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(回答先: マッチョな言葉(インターネットの言語)と、フェミニンな言葉 投稿者 ブッシュ小泉 日時 2004 年 1 月 12 日 21:40:01)
「マッチョな言葉」というより、目先のディベートに勝つことが自己目的化すると、詭弁・揚げ足取りの不毛な議論になり、真実に到達するプロセス(これこそ阿修羅本来の目的であろう)を阻害するだけだから止めた方がいいと考えているのです。阿修羅のaudienceも投稿者間の無目的なディベートを観戦したいと思っている人は少ないでしょう。同じディベートでも意地の突っ張り合い(こういうのは学生時代に卒業した)ではなく、何かの教養の足しになるようなディベートは歓迎ですが。
英語でのディベートを経験した人なら知っているように、ディベートコンテストでは自分が本当には信じてもいない題目を主張することが天下り式に要求されます。だから信念を持つことはむしろジャマであって、詭弁ばかり上手になってしまうのです。英米人、特に米国人の議論にはこのディベート文化の弊害が非常に色濃く見られます。(「マクドナルドのコーヒーが熱すぎたからヤケドした」と言って、億単位の賠償金が認められるあの馬鹿らしい訴訟文化はその典型だ)だからあんな不毛な国になってしまったのです。
基本的に他の投稿者に失礼にならないような議論であれば、阿修羅では何を言っても良い、というリベラルなアプローチが大切ですが、同時に発言の機会を許されていることについては、主催者に対する一定の感謝を忘れてはならないと思います。だから各投稿者は少なくとも読んだ人に何某かの知識なり感動なり与えることを目的として、自分なりの付加価値を注入した投稿を心がけるべきではないかと考えています。(むろん私個人の信念なので聞き流してもらっていい話です)その意味で投稿者間の罵倒合戦が阿修羅にもたらすダメージは、アラシに勝るとも劣らないものであることは事実でしょう。
要するに私は「勝ち負け」とか「取り仕切る」という日本のムラ社会のコンセプトには全く無縁の人間なのです。自分より優れた投稿者は当然沢山いるだろうし、いても私には何の関係もない、というより阿修羅のためにはそういう人々が沢山参入してくれることが望ましいのです。自分にない知識を持っている人からはできれば吸収したいと思うからです。 ただし、以前の投稿に見るように、
「やはり思うのは最終的に、文章であれ、絵であれ、作品は人を表わすものだから、見るのは結局「人」。作品がどのような素晴らしい内容であれ、人格、品性が見るに堪えないものなら私は何も認める事は出来ない。」(百川さん)
Re:鉄は熱いうちに打て - 百川 2003/12/26 01:52:00(3) http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/1085.html
という感情があることも認めざるをえません。何も良い子ぶる必要はないですが、やはり最低限のモラルというかマナーを発揮してくれないと、学ぼうという気も起きなくなってしまうのは人間である以上いたしかたないことです。(あくまで一般論ですよ、あくまで)