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「座って話す」紛争解決 酒井 啓子(アジア経済研究所参事)
先日中国に出張に行った同僚が、中国人のタクシー運転手の長説教に付き合わされた。話題は、アメリカのイラク駐留。何でアメリカは好きじゃない相手とうまくやっていくことができないんだろう、というのが話の発端だ。
「日本人と中国人だってお互い嫌いなのに(そ、そうなのかなあ)、なんとかうまくやってるじゃないか。家族だってそうだよ、カミさんが文句言おうが、娘が言うこと聞かなかろうが、仲よくなくてもうまくやっていくってもんじゃないかね。普通の家でもやってることを、どうしてアメリカはできないのかねえ」
運転手が言っているのは、イラクで米軍がところかまわず「鉄槌(てっつい)作戦」を展開していることだ。南部で反米強硬派のサドル派をつぶし、中部のファルージャではモスクを空爆して、憤った住民が「人質作戦」をとるまでに攻撃をエスカレートさせている。
確かに、サドル派が暴れん坊なのにはイラク人も困っている。ファルージャで頭に血が上った失業者が外国人の車を焼き打ちしたりするのも、頭が痛い。だけどいきなり武力でねじ上げればいいというわけでもなかろう、と彼らは思っている。
じゃあ暴れん坊がいたときに、イラク人はどうするのか。「座って話をする」と彼らは言う。血気盛んなのがいれば、まあまあと諭して座らせる。それぞれの言い分に耳を傾けて、車座になって解決方法を探る。アラビア語で評議会や国会を表すマジュリスという言葉の語源は、「座る」という動詞だ。
「座って話す」紛争解決が有効に機能した最たる例が、ファルージャで頻発する外国人人質事件だ。地元の部族社会に社会的影響力のあるイスラムの宗教指導者が、「民間人を人質に取ることはまかりならん」と説教して、犯人グループは解放を決定した。米軍のファルージャ包囲、攻撃に激怒した地元の抵抗勢力に宗教者の言葉が浸透したのは、ファルージャ住民の痛みに共感する、同じ共同体の仲間の言葉だったからだろう。
同じことはイラクの他の地域でも言える。南部のナーシリヤ周辺は「暴れん坊」サドル派が結構勢力を誇っていた地域で、市庁舎を取り囲んだり知事に辞任を強要したりしていた。だが今年初めに住民たちが自発的に選挙をしたら、過激派は案外おとなしくなった。サマワでもサドル派が反米デモを企画したものの、「座って話した」結果、デモはいったん見送られた。
だが、せっかく過激派を座らせたと思ったら、米軍の砲弾が飛んでくる。過激派も穏健派も皆、座っている場合ではなくなってしまう。
「座って話す」ことこそが民主主義だと思うのだが、どうも民主主義の旗手を標榜(ひょうぼう)するアメリカにはそう見えないらしい。「座って話し」ている人々が部族とかイスラム宗教者とか、欧米的「市民社会」には縁のなさそうな人々だからなのかもしれない。
だが、世間体や面目ばかり気にして村八分を恐れるどこぞの国もまた、自立した個人を前提にする「市民社会」が不在だという点では、大差はない。「市民社会がない」といわれてそのうち米軍に空爆されたら、どうしよう。
http://www.be.asahi.com/20040424/W12/0025.html