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(回答先: トーマス・ブレーク・グラバーが産んだ大日本帝国とその壮絶な終焉 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 1 月 23 日 22:15:36)
大浦天主堂、浦上天主堂、グラバー邸の位置関係など
上の投稿で、ちょっと誤解を招きそうな表現があることに気がついたので、
補足しておきます。
ついでに参考関連ページも追加します。
(参考書籍 「花と霜」の紹介)
http://www.e-bunken.com/docs/main_left3.html
(大浦天主堂、浦上天主堂、グラバー邸の位置関係など)
1859年、大浦川河口には洋館はありませんでした。
1867年には、大浦側の埋め立てが終り、
天主堂、多数の洋館が埋め立て地とその周辺に建設され、
グラバー邸が斜面に建設されます。
ここは外国商人たちが多数居住していました。
グラバー邸、大浦天主堂は、オランダ坂の近くです。
グラバー邸と大浦天主堂の位置
浦上天主堂は、長崎市の浦上にあり、原爆の爆心地から北東に約500mしか離れていません。
http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/kyoukai16.html
浦上、大浦天主堂の関係について
全文引用
「慶応元年(1865)に大浦天主堂が完成し、ここ浦上の潜伏キリシタンはプチジャン神父に「私どももあなたと同じ信仰をもつ者です」と打ち明け
「潜伏信徒発見」という歴史的な事件となりました。
しかし、まだキリシタン禁制中のできごとであり、浦上の信徒3400人ばかりは流罪となりました。
この事件は外交問題となり明治政府は明治6年(1873)にキリシタン禁制を解くことになりました。
信仰の自由を得た浦上の信者たちの33年に及ぶ奉仕で大正15年に立派な天主堂が完成しました。
赤レンガ造りのロマネスク式の教会は当時東洋一と言われていましたが、昭和20年の原爆で8500人の信者とともに失われてしまいました。」
http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/nagasi/uragami/uragami.htm
私の投稿は、カトリックの方々の考える特別な意義を否定する趣旨ではないので、誤解なきようお願いします(もしおられたら)。
1859年に始まった英国支配エージェント支配下の明治政府が、
そのエージェントの住まい後に米国が投下した原爆によって終わる。
その終焉の黙示。
黙示とは「暗号」のこと。
日本を英国から米国支配に引き渡したぞ、そういう暗号に違いない。
つまり、「奥の院」から見たとき、明治政府=大日本帝国の終焉の日付は、
表向きとは異なり、
1945年8月9日
(ヒロシマへの原爆投下は実験目的)
ターゲット・エスカレーションについて:ヒロシマも同じです
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/1089.html
「9・11」〜「ドレスデン無差別爆撃」〜「マスク・オブ・サニティ」をつなぐもの
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/1053.html
投稿者 ジャック・どんどん