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(回答先: 江戸はなぜエドなのでしょう? 投稿者 100ワット 日時 2004 年 3 月 23 日 17:56:24)
100ワットさん、今晩は。分かる範囲でお知らせします。
★ 日本語の多くは、日本列島に住み着いた原住民=縄文人(オーストロネシア系?)の言語に由来すると言われています。即ち、
最近のミトコンドリア分析によれば、近世アイヌ人は、日本列島の太古からの先住民(オーストロネシア主体?)である縄文人からの変化が少なく、朝鮮半島経由のアルタイ系の渡来人の影響を余り受けていないと考えられる。
弥生文化は、移住民の渡来によって縄文文化が変化したもので、言語も縄文語が渡来語によって影響(渡来語の借用から混合へと度合いを増して行った)されて弥生語が出来たものと考えられる。
(アイヌ語と似た体系の言語を持つバスク語、グルジア語 参照)
「エド」の由来について、以下に参照資料を紹介します。
これらの資料では、アイヌ語由来説(@とB)とマオリ語由来説(A)があります。
この差は、近世アイヌ語で調査した場合と、更に古代に遡ってオーストロネシア系のマオリ語で調査した場合の違いと思われます。
アイヌ語由来説では「エトモ=湾の中の岬、湾を形成する岬」、マオリ語由来説では「(岩が剥がれて薄くなっている)絶壁が連なっている(半島・海岸)」の地形に対して命名されたようです。
■ 参照資料@ アイヌの窓_言葉の通る窓_noto an mintarBBS
絵鞆半島
北海道の室蘭市に「絵鞆半島」という、室蘭の湾を作る、あるいは噴火湾に掛かる小さな半島があります。アイヌ語=縄文語で、「エトモ=湾の中の岬、湾を形成する岬」だそうです。
湾は人間達が住みやすい場所です。湾が豊かな平野に繋がっている場合も多い。そうすると、そういう湾の「エトモ=湾の中の岬、湾を作る岬」の場所は、湾全体を押さえる最重要拠点地になる。人々が多く住む湾で、そういう重要拠点地を押さえている人は、その一帯のヌシになれる。
本州で、そういう「エトモ」の場所が、江戸城のある「エド」です。江戸とは、昔、利根川が東京湾(江戸湾)に注いでいたから江の戸口という意味かと思うのは間違いです。
メッセ1897の「牛込」で解説したように、徳川家康以前の江戸城(今の皇居)の場所は、その南から西に湾が入っていました。つまりそれは逆に言えば、「江戸(えど)城」は江戸湾に突き出た岬(湾の中の岬=エトモ)に築かれていたのです。「エトモ」だから「エド」なのです。江戸湾全体を押さえる、ひいては関東平野全体を押さえる要衝だったのです。
江ノ島
相模湾に「江ノ島」が突き出ています。「江ノ島」も“湾の中の岬=エトモ”なのです。エトモ島が大幅省略で、江ノ島になった。
■ 参照資料A ポリネシア語で解く日本の地名_室蘭・絵鞆半島・チキウ岬
室蘭
室蘭市は、内浦(噴火)湾の東端の絵鞆半島に抱かれた天然の良港に立地する胆振支庁の支庁所在地で、港湾と鉄鋼業で発展した臨海工業都市です。
この地名は、アイヌ語の「モ・ルエラニ(緩やかに下る道)」から、「モルエラン」、「モロラン」に変化し、安政5(1858)年ごろから、あて字の室蘭の字に引かれて「むろらん」と呼ばれるようになったといいます。この解釈では、どこにでもある地形地名で、室蘭の特徴ある地形を表したものとは言い難く、疑問が残ります。
この古名の「モロラン」は、マオリ語の
「マウル・ランガ」、MAURU-RANGA(mauru=north-west;ranga=raise,pull up by the roots)、「北西の部分を根こそぎにした(除去して穴が空いている湾。この湾のある土地)」
の転訛(「マウル」のAU音がO音に変化して「モル」となり、さらに「モロ」に変化し、「ランガ」の末尾の「ガ」が脱落した)と解します。室蘭の地形を見事に的確に表現しています。
絵鞆半島
また、絶壁の景観が美しいチキウ岬や、金屏風、銀屏風の名所がある絵鞆半島の「えとも」は、アイヌ語では襟裳岬と同じで「エンルム(突き出ている頭。岬)」の転訛という説があります。また『出雲国風土記』に秋鹿(あいか)郡恵曇(えとも)郷、恵曇(えとも)の浜の記事があり、この浜は岩壁が高く嶮しく、船の停泊ができないと記されています。
この「エトモ」は、マオリ語の
「エト・マウ」、ETO-MAU(eto=lean,attenuated;mau=fixed,continuing)、「(岩が剥がれて薄くなっている)絶壁が連なっている(半島、海岸)」
の転訛と解します。この「エト」、「マウ」は、択捉島の「エト」、襟裳岬の「モ」と同じ語源です。
チキウ岬
絵鞆半島の南端にチキウ岬があります。この「チキウ」は、アイヌ語の「チケプ(断崖)」からとされていますが、これも音がかなり離れています。
この「チキウ」は、マオリ語の
「チキ・ウ」、TIKI-U(tiki=a rough representation of a human figure on the gable of a house;u=be fixed)、「(家の破風に付ける)人身像らしきものが(岬の突端の絶壁に)付いている(岬)」
の意と解します。
■ 参照資料B 瑪瑙の古代語探求_江戸・伊豆・出雲
「古代語探求」の第一回目の「一番・ハナ・鼻」でも少し触れましたが、現在でも「岬」のことを「鼻」とも言い、それは、アイヌ語の pa(頭)・ na (〜の方向)からきていると書きました。
現在のアイヌ語では、「岬」のことは etu (エトゥ)と言い、 etu(エトゥ)は、「鼻」という意味にも使われています。ちなみに、「鼻の穴」は etu-puy(エトゥ・プィ)と言います。この etu(エトゥ)は、etu(エツ)、itu(イツ・イズ)、eto(エト)、ito(イト)などに変化し、現在も地名として残っています。
江戸
伊豆
出雲
伊都・糸串・糸満・エトロフ