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今日の読売新聞の「編集手帳」、
まぁ、パッと見は「いつもの読売新聞」という感じだが、
しめくくりの一文が<秀逸>だ。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040110ig15.htm
「過酷な国際政治は、情緒的な理解では本質に迫れない。」とな。
もちろん、これはこの分の著者の意図とは違うとおもうが
なかなかこれはある意味で的を得ていると思う。
巷を賑わす<拉致問題>も、みんな情緒的に反応していやしないかい?
という問いかけにも聞こえる。
もし、この問題が情緒的な問題でないとすれば、
<拉致問題>は、日本国家の軍事外交戦略の手段ってことになる。
しかし、<拉致問題>の本質はそこにあったんだろうか?
被害者の方々が本当に解決して欲しいことは、
日本国家の軍事外交戦略を成功させることなのだろうか。
もちろん、彼らが「本当に解決して欲しいこと」を達成するために
日本国家の軍事外交戦略が成功することを望むのは
彼らなりの<戦略>としてはあるかもしれない。
ただし、「もって国家に身を捧げる」というのなら話は別だが
真意はそこにあるのかどうか。
少なくともそれは確かめないといけないのではないだろうか。
それを知っているのと、知らないでいるのとでは、
少なくとも彼らへのまなざしがだいぶ違うはずだ。
冒頭の「編集手帳」の流れからいけば
「過酷な国際政治」を生き抜くため、<国益>を確保するためには
それが多少の理不尽を抱えていても「犠牲」は必要だと言う議論は
すぐに導き出される。
それがいいかどうかの議論は本筋から外れるが、
仮にそいつを認めたとすれば、その「犠牲」者は、
外務省の大使館員だけではなく、
自衛隊員だけでもない。
当然、「国民」とされているだれもがそのリスクを背負うことになる。
そうでなければ、「過酷な国際政治」なんて生き残れない。
…と、すれば「犠牲」にもっとも近い場所に今立っている「国民」は
誰だろうか?一番可能性が高いのは誰だろうか?
それは、すでに国際政治の矢面に立たされている
他ならない<拉致被害者>の方々だ。
まだ、これから彼らが(いまでも十分「犠牲」かも知れないが)
さらなる「犠牲」者となるとは限らない。
でも、それをきちんと説明できない人には、
「国益」などというよくわからない鳥肌が立つような
言葉を使わないで欲しい。