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(回答先: 【オウム真理教】[裸の教祖 10年目の真実](1)から(7) 投稿者 エンセン 日時 2004 年 2 月 08 日 13:34:16)
(8)包囲網におびえ 最後の抵抗
■「テロやり続けろ」
地下鉄サリン事件が起きた1995年3月20日夜。東京・桜田門の警視庁本部11階の警視総監室は、かつてないほど重苦しい空気に包まれていた。オウム真理教に対する強制捜査をどう展開するべきか――。総監、副総監、刑事部長、公安部長、警備部長の警視庁首脳5人は、重大な決断を迫られていた。
「22日に(山梨県)上九一色(かみくいしき)村も含めて全部やる」。警視庁は東京地検とも協議の上、同月16日の時点で、そう結論を出していた。しかし、サリンの恐怖が現実のものとなった以上、それを予定通り行えるものかどうか。
会議では、「上九一色まで一気にやるのは戦線が拡大しすぎる。要員が足りない」という慎重論も出た。それをひっくり返したのが、井上幸彦総監(当時)の発言だった。
「我々を上九一色に向かわせないようにするのが彼らの狙いだ。その意図に乗ってしまっては負けだ。これは闘いなんだ」
◎
「農薬や肥料の原料で、サリンが合成されたと言われていることは理解できない」
教団の強制捜査後、テレビニュース用に撮影されたビデオの中で、麻原彰晃こと松本智津夫(48)は、警視庁が押収した大量の薬品を「農薬や肥料の原料」だと強弁していた。
しかし、実際はかなりおびえていたようだ。強制捜査の前日、上九一色村の教団施設では、書類の廃棄などが始まっていた。松本は隠し部屋から、地下鉄サリンの実行犯だった信者に「お前たちは逃げろ」と命じた。壁越しに指示する声がうわずっていた。
強制捜査の数日後、第1サティアンにいた女性信者が教団の「防衛庁長官」から受け取ったメモにも、「尊師は第6サティアンの隠し部屋にいる」とあった。彼女は「格好悪い。教祖なんだから堂々としていればいいのに」と感じた。
◎
「なぜ自衛隊のクーデターをやらないんだ」「コンビナートを爆破しろ。政権交代が起きるまでテロをやり続けろ」
教団の「諜報(ちょうほう)省大臣」だった井上嘉浩(34)は4月16日、松本に呼び出されて、こう命じられた。信者が次々と逮捕され、包囲網が狭まっていた。切羽詰まった松本は弟子を使い、最後の抵抗を試みようとしていた。
そのころ、捜査当局内部にも、「松本を何の容疑で逮捕すべきか」で意見の深刻な対立があった。
当時の捜査幹部によると、さらなるテロの発生を最も警戒していた警視庁は、すぐにでも適用できるサリン製造の殺人予備罪を使って、松本を早期に逮捕することを主張。検察庁は「死刑もありうる殺人罪で逮捕できるまで我慢すべきだ」と譲らなかった。
25日昼、最高検、東京高検、東京地検の幹部による首脳会議が開かれる。
「オウムは『正しい』と信じて犯罪を実行する狂信的な組織だ。弟子たちに衝撃を与え、全容を語らせるためにも、殺人で逮捕し、『教団は終わりだ』と思わせなければならない」
殺人容疑での逮捕方針が固まった。
◎
5月5日、検察主導の逮捕方針をあざわらうように、新宿駅青酸ガス事件が発生。松本から「無差別テロの継続」を命じられた井上らによる犯行だった。
ところが、次の日の夜遅く、地下鉄サリン事件実行犯の林郁夫受刑者(57)が突如、「サリンをまきました」と警察官に打ち明ける。松本に事件を報告したことまで一気に話した。土谷正実、遠藤誠一というサリン製造の中心人物も自供を始め、松本を殺人罪で逮捕する条件が整った。
「教祖や主要な幹部はつかまっておらず、テロも続いた。勝つか負けるかわからない状態で、1億人からの重圧を感じながら容疑者と向き合った」。ある検事は当時をそう述懐した。(被告の呼称略)
( 2004年2月8日付 読売新聞 無断転載禁止)
http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040208_r08.htm
(9)「教祖辞任」宣言 10か月で撤回
■身勝手な饒舌
松本智津夫(48)の逮捕から1年後の1996年5月15日。東京拘置所の周辺には、装甲車が並び、数百人の制服警官が警戒にあたっていた。教団への破壊活動防止法(破防法)の適用に向け、教祖である松本の意見を聞く弁明手続きが始まろうとしていた。
拘置所の事務棟研修室の窓はすべて鉄板で覆われている。刑務官に囲まれ、のっそりと現れた松本は着席後、マイクの位置を確認し、切り出した。「え〜、ちょっと今日は緊張しておりまして申し訳ありません。言葉が足りない部分はご容赦下さい」
松本は、殺人を正当化するとされた教団の教義について「危険はないが、誤解を招くなら封印する」と明言。「教団は革命的行動を起こそうとしていた」との公安調査庁の主張には、「申し訳ないけど笑ってしまった」と言い放ち、弟子に説法するかのように、教義の意味を解説した。
3週間前の初公判で「聖無頓着の実践」などと意味不明の陳述を3分間だけして口を閉ざした時とは、別人のように饒舌(じょうぜつ)だった。
立会人として弁明を見守った社会評論家の小沢遼子さん(66)には、「教団を存続させるための反論というより自己顕示欲。世間に自分の能力を見せたいのだろう」と思えた。
◎
破防法問題で教団側の代理人を依頼された芳永克彦弁護士が、松本と初めて接見したのは同年1月。受任前に確認したい条件が1つあった。
将来も教団の犯罪行為を肯定するのなら代理人にはなれない。熱心に話を聴いていた松本は、「そんな意思も能力もありません」と言下に否定し、受任を懇請した。「逃走中の信者への出頭を呼びかける」とも約束した。
約1年間、50回前後に及んだ接見の中で、目が見えずメモもとれないのに、松本は驚くべき記憶力で言い分を並べ立てた。
「非常に頭のいい人間。ケンカの仕方も分かっている。相手の心を読んで引っ張り回すのは得意な男だ」と、芳永弁護士は思った。
2度目に登場した5月28日の弁明の直前、松本は突然、代理人に打ち合わせを求め、「教祖を降りたい」と言い出した。それまでの接見でも1度も口にしていないことだった。
弁明が始まると、教祖と代表の辞任を宣言。「これで破防法の適用要件はなくなったのではないかと考えております」と述べ、饒舌に拍車をかけた。2度にわたる計約9時間の陳述。松本の弁護人の1人は当時、「精神鑑定の請求は出来なくなった」と頭を抱えた。
◎
97年1月、公安審査委員会は破防法の適用を認めない決定を下す。逃亡犯が次々と逮捕され、活動拠点も失われる中、「教団の危険性は低下した」と判断した結果だった。
ところが、接見室でこれを聞いた松本は、「心ここにあらずという様子で、終始ブツブツとつぶやいていた」という。芳永弁護士が「麻原さん、聞いてますか」と呼びかけたが、松本は独り言を続けるばかりで、全く関心を示さなかった。
「喜んではいなかった。破防法が回避されれば、即座に保釈されるなど、自分のプラスにもなると誤解していたのではないか」と、同弁護士は推測する。
松本はこの時期から、刑事裁判の国選弁護団には、「私がしゃべれば無罪になる」と言い出し、罪状認否をさせるよう求めた。〈自分の弁明で破防法を止めたと勘違いしている〉。ある弁護人はそう感じた。
それから2か月後の公判。元信者の証人尋問の最中、松本は不規則発言を続け尋問を妨害した。「この麻原彰晃は、オウム真理教の代表者なんだ」。弁明で「教祖辞任」を明言したことなど、全く忘れているかのようだった。
徹頭徹尾、利己的で、何でも自分の都合のいいように解釈する。そんな身勝手さが、松本にはあった。(被告の呼称略)
( 2004年2月10日付 読売新聞 無断転載禁止)
http://www.yomiuri.co.jp/features/kyouso/200402/ky20040210_r09.htm