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(回答先: バクトリアの黄金 − 遺宝の行方を追う [Economist] 投稿者 ファントムランチ 日時 2004 年 1 月 20 日 22:16:43)
[ペシャワール北東のガンダーラ仏教寺院の代表的遺構 タフテ・バーヒ:ガンダーラ平野を望む小高い岩山にある。]
http://www1.ttcn.ne.jp/~trade-food.cars/pakh-3.htm
★ 日本アフガニスタン合作記録映画『よみがえれカレーズ』(1989年)の制作に参加された潟Lャラバンの野口CEOが、1981年に発表された資料を参考までにご紹介します。
学生時代からシルクロードに関心を持っていた野口さんは、1980年に駐日アフガニスタン大使と知り合い、同国との交流を続けて来られましたが、アフガニスタンの政治情勢が悪化の一途を辿り、今は貿易関係の業務を縮小せざるを得ないそうです。
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■ 世界史におけるアフガニスタンの位置
アフガニスタンがしばしば「シルクロードの十字路」とか「文明の十字路」と呼ばれるのは、その歴史と地理を端的に表現してはいるが、端的であるだけに一面的の謗りを免れない。まず最初に現在のアフガニスタンが形成されるまでの歴史の概観から始めよう。
歴史を創造する主体である人間が生活を営む地域の自然条件と地理は、その地域の歴史に強い影響を与える。
ユーラシア大陸のほぼ中央部に位置するアフガニスタンの地形は、中央部から東北部にかけて全土の約50%が、標高5000メートルから7000メートルのピークを持つ海抜2000メートル以上の山岳地帯で、その他の地域は海抜300メートルから2000メートルのあいだにある。西部、南部地域では、イランのルート砂漠などにつながるシースターン砂漠、レギスターン砂漠などからなる砂漠地帯が急峻な山岳地帯に直接つづいている。このような地形であるから、全国土のうち耕地は12%にすぎない。しかもそのほとんどが乾燥地帯に属している。アラビア海からパンジャブ平原を越えてくるモンスーンの影響を夏にわずかながらうける東部で、年間降水量が300ミリメートルをかすかに越すのを例外として、ほとんどの地域で降水量は300ミリメートル未満である。5月から6月までの夏期にはまったくといっていいほど雨が降らない。河川は、ソ連との国境を流れアラル海にそそぐアム・ダリア川、インダス川に合流しアラビア海に流れ込むカブール川をのぞげば、他はすべて砂漠の中か沼沢地に消えていく末無川である。
このような自然条件の下にある現在のアフガニスタン民主共和国は、北部でソ連のトルクメン共和国、ウズベク共和国、タジク共和国と接し、西部でイラン・イスラム共和国と接し、南部から東部にかけてパキスタンと接し、パミール高原に突き出たワハン回廊において中華人民共和国、カシミールとも国境を接している。この地域における上述のような国家構成は、いうまでもなく、近代の民族独立運動期を経て確立されたものである。いなむしろ、パキスタンとアフガニスタンの両地域に住むパシュトゥーン族とバルーチ族の運動がいまもなお継続されている事実を考慮すれば、この地域は民族独立運動期の末期の只中にある、というべきかも知れない。
アフガニスタン史をひもとくと、現在のような国境線にいたりつくまでこの地域では、さまざまな国家が興り、また亡んでいったことが分かる。人間の生存にとってさして有利ともいえず、また、天然資源に恵まれているわけでもない白然条件・地形のこの地域に人類の豊かな歴史の記憶が刻み込まれているのは、その地理的特殊性に一因がある。
この地域に人類が初めて住みついたのは、世界のどの地域よりも古いようである。「アフガニスタン北部は近代的ホモサピエンスか或いは少くとも多種多様な近代人が肉体的進歩をとげ、そのうえ、石器時代の技術的変革を開始しはじめた地帯である」(L-デュプリ)とする人類学者もいるほどである。人類発生のその時から、この地域に人間が生活を始めていたことは発掘された数々の遺跡などからみてほぼ間違いない。
アフガニスタンは、人類史における最初の文明発生の地であるティグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河3地域を結ぶ交通の要衝にあたっている。このような地理的特殊性がアフガニスタンの古代・中世・近世史を彩っている。西洋文明と東洋文明の結節点にあたるこの地域は、古代からのさまざまな帝国―奴隷制帝国、封建制帝国、資本制帝国主義の侵略の足場とされ、それと同時にその時代の両文明の最高のものが流入してき、またイスラム文明の最高水準をこの地域に創りだしたりもした。紀元前2000年ころに成立したメディア王国から20世紀初頭に亡んだバラクザイ朝までの時代に、この地には約25の王国支配の変遷があった。このうち、バクトリア朝、クシャーナ朝、ガズニ王朝、ゴール朝、ドゥラーニー朝は、アフガニスタンを中心とする大帝国であった。この地域の史的概観を年表風に示すと次のようになる。
BC1500〜BC600年 2波にわたるアーリア人の移住。遊牧と放牧による原始共産制と奴隷制の混合経済に基づくメディア王国の成立。「文明の十字路」として世界史に登場(このころ、半砂漠地帯に人工のオアシスを作るカレーズがペルシアより伝来し、人工のオアシスが半砂漠地帯を往来する「砂の海の小島」となったと思われる)。
BC600〜BC330年 ゾロアスター教の時代。アケメネス朝の支配下におかれる。ダリウス1世がアフガニスタンをガンダーラ(現在のペシャワール付近)とバクトリア(現在のアフガニスタン北部)とに分割。
BC327〜BC300年 ギリシアのアレキサンドロス大王、アフガニスタンに侵入。最後の王ダリウス3世治下のアケメネス朝を滅ぼす。アレキサンドロスはひきつづき、ダリウス3世を殺したバクトリアを攻め、バクトリアを併呑。アレキサンドロス、バクトリア王の娘ロクサーヌと結婚(アフガニスタンのいくつかの都市で、その都市がアレキサンドロスの建設になるアレキサンドリアだと推察させる出土品が発見されている)。
BC300〜AD48年 ヘレニズム文化の時代。アレキサンドロスの後継者セレウコスの王国とひきつづくバクトリア王朝の時代。サカ族、大月氏などの侵入。
48〜241年 カピーサ(現在のカブール北方)を夏の都、ペシャワールを冬の都とするクシャーナ朝の時代。クシャーナ朝のカニシカ王は130年ころ。世界的巨大国の1つとなった遊牧のクシャーナ王朝は、西のローマ帝国、東の漢という2大古代奴隷制帝国の間にあって通商の形をとった掠奪的奴隷制経済を開花させ巨富を得る。「シルクロードの十字路」の興隆。カニシカ王は仏教を奨励。仏教、インドからアフガニスタンを経て中国へ伝播。アフガニスタンではギリシア文化と仏教の混淆文化が栄える。ガンダーラ文化の時代(1978年10月、アフガン・ソ連合同発掘調査隊は、古代バクトリアの地シバルガンで約2万点の金、宝石細工品が埋蔵された墳墓を発見。この出土品はクシャーナ朝成立のなぞを解くものでツタンカーメン王墳墓の発見に匹敵する大発見であると言われている)。
241〜962年 ローマ帝国、漢の衰退による影響でクシャーナ朝も衰退し、混乱期にはいる。ササン朝ペルシア、エフタル(白フン族)、その後、サラセン帝国のアラブ人などが侵入。後期、イスラム教が、アフガニスタンヘ浸透(クシャーナ王朝の時代に建てられたバーミヤンの大仏の顔がイスラム教徒の手で削り取られたのはこの時期。長安を出てインドに渡った玄奘三蔵は627年、仏像が破壊される前のバーミヤンに滞在している)。
962〜1148年 ガズニ王朝の時代。夏の都はガズニ、冬の都はボスト(いまのラシュカルガー)。カズニはイスラム世界屈指の華麗な首都となり、ペルシア芸術が発展する。ガズニ王朝は1024年にいたるまで十数回にわたりインドに侵入。インドの富を掠奪。
1148〜1220年 アフガニスタンのゴールを拠点に成立したゴール朝の時代。ガズニ朝の勢力から独立したムハンマッドらによる。12世紀末葉いらい西北インドに進出。ムハンマッドが即位してから版図はアフガン台地全域から西北インドを含むにいたる。トルコ系デリー王朝の13世紀にはじまるインド支配を準備する地ならしとなる。同時期、アフガニスタン北方は中央アジア西北部全域を支配したホラズム朝が支配(この時代までの国家の経済基盤は、生産者である人民そのものとその生産物の掠奪である。戦争に勝って、生産する人民を戦利品にできたものが王を名のり、臣下にそれらを分配する。王の次の仕事はさらに新しい戦争である。このようにして大帝国は数々の戦勝のうえに築かれるが、農業や遊牧による生産力では増大する兵士を養えるだけの剰余価値を生みだせなくなる均衡点にやがて到達する。帝国の膨張がすすみこの均衡が破綻したとき、その帝国は急速に衰亡に向かう)。
1220〜1332年 ジンギス・カーン、アフガニスタンに侵入し、ヘラート、バルフ、バーミヤン、ガズニなどの街、灌概施設を徹底的に破壊しつくす。アフガニスタン、モンゴル帝国に併呑される。
1369〜1506年 サマルカンドの南方ケシュに生まれたティムールの帝国時代。ティムールはバクトリアのバルフで王となり、カブールからアラル海までの君主権を宣する(ティムールの墓はカブールにある)。ヘラートに都を定めた3代目の王シャー・ルフの治世に美術、建築、文学、哲学が栄える。はじめてトルコ語が文学に用いられる。
1506〜1709年 ムガール朝の時代。インドに進出したムガール朝は19世紀中葉までインド史上最大のイスラム系王朝となる(ムガール朝の始祖バーブルはトルコ系の血をひき、カブールで王となり、インドのデリー、アグラを舞台に大帝国を築いたが、カブールに眠ることを望んだため、墓はカブールにある。現在はバーブル庭園として知られている)。バーブルの死後、アフガニスタンは2大帝国、ムガール帝国とペルシアのサファビー朝の間にあって動揺をつづける。この時期の末期、西洋は封建制の永い眠りからそろそろ覚め、産業革命が始まろうとしていた。1600年イギリス、1602年オランダ、1604年フランスが次々と東インド会社を設立し、アジアヘの帝国主義的侵略の足場を固めつつあった。
1709〜1722年 ミール・ワイス・ホタキ、サファビー朝から西アフガニスタンを解放。アフガニスタンの南部カンダハール地方にはパシュトゥーン族が住んでおり、2大部族―ギルザイ族とアブダリ族(後のドゥラーニー族)―があったが、ミール・ワイスはギルザイ族。ミール・ワイスの息子マフムードはペルシアに攻め込み、1722年サファビー朝の王座につく。しかしこの進出もペルシアを征服したトルクメン人ナディル・アフシャルによって阻止される。
1747〜1773年 ドゥラーニー朝の王アフマッド・シャー(サドザイ族)の統治下、アフガニスタンは統一国家となる。しかし社会・経済構造は封建制がつづく。
1773〜1818年 サドザイ・ドゥラーニー王朝による封建的支配期。首都がカンダハールからカブールヘ移される。
1818〜1880年 アフガン人民に対する支配権は他の封建勢カモハメドザイ族に引き継がれる。バラクザイ朝の成立。ひきつづく権力争いと混乱。インドの植民地化に成功したイギリス資本制帝国主義は、ツアー・ロシアの南部進出を阻止するためアフガニスタンヘの侵略を開始。第1次アフガン・英戦争(1839〜42年)。第2次アフガン・英戦争(1878〜79年)。1880年、イギリスの保護領とされる。国際的認知と独立を求めるアフガン人民の闘い始まる。
1880〜1901年 アミール・アブドル・ラーマン、カブールを首都としてアフガニスタンの中央集権化に成功。それまで、少なくとも1747年以降、アフガニスタンの政治は、中央政府と、群雄割拠する各部族との間の力のバランスによって成り立っていた。1893年、パシュトゥーン族をアフガニスタンと英領インド(現在のパキスタン)に分割する屈辱的なデュランド・ラインを認めさせられる。
1901〜1919年 イギリスの保護下、アミール・ハビブラー王の相対的に平穏な治世。アフガニスタンはイギリス資本制帝国主義とツアー・ロシア軍事的封建的帝国主義との勢力争いの緩衝地帯とされる。1907年、英露協商によりイギリスが確固たる地位をアフガニスタンに築く。第1次世界大戦が起こり、トルコ、イランなどで民族的覚醒と現代化始まる。1917年ロシア10月社会主義大革命成功。アフガニスタンにおいてもマフムド・タルズィーの「青年アフガン運動」など進歩的運動が開始される。
1919〜1929年 アマヌラー・ハーンの治世。アマヌラー・ハーンは即位と同時に完全独立を宣言、第3次アフガン・英戦争。アマヌラー-ハーンは、婦人解放、宗教指導者の特権剥奪などの急進的近代化政策を遂行したが、反動層の反撥を招く。1929年「バッチャー・イ・サカオの乱」が起こり、王位を譲って国外に亡命。
1929〜1933年 ナジル・ハーンの治世。アマヌラーの従兄にあたるナジル・ハーンは先王の轍を踏まぬため、2院制にもとづく憲法を制定し漸進的近代化策をとったが33年に暗殺される。
1933〜1973年 ザヒル・シャーの治世。王制のもとでの資本制生産の導入が徐々に進行。アフガニスタンにおける近代的労働者階級の発生。1965年、アフガニスタン人民民主党創立される。ダウドのクーデターにより王制崩壊。
1973〜1978年 モハマド・ダウド、共和制を宣し大統領に。
1978〜 民族民主主義を基本綱領とする4月革命が起こり、アフガニスタン史上初めて生産する階級を代表する政党が政治権力を握る。革命政権の政策、ジグザグを含みつつソ連など社会主義諸国の援助を得て現在も推進中。
「文明の十字路」といわれるアフガニスタンには、ここでみたような歴史をへて、西洋、東洋、イスラム世界の文化存在を示す数多くの痕跡が遺されている。遺跡としてのそれらが、世界中の旅行者の興味をこの国に惹きつけてきた。しかし、痕跡は建築物や財宝や仏像などだけではない。この国に住む人間の種類と生活形態、言語などにより強く残されているのである、
アフガニスタンの民族構成は複雑である。この国の主流民族はアーリア系のパシュトゥーン族で国民の約60%、次には同じ系統のタジーク族31%、次がトルコ系のウズベク族5%、モンゴル系のハザラ族3%、残り1%のなかにバルーチ族、ヌーリスタン族、トルクメン族、モゴール族、中央アジア系少数民族、インド系民族、アラブ系民族と多種多様である。パシュトゥーン族はパキスタンに、バルーチ族はパキスタンとイランにまたがって生活している。ソ連領内のタジク族、ウズベク族、トルクメン族はそれぞれ独立してソ連邦を構成する共和国をもっている。タジク族その他のワハン回廊、パミール高原に住む民族は中国領内にも分布している。このような民族構成が、この国の古代からの歴史の所産であるのはもはや言うまでもあるまい。
また、アフガニスタンに現存する言語も複雑多岐にわたる。公用語は、ペルシア語の古語であるダリ語とパシュトゥー語であるが、現在確認される使用言語だけでも、イラン語系、インド語系、トルコ・モンゴル語系あわせて21種もある。
「アフガニスタン問題」を本当に理解しようとするなら、この地に住む諸民族の歴史、文化、生活感情、諸民族間の関係などについて熟知しなければならない。
ところが、いま日本には、民族自決権の実践こそが現代世界の至上の大原則であるかのように叫びたてる潮流がある。もしこの「大原則」をアフガニスタンとその周辺国家に当てはめたならば、統一国家としてのこれらの国家は成立せず、バラバラになってしまうしかない。輝かしい中世史(一方では周辺諸民族に対する侵略の歴史であったが)を誇るアフガニスタンが、近・現代史においてその光芒を失ったのは、民族・部族単位に細分化された状態のままこの地域の発展が停滞してしまったからである。過去の栄光の夢を追う封建勢力による18世紀からのアフガニスタン統一国家化の試みは、押し寄せる資本主義の強力な大波に対抗するための諸民族・部族の必死の共同努力でもあったわけである。
たしかに、アフガン台地からインド亜大陸におよぶアジアの広大な地域においても、世界中の他の被抑圧諸民族にたいしてそうであったように、ロシア10月社会主義大革命およびソビエト政府がとった民族自決権擁護政策やアメリカ大統領ウィルソンによる第1次大戦後の民族自決の鼓吹などが諸民族の独立・解放運動を激励したのはまがうことない歴史的事実である。ところが、この地域に住む諸民族が帝国主義から自立するためには、諸民族の連帯した闘いが不可欠のものであった。イギリス植民地主義支配下のインド亜大陸にはヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間の対立(コミュナリズム)をはじめさまざまな不統一が根強く存在していたからである。根深い対立があおられる一方で、コミュナリズムを克服してヒンドゥー教徒とイスラム教徒との、あるいはさまざまな諸民族間の連帯と統一をめざす苦闘もまた、現在のアフガニスタン、パキスタン、インドをおおう全域で展開されてきたのである。
http://www.caravan.net/int/shinaf/txt_1/2ch01.html