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(回答先: 「タルムードの中のイエス?」[魔女の鎚 第五撃] 投稿者 乃依 日時 2004 年 3 月 09 日 06:23:54)
http://members.at.infoseek.co.jp/WATCHMAN_ENDTIMES/talmud3.html
魔女の鎚 第六撃 |
終末時代の監視者からの警告 |
「異邦人は人間である」 ジル・ステューデント http://www.angelfire.com/mt/talmud/man.html |
告発の内容 非ユダヤ人は人間ではない。ババ・メツィア114a-114b。ユダヤ人だけが人間である。(「汝のみが人間として造られた」) |
ユダヤ人だけが人間であり、異邦人は人間でないとする考えは、ユダヤ教の基本原則の多数に反するものである。タルムードによれば、異邦人は「人間である」。上記の告発を証拠立てるとされる本文は、複雑なものであり、以下に見る通り、誤解されている。 |
該当する本文 タルムード、ババ・メツィア 114b ラビ・シモン・ベン・ヨハイは言った。「異邦人の墓は、住居に儀式上の汚れをもたらすことはない。こう言われているからだ。(エゼキエル34:31)『お前たち(イスラエル)はわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間(アダム)である。』あなた(聖句の主語であるイスラエル)は 人間(アダム)と呼ばれているが、異邦人は人間(アダム)とは呼ばれていない。
タルムード、ケリトート6b 正式の(聖別された)油を、動物または器に塗油した者、また、異邦人や死体に塗油した者は、聖別された油の聖性を損なったとは見なされず、無罪である。動物や器については、こう言われているからである。(出エジプト記30:32)「一般の人(アダム)の体に注いではならない。」動物も器も、人間ではない。 死体に塗油した者も、無罪である。なぜなら、すでに死んでおり、もはや人間ではないからである。しかし、なぜ、異邦人に油を塗ることまで無罪であるのか? 異邦人は人間であるのに? いや、こう記されている。(エゼキエル34:31)「お前たち(イスラエル)はわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間(アダム)である。」あなた(聖句の主語であるイスラエル)は 人間(アダム)と呼ばれているが、異邦人は人間(アダム)とは呼ばれていない。 |
上記の一番目の箇所は、住居についての儀式上の汚れの問題を述べており、それは、民数記19:14の「人(アダム)が天幕の中で死んだときの教え」に由来する。タルムードは、人間を指す「アダム」という用語をエゼキエル書から引照し、ユダヤ人に対してのみ用いている。また、儀礼上の汚れについての聖句は、アダムと呼ばれるユダヤ人にのみ関わることである、としている。 同様に、二番目の個所は、出エジプト記30:32を引照しており、人間(アダム)に塗油する者のみが有罪となる、としている。つまり、ユダヤ人だけがアダムと呼ばれているゆえに、ユダヤ人に塗油することが有罪なのである。 上記の二箇所から推論して、タルムードは異邦人を人間以下の存在と見なしている、と言う人たちがいる。しかし、タルムードが異邦人を人間と呼ばないにしても、人間以下の存在だと言っているわけではない(どういうわけか、異邦人は人間以上の存在である、とするタルムードの言及には、まったく触れられていない)。 上記二箇所とは正反対のことを言っている、別の二箇所を以下に見てみよう。次に、相反する記述を綜合することにより、タルムードが異邦人を人間以下だなどとは言っていないことを明かにしよう。 |
タルムード、ギッティン47a 異邦人は、穴を掘ったり、ほら穴を作ったりするために、イスラエルで土地を購入することが出来る。こう言われているからである。(詩編115:16)「天は主のもの、地は人(ブネイ・アダム=アダムの子ら)への賜物。」 |
タルムード、アヴォダ・ザラ3a ラビ・メイルは言った。「トーラーを学習する異邦人は、ユダヤの大祭司のようになる、と言えるのはなぜか? この聖句から知ることが出来る。(レビ18:5)「これらを行う(学習する)人(ハ・アダム=人間)はそれによって(来世においても)命を得ることができる。 」 |
ギッティンでは、異邦人の呼称として「ブネイ・アダム」(人の子たち)という言葉が使われている。アヴォダ・ザラでもやはりタルムードは、異邦人を指すのに「ハ・アダム」(人間)という言葉を使っている。異邦人が人間と見なされているのは、明白である。それでは、なぜタルムードは、ババ・メツィアにおいて、異邦人をアダム(人間)と見なさない、と考えるのだろうか? 説明すれば、これは用語の相違によるものであり、表面的な読み方をしたために、ババ・メツィアにおける「アダム」という語を「人間」としてしまったのである。生物学が明かにしているように、異邦人が人間であることは絶対的な事実である。ユダヤ人と異邦人の間には、いかなる生理学上の相違も存在しない。すべての人間は、根源的には同じ祖先から生まれて来たのであり、それは、ノアとアダムである。 しかし、ユダヤ人は、国民として統合されて、一個の有機体を構成している。その成員は、お互いを親しい家族として処遇し、また、互いの行動に対して責任を負う義務がある。 タルムードが、「アダム」というヘブル語を用いる場合、それは、創世記第1章から5章に出て来る、原初において唯一の人間であったアダムに言及していると考えられる。タルムードの理解によれば、ユダヤ人は、ひとりの人間のような一個の有機体を構成している。異邦人は、このような民族的・有機体的な結合をユダヤ人に対して持っていないゆえに、この概念には包含されないのである。 人を指す別の用語「ブネイ・アダム」(人の子たち)、あるいは、「ハ・アダム」(人間)は、ホモ・サピエンスという種としての人間を指していると考えられ、当然そこには、ユダヤ人も異邦人も含まれる。 儀礼上の汚れや聖別された油の問題については、それがユダヤ人にのみ関わる概念であるゆえに、タルムードは、ユダヤ人という国民的有機体に属さない人間を、すべて除外しているのである。しかし、土地の購入や、個人的問題、宗教上の資格など、現実的問題については、異邦人もそこに包含される。これに関わるタルムードの章句すべてを理解するなら、明かに、ユダヤ人だけでなく異邦人も人間であると示されており、タルムードに対する告発の内容は、誤っていることがわかる。
参照:トセフタ・イェヴァーモート61a。ヴェ・アイン。ラーヴァン317番。ラビ・イスラエル・リフシッツ『ティフェレト・イスラエル』(ボアズ版)、アヴォート3:14。ラビ・ツヴィ・ヒルシュ・ハイェス『ハガホート・マハラツ・ハイェス』イエヴァーモート61a。
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