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戦後日本国家デザイナー・山本五十六
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1083.html
投稿者 愚民党 日時 2004 年 6 月 18 日 22:13:58:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 笹川について再説:バチカンとの馴れ初め 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 6 月 18 日 10:58:38)

すみちゃん。おひさしぶりです。
山本五十六は戦死したと、われわれは洗脳されてまいりました。

おれは、山本五十六の「戦死」を疑っております。

山本五十六は生きて、対米従属戦後日本国家デザイナーとして
裏で操作していたと判断しております。

「山本五十六が藤原不比等と同様な国家デザイナーである」との定性は
さすが、すみちゃんだと思いました。


http://member.nifty.ne.jp/JN7FZE/noboru/daitoua2.htm

   昭和十八年六月五日   田澤 昇

遺骨を乗せた砲車は、少年たちが深々と頭を垂れる中を、静々と進んで行った。

 昭和十八年五月二十日、ラジオは「海ゆかば」のメロディに乗せて大本営発表を行った。
「連合艦隊司令長官、海軍大将山本五十六は、本年四月、前線において全般作戦指導中敵と交戦、飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり。

後任には、海軍大将、古賀峯一親補せられ、既に連合艦隊の指揮を執りつつあり」
「思し召しにより故山本海軍大将は、とくに元帥府に列せられ、国葬を賜る」

 大東亜戦争冒頭にハワイ真珠湾を攻撃し、大戦果を挙げた連合艦隊司令長官として、山本五十六の名は国中に知れわたり、英雄として少年たちの憧れの的だった。一般新聞雑誌をはじめ少年雑誌にも、山本五十六大将の生い立ち、経歴、日常のエピソ−ドなどが掲載され、小柄な半白のイガグリ頭に、第一種軍装を着て白手袋に軍刀を持った写真を、常に畏敬の念で眺め、親しみさえ覚えていた。その我等の連合艦隊司令長官が戦死したとの知らせに、無敵日本海軍の将来は大丈夫だろうかと、少年は暗澹たる気持ちになった。
 山本元帥の国葬は六月五日に日比谷公園の斎場で行われる事になった。九年前、東郷元帥の葬儀が行われたのと同じ日である。葬儀委員長は米内光政、司祭長は塩沢幸一が選ばれた。遺骨は芝の水交社に安置された。

 少年の通う中学校は、水交社のすぐ隣りだったが、葬送の参列は神谷町付近に指定され、午前八時には沿道に整列した。午前八時五十分、山本元帥の遺骨は白布に覆われて、連合艦隊旗艦「武蔵」乗組みの水兵たちの手で、玄関前の黒い砲車に移された。海軍軍樂隊が、ショパンの「葬送」を奏しながら先頭に立ち、葬列は水交社の坂をおりて右折し、神谷町から虎ノ門に向かった。「黙祷」の声が掛かり、少年たちは頭を垂れた。悲しいメロディと、ゆっくりとした足音、砲車のきしみが少年たちの前を通り過ぎ、「なおれ」となった時は大勢の海軍士官、水兵が通って行くところだった。少年たちは間もなく学校に戻ったが、葬列は九時五十分に日比谷の斎場に到着した。

 斎場は鯨幕と白木の簡素なしつらえであったが、勅使、皇族方、東条総理以下閣僚、諸官、千五百名が参列した。

また、イタリアのムッソリ−ニ首相からの花束も色を添えていた。それぞれの拝礼が終わり、軍楽隊が儀礼曲「命を捨てて」が演奏され、弔銃三発の齊射が行われた。

 午後からは一般市民の参拝が続き、その数は三万とも五万とも云われた。その後、遺骨は多摩墓地の、東郷元帥の墓に隣接した墓所に納められた。

 昭和十八年四月三日、トラック島在泊の連合艦隊旗艦「武蔵」から、山本司令長官は、一式陸攻二機でラバウル基地に到着した。四月七日から始まるソロモン、ニユ−ギニア方面の航空撃滅戦「い号」作戦の陣頭指揮で、前線部隊の士気を鼓舞する為であった。真白な第二種軍装で飛行場の演台の上に立った長官は、集まった搭乗員を前に

「今、われわれはもっとも苦しい戦いを続けている。だが苦しい時は敵も苦しい筈である。貴重な航空兵力をラバウルに集結させたのも、この苦しさを乗り越えて血路を開かんがためである。諸子に期待するものすこぶる大である。健闘を祈る。」

と短い訓示を与えた。ラバウル基地にはこの作戦に備えて、基地航空隊、小沢治三郎指揮下の母艦機合わせて三百五十機が集められていた。七日から十四日まで三百機を越す大編隊でガダルカナル島、ポ−トモレスピ−ほかを攻撃し、米艦船二十八隻撃沈、航空機百三十四機を撃墜し(日本側の記録)作戦を終了した。この戦果に山本司令長官は満足し、十四日には母艦機をトラックに引き揚げさせた。そして最前線であるブイン、ショ−トランド方面を視察する事になった。小沢第三艦隊司令官らは危険であるとして反対したが、山本司令長官は危険なしと判断して聞き入れなかった。予定日は四月十八日で、その視察計画は、分刻みで前線基地に暗号で発信された。

 四月十八日、一番機に山本司令長官、高田軍医長、樋端航空参謀、福崎副官、二番機に宇垣参謀長、北村主計長、友野気象長、今中通信参謀、室井航空参謀が乗り込んだ一式陸攻二機は、午前六時、護衛の零戦六機に守られて、ラバウルを出発した。当初の予定では、二十機以上の護衛機を出す事にしていたが、「大切な飛行機をたかが護衛のために勿体無い。そんなに要らんよ。」との山本の一言により護衛は六機になった。

 一行は、高度二千で飛ぶこと一時間半、もう少しでブインに到着する予定の、ブ−ゲンビル島のジャングルの上で、米軍のロッキ−ドP38ライトニング十六機が下方を飛行しているのに遭遇した。P38は日本機を発見するやふた手に別れ、護衛の零戦には見向きもせず一式陸攻に襲いかかってきた。一式陸攻は、翼内がガソリンタンクを兼ねているので、一撃を受けるとすぐ火を吹く、別名ライタ−の異名があった。

 長官座乗の一番機は、敵襲と同時にジャングルすれすれに高度を下げ左に避退した。少し送れて飛行していた二番機が敵襲に気付いたとき、一番機は、二番機の右四キロほどの所を、煙と火を吹きながら、ジャングルの上を這う様に飛んでいた。二番機が何回かの敵襲を交わした時、一番機の姿は見えずジャングルのなかに立ち昇る一条の黒煙があるだけであった。そして二番機も撃破され海上に不時着した。P38は二機の陸攻を撃墜すると、素速く逃走した。護衛の六機の零戦は、二機の陸攻を護る為に奮戦したが、陸攻のみを狙った敵の動きに振り回され、なす術もなかった。しかし十六機のP38に六機の零戦では、護り切れぬのは当たり前の事である。

 長官座乗の一番機の墜落地点は、ブ−ゲンビル島ブインの西方二十数キロのジャングル内である。翌十九日、墜落現場は、陸軍の捜索隊により発見され、山本長官以下搭乗員の十一名の遺体を確認した。遺体は二十日ブインに移送され、検死を受けた後、荼毘にふされた。山本長官は下顎から打ち抜かれた機銃弾により戦死した。遺骨はラバウルを経てトラックの連合艦隊旗艦「武蔵」に安置され、その後「武蔵」によって内地に運ばれた。

 この山本司令長官の戦死に関して、P38に遭遇したのは単なる偶然と云う説と、日本軍の暗号が米軍に解読されていて、待ち伏せされたとの説が流れたが、戦後の米軍の資料により、暗号が解読されての待ち伏せである事が判明した。



統合戦争辞典

http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/index.html


やまもと,いそろく
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山本 五十六
1884(明治17)年4月4日生
1943(昭和18)年4月18日没
新潟県長岡出身
日本海軍軍人 海軍大将・元帥
旧姓、高野
身長、五尺二寸五分(159センチ)
血液型、O型
父、旧長岡藩士・高野貞吉
六男
貞吉56歳の時誕生
第7子
養祖父、山本帯刀
座右の銘は「常在戦場」(長岡藩・牧野家の家訓)
1901(明治34)年12月 海軍兵学校入校 成績2番
1904(明治37)年11月 海軍兵学校(32期)卒 卒業成績192人中13番
 海軍少尉候補生
 「韓崎丸」乗組
1905(明治38)年1月3日 「日進」乗組
1905(明治38)年5月27日 日本海海戦
 第一戦隊旗艦「日進」に少尉候補生・艦長付として乗組
 1850 前部八吋左砲の早発事故で右下腿後部と左手に重傷を負う(人さし指と中指を失う)
 (公式には敵弾命中による負傷、ということになっている)
 8月31日 海軍少尉 横須賀鎮守府附
 12月12日 横須賀海兵団附
1906(明治39)年2月24日 「須磨」乗組
 8月3日 「鹿島」乗組
 12月20日 「見島」乗組
1907(明治40)年4月22日 「陽炎」乗組
 8月5日 砲術学校普通科学生
 9月28日 海軍中尉
 12月16日 水雷学校普通科学生
1908(明治41)年4月20日 「春雨」乗組
 6月15日 「阿蘇」乗組
1909(明治42)年10月1日 「宗谷」分隊長心得
 10月11日 海軍大尉 「宗谷」分隊長
1910(明治43)年7月25日 横須賀鎮守府附
 12月1日 海大乙種学生
1911(明治44)年5月22日 砲術学校高等科学生
1911(明治44)年 同校首席卒
 12月1日 砲術学校教官兼分隊長 海経教官
 砲術学校教官宿舎で米内光政と同室になる
1912(大正元)年12月1日 佐世保予備艦隊参謀
1913(大正2)年12月1日 「新高」砲術長
1914(大正3)年5月27日 横須賀鎮守府副官兼参謀
 12月1日 海大甲種学生
1915(大正4)年 山本家を相続
 海軍大学校(14期)卒
 12月13日 海軍少佐
1916(大正5)年12月1日 第二艦隊参謀
 12月25日 待命
1917(大正6)年6月9日 休職
 7月21日 軍務局局員
 7月27日 兼教育本部長
1918(大正7)年8月31日 三橋礼子(山本礼子)と結婚
 媒介は四竈孝輔
1919(大正8)年4月5日 米国駐在
 12月1日 海軍中佐
1921(大正10)年5月5日 命帰朝
 8月10日 「北上」副長
 12月1日 海軍大学校教官
1923(大正12)年6月20日 欧米各国への出張命令を受ける
 6月30日 軍令部出仕
 12月1日 海軍大佐
1924(大正13)年3月31日 帰朝
 6月1日 横須賀鎮守府附
 9月1日 霞ケ浦航空隊付
 12月1日 霞ケ浦航空隊副長兼教頭
1925(大正14)年12月1日 在米日本大使館付武官
1927(昭和2)年11月15日 帰朝命令
1928(昭和3)年3月15日 軍令部出仕
 8月20日 巡洋艦「五十鈴」艦長
 12月10日 空母「赤城」第3代艦長
1929(昭和4)年10月8日 軍令部出仕 海軍省出仕
 11月12日 ロンドン会議全権委員次席随員
 11月30日 海軍少将
1930(昭和5)年9月1日 軍令部出仕 海軍省出仕 航空本部出仕
 12月1日 航空本部技術部長
1933(昭和8)年10月3日 第1航空戦隊司令官
1934(昭和9)年6月1日 軍令部出仕 海軍省出仕
 9月7日 ロンドン会議予備交渉代表
 軍縮会議予備交渉のためイギリスに出張
 11月15日 海軍中将
1935(昭和10)年2月12日 イギリスから帰国
 12月2日 航空本部長
1936(昭和11)年12月1日 海軍次官
1937(昭和12)年11月20日 大本営に於ける海軍大臣常時随員
1938(昭和13)年4月25日 海軍次官兼航空本部長
 11月15日 免兼職 海軍次官
1939(昭和14)年 斎藤博駐米大使死去
 遺骨を運んできた米重巡「アストリア」のリッチモンド・ターナー艦長から記念に同艦の写真を贈られる
1939(昭和14)年8月30日〜1943(昭和18)年4月18日 第1艦隊司令長官兼聯合艦隊司令長官
1940(昭和15)年9月27日 日独伊三国同盟締結
 11月15日 海軍大将
1941(昭和16)年1月1日 大西瀧治郎少将に真珠湾攻撃の検討を指示
 8月11日 免兼職 聯合艦隊司令長官
 9月12日 東京・荻窪の「荻外荘」に近衞文麿首相を訪ねる
 近衞の日記によると、この時日米戦争の場合の見込みを問われ、「それは是非やれと云わるれば初め半歳か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然しながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう極力御努力願ひたい」と答えている
 9月18日 東京学士会館で行われた長岡中学同窓会に出席
 12月2日 青山南町の自宅に帰宅(最後の帰宅)
 12月3日 自宅を出る
 12月8日 太平洋戦争開戦
1943(昭和18)年4月18日 海軍甲事件
 ブーゲンビル島上空で乗機(一式陸攻、機長・小谷立飛曹長)をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され戦死
 歴代の聯合艦隊司令長官の内、戦死したのは彼一人
 当日、第3種軍装を着用していた(普段は第2種軍装を着用)
 4月18日 元帥 功一級金鵄勲章 大勲位菊花大綬章
 4月23日 ラバウルから航空機でトラックに遺骨を移送 遺骨を戦艦「武蔵」作戦会議室の祭壇に安置
 5月2日 伊藤整一軍令部次長が焼香
 5月21日 情報局が死亡を発表
 5月22日 遺骨が戦艦「武蔵」で木更津沖に到着
 5月23日 遺骨が駆逐艦「夕雲」に移される
 1443 東京駅着
 同日、遺骨を水交社に安置
 6月5日 日比谷公園で国葬
 葬儀委員長・米内光政
戒名、大義院殿誠忠長陵大居士
多摩墓地(7区-特種-1側-2番)に埋葬
遺骨は長岡・長興寺の山本家累代の墓に分骨されている


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