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【オウム真理教】[裸の教祖 10年目の真実](1)から(7)
http://www.asyura2.com/0401/nihon11/msg/390.html
投稿者 エンセン 日時 2004 年 2 月 08 日 13:34:16:ieVyGVASbNhvI
 

 
(連載)[裸の教祖 10年目の真実]

(1)隠し部屋で足震わせ

「情けない男、本当に麻原か」目疑った指揮官

 山梨県上九一色村のオウム真理教教団施設「第6サティアン」。1995年5月16日の朝、同教団の麻原彰晃こと松本智津夫(48)が、雑誌が散乱する2階の通路を歩いていた。捜査員2人の肩に後ろからつかまり、太った体がふらつく。パジャマのような赤紫の服はシワだらけで、汚れも目立つ。電流を流すはずのヘッドギアには、電池すら入っていなかった。

 「この情けない男が、本当にあの麻原なのか」

 松本逮捕を指揮した警視庁捜査1課の山田正治理事官(当時)は、目を疑った。

 実は警視庁はこの日、信者らとの銃撃戦も想定し、全員が拳銃を持って捜索に臨んでいた。しかし、松本の姿に、極度の緊張状態にあった捜査員の多くがあっけにとられた。

    ◎

 第6サティアンは、南北約43メートル、東西約23メートル、3階建ての巨大な倉庫のような建物だった。南東側の2階天井部分の「隠し部屋」に潜んでいるところを見つかった松本は、「麻原か」と詰問され、「はい」と素直に答えた。

 「下りてこい」

 「(1人では)下りられません」

 巡査部長ら2人が脚立に立って促すと、松本の足が2人の肩の上に下りてきた。「重くてどうもすみません」。申し訳なさそうに声を絞り出した松本の足は、ガクガクと震えていた。

 しかし、その松本が、身体検査のために、同じ2階にある4畳半ほどの小部屋に連れて行かれ、捜査員ら6人に取り囲まれた途端、態度を一変させた。

 黒いイスにドンと腰掛け、「どこか悪いところはないか」との山田理事官の言葉には、「どこもない」と不機嫌そうに応じた。

 同行していた男性医師が脈をとろうとすると、突然「やめて下さい。カルマ(業)がつく!」。大声を上げ、医師の手を振り払う。「君のために先生が診ているんだ」と、山田理事官。それでもなお松本は「ダメ、ダメ」「パワーが落ちる」と腕を振り上げ、体に触れられることを拒み続けた。

 「捜査員は君に手を触れないから」。理事官が何度もそう説得し、ようやく脈の検査が始まった。両手に手錠がかけられたのは、その数分後だった。

    ◎

 逮捕前夜の警視庁本部。幹部らは、それまでの情報から松本が第6サティアンにいることには確信があった。具体的な隠れ場所についても、この日あった匿名電話が教えてくれていた。

 「(松本は)中2階の部屋でめい想にふけっている」。すでに逮捕、留置されていた教団幹部(当時)の遠藤誠一(43)も、「その情報に間違いない。グルは体をこわしているので、大事に大事に扱ってあげて下さい」と供述した。

 しかし、午前5時25分の捜索開始後まもなく、「1階と2階の間」とされた「中2階」は存在しないことが判明する。2時間以上過ぎても居場所は分からず、捜索隊のいらだちが募った。警視庁で待機していた井上幸彦総監(当時)は何度も「まだか」と口にした。

 結局、松本の居場所が判明したのは午前9時過ぎだった。

 「匿名情報や遠藤供述は、捜査をかく乱し、麻原を逮捕させないためだったのではないか。教団側の瀬戸際の抵抗だった可能性がある」。当時の捜査官は今、そう振り返る。

    ◎

 手錠をかけられた後、松本はほとんど口を開かなかった。サティアンの周囲には、400人近い報道陣が取り巻いていたが、その目を避けて、護送車にゆっくりと連行される間も、黙したままだった。

 ただ、警視庁まで約2時間の車中、宗教について捜査員に水を向けられると、急に多弁になった。「地獄界は3つの世界に分かれているんです」「天国界は……」。独自の理論は尽きることがなく、同乗した捜査員をあきれさせた。

 捜査一課長も務め、4年前に退官した山田元理事官が、松本を思い出すことはもうあまりない。しかし、別のカルト集団の奇行などが報じられるたび、マインドコントロールの怖さを改めて感じる。

 「なぜ、あんな幼稚な男を、多くの信者が『教祖』とあがめたのか」。その答えはいまだに見いだせないでいる。(被告の呼称略)

    ◇

 今月27日、松本被告に判決が言い渡される。逮捕から10年目、同被告と直接接点を持った人々が、その人物像について口を開いた。

( 2004年2月1日付  読売新聞 無断転載禁止)

http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040201_r01.htm



(2)土下座で「調書撤回を」

坂本弁護士殺害認め署名押印、翌日一転

 逮捕から約4か月後の1995年9月中旬、オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫(48)は、警視庁の取調室で調べ官の厳しい追及を受けていた。

 「極刑は免れない。教団のためにも責任をとれ」

 松本は「あした話します」と言ったかと思うと、翌日には「(話すと言った)麻原彰晃は死にました」と言って黙り込んだ。「私は真理を追求するために、殉教者になる」などとも口にした。

 同月7日、松本は坂本弁護士一家殺害事件をめぐる殺人容疑で再逮捕されていた。宗教法人法に基づく解散請求や、破壊活動防止法の適用に向けた手続きが進み、教団への包囲網が狭まりつつあった。すでに起訴されていた末端の弟子たちは、法廷で次々と教祖批判を始めていた。

 〈教団を守り信者たちから“聖者”と思われるには、黙秘を続けるのがいいのか、供述するのがいいのかで迷っている〉

 当時、松本の取り調べを担当していた調べ官の1人はそう感じたという。

      ◎

 取調室で揺れ続けていた松本が坂本弁護士事件の経緯を初めて詳細に供述したのは、翌月1日のことだ。

 「一連の事件は私個人と一部の親しい弟子が行ったもので、私の一身をもって償うべきだと思っている」

 教団への破防法適用を回避するため、教団ぐるみの犯行ではないことを強調。「坂本弁護士を殺して転生させる意味で『ポアするしかないね』と言った」と殺害指示までも認めて、調書に署名押印した。

 ところが、その翌日、松本は再び取調官を呼び出し、「(調書を)撤回してほしい」と訴えた。「立場もあるだろうが、使わないでほしい」。取調室で土下座して、懇願した。

 教団を守るために自供するという松本の決意は、一夜にして崩れた。後に、松本は「取調官にだまされ、判断を誤った」と弁護人に語っているが、捜査関係者の多くは「死刑への恐怖心をぬぐい去れなかったのではないか」とみている。

      ◎

 実は松本はこれ以前にも、元信者殺害について進んで供述したことがあった。

 逮捕から1か月半後の6月28日深夜、「どうしても話したいことがある」と取調官を呼び出した。

 「(元信者殺害は)弟子に首を絞めさせて気絶させ、懲らしめようと思った。私が絞めろと言わなければ事件は起きなかった」

 殺意は否認したものの、初めて自らの関与を認めた。松本はこの日、なぜ態度を変えたのか――。

 その疑問を解くカギは、数日前、この事件で妻が逮捕されたことにあった。松本は未明に及んだ取り調べの中で、「妻は『元信者を帰してあげれば』と言っていた」と強調した。取調官は今、「間違いなく、妻をかばっての供述だった」と打ち明ける。

 別の捜査官も、「松本には、家族のことをすごく気にするような、普通の人間と変わらない側面もあった」と振り返っている。

      ◎

 一方、松本と対峙(たいじ)した取調官の多くは、「その宗教的知識と記憶力のすごさ」に舌を巻いている。

 薬物密造事件の取り調べで、松本は「人間が人間の枠を破って進化するには、2つ過程がある」と言って“自説”を展開した。

 「第一は正知、遮断、現象、修習……つまり、自分の煩悩を知り、これを遮断することで神秘力が表れ、これを繰り返すことで神秘力を高める。そして、第二の過程に入る……」

 宗教用語を駆使して、信仰への「確信に至る道」を説く様子は、自信に満ちていたという。

 その上で、「本来時間がかかる進化を被害対策弁護団が妨害する事態が生じたため、薬物により進化を早める必要が出てきた」と主張。違法行為を独りよがりの空論で正当化したものだったが、物語の筋立ては整っていた。

      ◎

 検察幹部の1人は、松本の捜査、公判に一貫して携わる中で、その人物像について、ある確信を抱くようになった。

 「常軌を逸した思い込みの能力。自分の世界に完全に没入し、それを演じてしまうことが出来る異常さ。そこに、底知れない生き物のようなおぞましさが生まれ、エリートたちを引きつけたのではないか」

 だが、取調室でもこだわり続けた「教祖の威厳」は、側近たちのその後の法廷証言で次々とうち砕かれていった。松本は法廷で不規則発言を繰り返した末、沈黙に入り込んだ。(被告の呼称略)

( 2004年2月2日付  読売新聞 無断転載禁止)

http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040202_r02.htm


(3)“獄中説法”に弟子動揺


「取調官の言葉は音以下」

 警視庁新宿署の接見室。その弁護士は透明の仕切り板を挟み、麻原彰晃こと松本智津夫(48)の側近だった女性信者の心を、何とか開こうとしていた。

 「もう尊師、尊師というのはやめようよ。彼は逮捕の時も逃げ隠れしていたし、信念に基づいてポア(殺人)したのに否認している。ひきょうじゃないか」

 女性が1995年5月に逮捕されてから、約9か月がたっていた。同年10月の初公判では、かたくなな態度を崩していなかった。

 弁護士は、無理に脱会させようとしていたわけではない。それでも、女性は徐々に松本を「麻原さん」と呼ぶようになり、96年3月中旬には「オウムをやめます」とも話した。

     ◎

 ところが、同月下旬、女性の態度が急変する。弁護士に「脱会はやめる」と告げ、検事にも「教祖についていく。教祖の予言は実現する」と言い出したのだ。

 態度が変わる前、女性のもとには、弁護士を通じ、教団から数通の文書が差し入れられていた。その中の1通にこんな言葉が紛れ込んでいた。

 「最高の悟りについてのお話をします……取調官の言葉を音としてすら認識しなければ、被疑者は取調官から与えられた一切の苦しみから解放される」

 別の文書には、「私は調べの中で1日も休まず修行を続けています。逆境での修行こそ修行であり、逮捕された弟子たちを見ると余りにもお粗末に感じられます」とあった。

 検察当局は、「麻原からのメッセージにほかならない」と確信した。

     ◎

 「獄中説法」。そう呼ばれるこの種の文書が当時、弁護士を通じて、多数のオウム被告にまかれていた。

 「効果は絶大だった。教団から離れようとしていた多くの被告に、揺り戻しがきた」と、ある検察幹部は振り返る。文書を見て「取調室から房に戻るのが怖い。カルマが飛んでくる」と言い出した信者もいた。

 東京地検は96年4月、これらの文書を差し押さえ、差し入れた弁護士の事情聴取に踏み切った。「何としても麻原の影響力を排除したい」。そう考えた末の措置だったという。

 女性信者の弁護士は「当時、中身を見たが、大した文書だとは思わなかった」と話している。

     ◎

 教団幹部(当時)の遠藤誠一(43)は同年6月、それまで弁護人だった野崎研二弁護士を突然解任した。法廷での主張も180度方向転換し、地下鉄、松本両サリン事件などの起訴事実について、否認に転じた。

 遠藤はその前に何度か、「否認して耐えるのが修行だ」というメッセージを教団から受け取っていたが、「やったことはやったとして認めるべきだ」との野崎弁護士のアドバイスに従うと心に決めていた。

 では、なぜ否認に転じたのか。野崎弁護士は解任理由を確かめるため拘置所を訪ねたが、遠藤は接見を拒否した。ただ、変化の前、他の何人かの弁護士が遠藤に接見していたことは間違いない。

     ◎

 95年10月、松本が当時の私選弁護人を解任した際、野崎弁護士は3度、松本と会っている。最初は尊大だった。2回目のときは、哀願口調で私選弁護人を依頼したが、野崎弁護士が受任を断った後の3回目は、いきなりどなり始めた。

 「あんたが遠藤に、『麻原を悪者にしろ、さもなければ助からないぞ』とたきつけたんだろう」。相手の言い分も聞かずにわめき散らし、最後には「もう帰れ」と言い放った。

 「結局は自分のことしか考えていない男だ」と、野崎弁護士。だが、その影に拘置所の弟子たちは揺さぶられた。「尊師は恐ろしい。尊師には神通力がある」――。京大大学院医学研究科を中退し、教団「厚生省大臣」となった遠藤は、解任前の野崎弁護士にそう訴えていた。(被告の呼称略)

( 2004年2月3日付  読売新聞 無断転載禁止)

http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040203_r03.htm


(4)「上に立つ」…盲学校に原点


 熊本市から南に40キロ。山間部を抜け出た球磨川が八代海に注ぐ熊本県八代市高植本町(旧金剛村)。松本智津夫(48)の生家は、特産のイグサ畑が広がるこの一角に、かつてあった。近所の主婦の話では、畳職人の父親は、松本の逮捕後もしばらくとどまっていたが、「ここにはもう住まわれん」と、何年か前に出ていったという。

 松本は1955年3月、兄弟姉妹7人の四男として生まれた。61年春、子だくさんの父母は、6歳の少年を地元の小学校ではなく、熊本市内の全寮制の県立盲学校に送り出した。学用品代、給食費や帰宅のための交通費をまかなう就学奨励費が国から支給された。

 「経済的に困ってる。何とか入れてほしい」。幼い松本の手を引いて盲学校を訪ねた母親は、そう言って入学を願い出た。松本は当時、先天性緑内障で左目はほとんど見えなかったが、右目の視力は1・0ほどあった。入学基準は両目ともに0・3未満。松本は、全盲の兄がおり、「将来視力が低下する恐れがある」という理由で入学を許された。

 同じ年、校長として同盲学校に赴任した女性(92)は、40年前の松本のことを今もしっかり覚えている。約80人の小学部児童の中でとりわけ、自分を慕ってくれていたからだ。

 松本は授業が終わるとよく、校長室のドアの外にたたずんでいた。

 「どうしたの?」。声をかけると目を伏せ、腰のあたりをぎゅっと握って放そうとしない。「校長先生、校長先生」と言っては、板張りの廊下をギシギシ鳴らしてついてきた。寄宿舎生活を送る子どもたちは休暇になると、親たちとともに家に帰ったが、松本を連れに来る人はいなかった。

 松本は「目が見えるのに、何でみんなと一緒(の小学校)じゃないの」と訴えたことがあった。「子供心に『自分は捨てられた』と思っていたようだ。気の毒な子だった」。元校長の声が沈んだ。

 当時の教師や後輩たちの話では、「見える」松本は徐々に、従順な下級生や全盲で立場の弱い同級生らを「子分」として従えるようになる。勉強もできた。小学部の時、児童会長選挙に立候補したが、落選。職員室では、「人気がなかけんね」とささやかれた。

 高等部2年の2学期。松本は掃除が終わった後の教室で、「熊大の医学部に行きたい」と、担任教師に切り出した。「病気や目が悪い人の役に立ちたい」という。だが、目の障害が受験資格に引っかかるし、授業で習っていない受験科目もあった。そう伝えると、松本は「そうなんですか」としょげ返ったという。

 しかし、寄宿舎の電気スタンドは、部屋の消灯後も消えることはなかった。ラジオ講座で勉強を続け、担任には「やっぱり大学に行く」と言い続けた。

 針きゅう師になるための訓練などをする専攻科に進むと、松本の将来の夢は、「医者」から「政治家」に変わっていた。実家では、ちゃぶ台の周りに毛沢東や仏教の本を積み上げ、夜遅くまで読んだ。右目の視力は0・1ほどまで落ちていた。

 松本は中学部時代から、「上に立ちたい」という気持ちを強めていた。「ただ、上級生には一切立ち向かわない。それは、年下ばかりが集まったオウムに重なる」と、当時を知る元教師は言う。

 専攻科の2年間を終え、針きゅう師として働きだしていたある日、松本がひょっこり職員室に姿を現した。東大法学部を受けるので、受験に必要な書類をもらいに来たのだという。教師から「受からんだろ」と冷やかされたが、予備校に入学するため上京した。

 「田舎におっちゃだめだ。夢を大きく持たにゃあ」。22歳の松本は、熊本駅で偶然出会った旧友に、そう話していた。(被告の呼称略)

( 2004年2月4日付  読売新聞 無断転載禁止)

http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040204_r04.htm


(5)「将来、大きいことする」


 東大進学を目指し、郷里・熊本を出た松本智津夫(48)は1977年5月、大手予備校「代々木ゼミナール」に通い始める。初めは教室の最前列で熱心に授業を聞いていた。しかし、勉強は思うようにはかどらず、数か月後には予備校に姿を見せることもなくなった。「黒板の字が読めなくなった」「自分の目がこれ以上よくなることはないと分かった」。松本は弁護士や取調官にそう話している。

 一方、松本は通学途中の山手線車内で、千葉の県立高校を卒業した18歳の女性に声を掛けていた。同じ予備校生だった女性は、翌年1月に松本と結婚し、半年後に長女を出産。松本は家族を養うためにも、進学を断念することになる。

 松本が、千葉県船橋市役所近くの雑居ビルに、「松本鍼灸(しんきゅう)院」を開業したのは、結婚前のことだ。

 「将来、大きいことをするよ」。隣のすし店の店主(62)は、毎日のようにカウンターの隅に座り、600円のすしとビール1本で3時間も粘る青年の口癖を覚えていた。

 患者はまばらだったが、夜になると、十数人の若者が自宅を兼ねた鍼灸院の狭い部屋に吸い込まれていった。松本は、すし店主には「予備校の仲間と世直しの集会を開いている」と話し、「すしを握らなくても金もうけができる。人生が変わる」と誘ったが、店主は「若造が大ボラを吹いているだけだろう」と取り合わなかった。話はカネのことばかりだったという。

 「近代医学と漢方がドッキングした数少ない“総合医療機関”」。松本は結婚を機に、船橋市内の情報紙に派手な広告を出し始める。売り物は「中国に学んだ耳バリ治療」。「美しくやせた」など、当時は珍しかった患者の「体験談」も盛り込んだ。美辞麗句の誇大広告に、同業者の多くが顔をしかめた。

 そのころ、耳のつぼを刺激するダイエット法がブームになっていた。松本はかなり稼いだようで、すし店には運転手付きの高級車で乗り付け、6000円のすしを注文した。20歳代半ばで、同市内に2階建ての家を新築した。

 「京王プラザホテルで変な薬を売っているヤツがいる」。82年春、警視庁保安2課に、そんな情報が舞い込んだ。会場にお年寄りを集め、許可も受けずに「万病に効く」というあやしい小瓶の液体を売りつけているというのだ。

 松本は当時、新京成線・高根木戸駅近くに自然食品販売店を開いていた。隣で自転車部品販売業を営んでいた男性(62)はある朝、いつもは白衣の松本が黒いスーツを着ているのを見かけた。「これから京王プラザで、漢方薬の展示会なんです」。松本は得意そうに話していた。

 同年6月、捜索令状を携えた数人の捜査員が、松本の新居に踏み込んだ。

 畳の部屋に座った松本は「自分なりにきちんとやっている。毒を売っているわけじゃない」と抗弁したが、約1週間後、薬事法違反容疑で逮捕される。

 ニセ薬を1000万円以上売り上げていた。捜査員(71)は取調室で、「カネ目当てだったんだろう」と追及したが、松本は頑として「人のためにいいと思ってやっていたんです」と言う。熊本の話もしてみたが、「田舎とはもう関係ない」。「オレは悪い人間になっちゃうんだね」とつぶやき、目を伏せていた。

 略式起訴され、罰金20万円を支払った松本は、弁護士から「ばかなことはもうやめろ」と諭され、黙ってうなずいた。自然食品販売店も閉店した。

 当時、松本の家を捜索した捜査員は、居間に仏壇が置かれ、曼荼羅(まんだら)の絵が飾られていたのを覚えている。「あんた信仰心があるのか。感心だな」。捜査員がそう言うと、松本は口が軽くなり「二十四地獄が……」と、「意味不明」の宗教用語を並べ立てたという。(被告の呼称略)

( 2004年2月5日付  読売新聞 無断転載禁止)

http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040205_r05.htm


(6)「日本沈没」も自作自演



 JR渋谷駅南側の雑居ビル街の一角。7階建てマンション5階の角部屋前に立った30歳近くの女性会社員は、思い詰めた表情でインターホンを押した。「鳳凰慶林(ほうおうけいりん)館」の看板のかかったドアが開き、ジャージー姿の松本智津夫(48)が顔を出した。1984年春、ニセ薬事件での逮捕から約1年半がたっていた。

 松本は部屋に女性を招き入れ、小さな紙に書かせた名前と生年月日を、虫眼鏡でじっと追った。女性は、恋愛の悩みや自分の弱さなど、家族や友人にも打ち明けられないことを延々と話した。松本はその間、うなずくだけで、ほとんど口を開かない。最後に「ヨガをやったらいいんじゃないか」とだけ言った。

 「同じぐらいの年ごろなのに、何でも許してくれるような包容力があった」。この時期、口コミで松本を知ったOLたちが、後に教祖の側近として、教団の中枢を担っていく。

 松本の「空中浮揚」写真を手にしたOLたちが、あちこちのオカルト雑誌編集部を訪れたのは85年夏のことだ。蓮華(れんげ)座を組んだ松本が歯を食いしばって宙に浮いていた。

 興味を持ったある編集者が、カメラマンを連れて渋谷のマンションへ行くと、松本は2時間以上にわたって宗教の知識を披歴した。海水パンツ1枚になって体をよじり、逆立ちもした。しかし、「空中浮揚」は見せてくれない。「準備が整っていない」というのが理由だった。

 そもそも、松本の写真は、渋谷の一室で、足を組んだままピョンピョン跳びはねる一瞬を、女性が撮ったものに過ぎなかった。だが、それが「空中浮揚」としていくつかの雑誌に掲載され、大きな反響を呼ぶ。幹部信者の多くが後のオウム法廷で、「オカルト雑誌で(松本を)知った」と証言した。

 「鳳凰慶林館」の看板はその後「オウム神仙の会」へと変わっていく。松本は86年夏、自らを「日本で唯一の最終解脱者」と称し、会員たちから「尊師」と呼ばれるようになる。殺人を正当化する「教義」も説くようになった。信者は増え続け、88年末には約3000人を数えた。

 尊師が信者200人を引き連れて、都庁に押し掛けたのは89年4月。宗教法人の認証がおりないことに業を煮やし、「お前たちに任せておけない。わしも行くぞ」と号令をかけた。

 職員と談判し、信者が副知事宅などに電話攻勢をかけた。4か月後、都は「法律違反を示す事実は確認できない」として認証を決める。「宗教法人オウム真理教」が誕生した。

 松本はその直後、教団のいかがわしさを暴いた週刊誌サンデー毎日に抗議するため、同誌編集部にも姿を現す。当時の牧太郎編集長(59)が「未成年者に30万も40万円も(高額のお布施を)要求することが宗教なのか」とただすと、表情を変えた松本は「いくらだったらいいんだ」と声を荒らげ、席を立ったという。

 教団批判が高まる中、松本は信者に「社会に対抗するには、大きく出ないとダメだ」と話し、90年2月の衆院選に立候補する。だが、わずか1783票しか得られず落選し、脱会者が相次いだ。

 2か月後の同年4月に開いた沖縄・石垣島のセミナー。松本は技術や専門知識を持った者の優先的な出家を指示する一方で、「日本は沈没する」と自信たっぷりに“予言”する。

 その裏で、強力な毒性を持つボツリヌス菌の培養と都内への散布を考え、幹部信者らに実行を命じた。計画は失敗したが、幹部の1人は法廷で「セミナーは菌の飛来から信者を守るのが目的だった」と証言した。松本の狂気に満ちた「自作自演」が始まっていた。(被告の呼称略)

( 2004年2月6日付  読売新聞 無断転載禁止)

http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040206_r06.htm


(7)傍若無人の「理想郷」


 ブルーシートに囲まれた原野に、重機を動かす音が24時間響き、その周りを汚れたTシャツ姿の若者が四六時中巡回していた。阿蘇山ろくの人口2000人足らずの熊本県波野村。オウム真理教は1990年5月、「理想郷」建設のため、ここに15ヘクタールの土地を購入した。

 「何をするつもりなんだ。正体の知れない団体に乗っ取られる、と村全体に猜疑(さいぎ)心が広がった」。村助役(当時)の岩瀬治茂さん(82)は、そう振り返る。教団に説明を求めても、門前払いされるばかり。村は信者の住民転入届を受理しないことで対抗した。

 同じころ、山梨県上九一色(かみくいしき)村でも、教団の巨大なサティアン群(最大時4・5ヘクタール)が次々と姿を現す。牧草地への廃液の垂れ流しやひどい煙に、住民たちが悩んでいた。近くで酪農業を営む山口寿広さん(48)が苦情を言うと、「文句があるなら、風に言え」とすごまれた。

 社会を遮断する教団の秘密主義が深まっていた。

 「地獄へ落ちる。地獄へ落ちる……」。90年8月12日深夜、波野村の山あいの林道に、信者の不気味な声がこだました。通行禁止区域に入ってきた教団バスを止めようとした村民と信者計500人がもみあいになり、不気味な呪文(じゅもん)が浴びせかけられたのだ。

 「真っ暗闇の中ですからね。生きた心地がしなかった」。現場にいた那須野誉(たかしげ)さん(56)は今も、背筋が凍るような気味の悪さを忘れられない。

 その3日後の夜、林道で警戒していた村職員の前に、今度は、信者に警護された宗教服の松本智津夫(48)が現れた。「住民登録はなぜ受け付けないのか。カルマ(業)を受けるでしょう」。岩瀬国興(くにおき)さん(61)は思わず、「脅しですか」と聞き返した。

 「脅しではない。私たちは非暴力ですから」。穏やかだが、有無を言わせぬ口調だった。「今思えば『非暴力』なんてよく口に出来たものだ」と、岩瀬さんは言う。

 「たとえ1度事情聴取されても、3回突っぱねれば、警察も手を引きます」

 教団に対し、違法に波野村の土地を売却したとして、県警の聴取を受けた男性に、松本は真顔でそう諭した。自らの薬事法違反での逮捕歴にも触れ、「自白したのは間違いだった。あなたも本当のことを言ってはダメだ」と、否認を勧めた。

 「うさんくさい男がバカなことを言う。この団体は信じられない」。男性はそう思ったという。

 上九一色村では、松本は92年1月、村長と会談し「村民が私のベンツにツバを吐きかけた」などと住民を非難した。その一方で、村長のことは「理解がある」「さすがに立派で、人柄がしっかりしている」と、褒めちぎった。

 当時、地元住民の反対運動の先頭に立ち、会談に同席していた竹内精一さん(75)は「役場と住民を分断しようとしている」と感じたという。「人の心を操ることにはたけていた。ああやって若い信者たちをマインドコントロールしていったのだろう」

 地元との対立の中で、教団は法律論を振りかざし、住民を次々と刑事告訴した。両村を相手取った民事・行政訴訟も最終的に計20件に及んだ。

 表で「順法」を装う一方、教団は当時すでに、信者のリンチ殺人や坂本弁護士一家3人惨殺という凶悪事件を引き起こしていた。

 90年10月、波野村の土地取引を巡る国土法違反容疑で教団総本部(静岡県)が熊本県警の捜索を受けた時、松本は令状を示した捜査員に詰め寄った。

 「こんなちっぽけな事件で、わざわざ熊本から来て、どういうことだ」(被告の呼称略)

( 2004年2月7日付  読売新聞 無断転載禁止)

http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040207_r07.htm

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1. 2018年3月20日 16:38:00 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-3138]
オウム井上死刑囚が再審請求「執行逃れでない」

2018年03月15日 07時26分

 オウム真理教による地下鉄サリン事件など10事件に関与した教団元幹部、井上嘉浩死刑囚(48)が14日、東京高裁に裁判のやり直しを求めて再審請求した。

 弁護人によると、井上死刑囚が再審請求するのは初めて。

 井上死刑囚は再審請求で、逮捕監禁致死罪で有罪とされた目黒公証役場事務長・仮谷清志さん拉致事件について、仮谷さんの死には関与しなかったなどと主張。弁護人に「刑の執行逃れではなく、真実を明らかにしたい」と語ったという。

     ◇

 法務省は14日、オウム真理教が起こした一連の事件で死刑が確定し、東京拘置所(東京・小菅)に収容されている7人の死刑囚について、他の拘置所に移送を始めた。井上死刑囚もこの日、東京拘置所から大阪拘置所に移送された。

 死刑囚は通常、刑事裁判が確定した裁判所の地域を管轄する拘置所に収容されるが、親族や支援者らの面会に配慮し、郷里を管轄する拘置所に移送されるケースもあるという。事件では教祖の松本智津夫死刑囚(63)ら13人の死刑が確定しているが、関係者によると、松本死刑囚は移送の対象に含まれていないという。

http://www.yomiuri.co.jp/national/20180314-OYT1T50121.html


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