったというべきでしょう。
ですから、日教組の組織率がそれなりに高く闘争方針がそこそこ浸透することができ、かつ校長の独断を食い止め、教職員全体の意思で学校運営を行うことが許容されている間は、卒業式や入学式などの学校式典に「日の丸・君が代」の導入をさせないでこれたのだろうと思います。
そして日教組などのたたかいは、「天皇制との対決」ではなく、思想信条の自由を守る、人権侵害を食い止めるという戦術にすり替えざるを得なかったと思われます。
そしてこの戦術は「国旗・国歌法」成立以前の段階ではなんとか効果はあったと思われます。
無着氏の主張は、このような「天皇制との対決」を避けて「日の丸・君が代」反対闘争を進めてきた勢力の、まさに弱点あるいは虚を突いたものだったのではないかと思われるのです。
他方「日の丸・君が代」いや少なくとも「日の丸」推進派にとっても、無着氏の「日の丸」=「賊軍(天皇に敵対するもの)の旗印」という指摘は、虚をつかれるものだった筈です。私が聞いた話では、ちょっと前の話ですが、都立の高校で校長が「日の丸」掲揚を強行したのに対し、「右翼」教師が「日の丸」を「賊軍の旗」=不浄の旗であるとして引き摺り降ろしたという事件があった(校外には公にならず)ということでした。
さて、ここでご指摘の二つ目の問題に移行しようと思います。
>私の勝手な想像ですが、東京で起立を拒否して処分された教師の皆さんは、日の。
>丸・。君が代が、先の戦争、敗戦以降、そして、憲法の改定が日程に上がっている現>在において、これまで、どのような役割を果たして来たのか、これから、どのような>役割を果たそうとしているのかを考えて、強制に反対しているのではないでしょう
>か。もしそうであれば、処分された教師の皆さんも、無着氏の主張は、とても納得で>きないんじゃないかと想像します。私の勝手な想像ばかり書いて申し訳ありません。
この十年ぐらいの間に、「日の丸・君が代」とその強制に反対するたたかいへの文部省や自民党などからの弾圧は、広島などを見ればお分かりのように熾烈を極めました。
その一方でスポーツの国際大会・試合などにおける日本人選手の活躍とそれへの応援の盛り上がる中(マスコミに煽られた?)「日の丸・君が代」は抵抗無く「国民」に浸透していったと見ることができます。
そしてついに「国旗・国歌法」の成立です。
日教組はすでにその運動方針から「日の丸・君が代」反対闘争方針はなくしていると聞いています。
結局いまや「日の丸・君が代」とその強制反対のたたかいは、小さい組織やまったくの個人によって担われ、言わば個々バラバラに孤立した状態で行われているといってよいのだと思います。
東京都は言わば最後の止めを刺すかのように、「日の丸・君が代」が持つイデオロギー的な問題は一切触れず、つまり特定イデオロギーの強制ではなく、教職員1人1人に職務命令で式典での起立を強制し従わせるという、手段に出てきています。すなわち職務命令を発するものとそれに従うものとの権力関係の貫徹という形をとってきたわけです。
そしてここでは、東京都教育委員会のこのような管理強化の姿勢を撤回させることが可能な組織的対応は困難になってしまっていることを想定しなければならないのでしょう。つまり抵抗は個人個人の教員の意思で行われる段階にきてしまったということです。
ここでは二つの問題が生じています。
@ 「日の丸・君が代」の強制の持つ主としてイデオロギー的側面。太平洋戦争の遂行をイデオロギー的に支えるため天皇制や皇国史観の形成が必要で、そのために利用されたという問題。それがまたぞろ、教育基本法の改悪や憲法改悪の問題とリンクして、いま復活しようとしているのではないかという問題。これは揚げ出し豆腐さんもご指摘の問題です。
A もう一つは、東京都教育委員会が権力を行使する形で、職務命令を発してでも強制的にやらせようとしているその管理強化を食い止めたいという問題。
東京都教育委員会は、@の問題を全く棚上げして、Aのみに限定して進めてきているはずです。
若し、Aで対抗しようというのなら、都議会議員の政治力を使うとか、組合などが関与して組織的に抵抗するなどの対抗措置がとれない中では、絶望的です。保護者や生徒の大勢が教員の立場で東京都教育委員会のやり方に反対の声をあげるなどの動きがあれば別でしょうが、それも困難だったでしょう。
現状では必ず処分が出ると考えざるを得ません。抵抗するほうはむしろ確信犯的に遂行するしかないのだと思います。すると処分されるのは十分に覚悟の上で、法廷闘争も含めた処分撤回の闘争を自前でもやりきるという覚悟で進めるしかないのだと思います。
自分が起立しないで、処分も回避で済ましたいという程度の覚悟しか無い者は、当日仮病で休むとかの手段で逃げたほうが賢いと思います。
このAの場合「日の丸・君が代」の歴史的役割は二次的なものに過ぎなくなるので、無着氏の主張そのものが殆ど関係ない無意味なものとなるでしょう。
一方若し、@で対抗しよというのならば、まずは歴史的役割も含め「日の丸・君が代」について事実認識も含めどのような理解・認識を、誰に、もたせられるのか、ということが問題となるはずです。そしてここでは、強制しようとしている東京都教育委員会・校長はじめ、式典に立ち会う保護者、生徒、教職員全体の理解・認識をどのように形成できるのか、という問題として設定できる筈です。
「日の丸」については、現状スポーツの大会などで極当たり前になってきているけれども「太平洋戦争における日本のアジア侵略の旗印」「明治戊辰戦争における官軍(天皇軍)に対する賊軍の旗印」というような歴史的役割があったこと。あるいは天皇制の歴史や役割の問題。それを知っていて「日の丸」を視るのと、そうでないのとではかなり違うのではないかと思います。かつ、そのような視点の形成を教員側が行おうとすることに対する県教委からの介入を排除することに力点をおいてとりくむことがまたポイントとなります。
このような意味では無着氏の主張は十分に踏まえるべきものの一つと言えると思います。
若し、私が今回の処分された教員の立場ならば、あらゆる手段・知恵・工夫を総動員してこのような認識・理解を広げようとするでしょう。
また教育基本法や憲法の改悪の問題に関係があるというのなら、実は学校現場における「日の丸・君が代」強制反対のたたかいに、憲法・教基法改悪阻止たたかいの主戦場をおくことはできないと考えます。主戦場は、国会での政党間の動向とこれに対する国民世論がどのように形成され、国会での政党の動きに圧力をかけていくかにかかっているのではないかと思います。そこでの闘いに個人個人がどのように有効に関わっていけるのかを考えたほうが良いと思います。
そうすると、@の立場から対抗をしたいのだとすれば、東京都教育委員会が、イデオロギー的強制をして来ない以上、こちらが企図するような理解・認識の浸透がはかられるのであれば、都教委とのたたかいにおいて優位に立ったと言えるし、起立するかしないかなどというのは、二次的、三次的な問題でしかなくなるのではないかと思うのです。
黙って起立し、「賊軍の旗」を眺めながら、アジア侵略を行った大日本帝国と天皇の歴史や七世紀から十一〜二世紀にかけてこの国の列島全体を支配下におくため、東北や九州の(あるいは四国の?)原住民の世界を侵略していった「日本国」の歴史を思いながら「君が代」を聴く。そして憲法・教育基本法改悪阻止のために自ら何をなすべきかを思う。現状では、そういう時間として苦痛に耐えるしかないと思います。どこかのセクトや組織からは、「敗北主義」だの「日和見主義」だの言われそうですが。
長くなりました。ご指摘の問題にうまく応えているとは言い難いように思いますが、
まずは今回はここまでとしたいと思います。
では、また。