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(回答先: パスツールはベシャンの研究を盗んだ 投稿者 HAARP 日時 2004 年 3 月 11 日 04:30:04)
HAARPさん、大変貴重な情報を提供して頂き、有難うございます。
レイモンド・ライフの話を拝見していて、日本でも、医学者・医師に対する似たような抑圧がかつて起き、今も継続していることを思い出しました。
それは、未だ認可されていないものの、”有償治験薬”として実質的には幅広くガン治療に使われている、丸山ワクチンに対する厚生省の扱いです。
[参照: 丸山ワクチンとは http://vaccine.nms.ac.jp/general/index01.html]
[週刊新潮 2001年1月4日号【置き去り20世紀の奇談:祝 康成】より]
http://web.archive.org/web/20020814123003/www01.u-page.so-net.ne.jp/fa2/azumajoe/maru1.html
「間違いなく効くね。ただどうして効くのかと、言われてもみんな生きている。がんは残っているが元気だ、としか言えないんだ」
東大法学部名誉教授の篠原一(75)が、膀胱ガンを宣告されたのは、昭和48年、48才の時だった。切除手術を受け、放射線治療の苦しみとガン再発の恐怖の中ですがったのが丸山ワクチンである。以来、25年間、ワクチンを打ち続けており、再発がないまま今日に至っている。篠原は、丸山ワクチン患者家族の会代表でもある。
「ぼくの先輩は10年間、打ち続けて、もう治ったろう。と止めた途端、再発して亡くなった。主治医には内緒でワクチンを使っていて、解剖したその医者が不思議がっていた。身体中、いたるところに古いガンがあり、どうしてこの人は10年も生きていられたんだろう。と首を捻っている。ワクチンを止めてから、ガンが一気に復活したんだな」
丸山ワクチンは、平成4年、90歳で亡くなった丸山千里、日本医科大学名誉教授が作り出したガン治療薬、戦時中、皮膚結核の治療用ワクチンを開発した丸山が戦後、結核患者にはガンが少ない、ことに気付き、丸山ワクチンの研究開発に乗り出したエピソードはあまりにも有名である。
昭和39年に投与が始まって以来、これまで丸山ワクチンを使用した患者は35万人にのぼり、現在も年6000人近い新規患者が、投与を始めている。
東京千駄木にある日本医科大学ワクチン療法研究施設を訪ねると、それこそ頬をつねりたくなる「奇跡の体験談」がごろごろ転がっている。たとえば、横浜在中の男性(70)の話はこんな具合。
「女房が使い始めて26年になります。末期の結腸ガンで、医者に余命三ヶ月と言われてね。腹がパンパンに膨らんで手術で切り取った腹の内部はわずかしか空いていなかった。さずがにこれはダメだと思いましたよ。しかし、丸山ワクチンを打ち始めたら、みるみる健康になって、いまじゃ風邪もひかない。丸山先生は命の恩人ですよ。」
篠原はこんな話を披露する。「最近、末期で丸山ワクチンだけで治癒した有名人というと、平成10年に亡くなった安東民衛(戦後革新勢力の指導者、享年70)だね、最初は食道ガンでね、当初は完全にとったから、大丈夫ということだったけど、暫くしたら肺に転移していることがわかった。それで抗ガン剤を打つとなったら、安東は、絶対イヤだ、丸山ワクチン一本でいく、と。すると医者は、まあ、この体では来年の桜は見られませんな、と言ったらしい。安東は結局2回、桜を見ましたよ。”ざまあみろ、おれは桜を見ているよ”と笑っていた」
最後まで痛みはなく、散歩に出かけたり、篠原とビールを飲んだりしていたという。
「抗ガン剤を打つと、毛は抜けるし、寝たままでしょう。健康な細胞まで殺して命を縮めてしまう。しかし、丸山ワクチンは副作用もなく、精一杯生きられる。安東は、本当に感謝して死んだからね」
ところが周知の通り、この丸山ワクチンは、まだ厚生省の認可が下りず使用の際は、煩雑な手続きを強いられることになる。まず投与を希望する患者とその家族は担当主治医に「承諾書」を書いてもらったうえで日本医科大を訪ね、レクチャーを受けて丸山ワクチンを購入(40日分9000円)主治医の元へ持ち帰り、ここでやっと注射してもらうことが可能になる。昭和56年12月より、2回目以降の丸山ワクチンの郵送が認められたが、それまでは丸山ワクチンの購入のつど、直接日本医科大に出向いて長蛇の列に並ばねばならないという、不認可薬ゆえの苦労を強いられていた。それでもワラにもすがる思いの患者は、日本全国はもちろんのこと、海外からも日本医科大へと集まった。
丸山ワクチンは有償治療薬という摩訶不思議な名称のもと、例外的に投与を認められた、世界で最も有名なガン治療薬なのである。
では、丸山ワクチンは何故、認可されなかったのか?その背景を探ってゆくと、医学界の想像を絶する権威主義と、薬品メーカーを巻き込んだ利権争いの構図が見えてくる。
--------------------------------------------------------------------------------■ <医学界のドンの反発>
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22年前、皮膚ガンを宣告され、自らも丸山ワクチンを投与し続けている医事評論家の生天目(なばため)昭一(73)はこう語る。
「医学界の主流派は東大です。その東大の植民地でしかない私大の日本医科大の、しかもマイナーな皮膚科の無名の医者丸山千里が、自分の名前を冠したワクチンなんてとんでもない、という意識でしかなかったんですね」
昭和51年、丸山は製造認可を申請するが、56年、厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会は「有効性を確認できない」と不認可に、ただし厚生省は「引き続き研究する必要がある」とし、治療薬として全額自己負担なら購入可とする、玉虫色の判断を下す。ここから丸山ワクチンの先の見えない迷走が始まった。
「中央薬事審議会なんて、年4回会合を開くだけだから、膨大な書類にハンコを押すだけの機関なんですよ。昭和36年の薬事法施行により発足して以来、すべての申請に「可」のハンコを押してきた。実質上の認可は厚生省がやるわけで、厚生省の窓口が受理した申請は全て承認されていたのです。ところが中央薬事審議会は、わざわざ丸山ワクチンのために「否」のハンコを作ったと言われています」
この露骨な丸山ワクチン潰しの陰には、ある男の意向があった、と囁かれている。医学界のドンと呼ばれた山村雄一・元大阪大学総長(平成2年没、享年71)である。当時、取材にあたった新聞記者が明かす。「山村先生は免疫学の第一人者で、牛型結核菌のワクチンでガン治療をやっていた。ところが、牛型結核菌というのは副作用を取り除く技術がなかなか確立できない。それで丸山先生に、人型結核菌から副作用を取り除いた技術をそうやって開発したのか、教えろ、とかなり高圧的に迫った」
昭和51年、丸山が製造認可を申請する数カ月前のことだった。当時の丸山の反応を長男の丸山茂雄(59、ソニーミュージックエンターテインメント副社長)はこう記憶している。「親父は断ったんです。そのときは。そんなばかなことができるわけないじゃないか。というような反応でした。」長野県生まれの丸山は、幼い頃から病弱で、とても30歳までは生きられない。と言われたほど。
大正11年、のち日本医科大学となる日本医学専門学校の予科に入学し、卒業後は大学に残って研究ひとすじの生活で、権威とはまったく無縁の人生だったという。
「普通は医学部の教授と言ったら、一週間に一度、助教授とか引き連れて大名行列みたいに病院を回るでしょう。ところが親父は患者さんの元へ毎日、一人でい行くわけですよ。土曜日曜はもちろん、元旦まで行っていた。だから、患者さんは感激して退院後、自宅までお礼に来られる。親父は現金は絶対に受け取らないから、自分の家でとれた米とか野菜を持ってね。御中元とか御歳暮の時期は、生鮮食料品が山のようになっていました。」
この温厚で生真面目な丸山が、唯一、激情を発露させた時期がある。昭和25年、日本医大と早稲田大学の合併問題が持ち上がった時だ。日頃は無口な丸山が、学生を前に、
「日本医大がこのまま医科大学であるなら、いつまでたっても東大の支配から抜けだせないだろう」と、演説までブッっている。周囲も驚いたこの変貌の裏には、妻の父親が早稲田に野球部を創設した安部で、岳父の影響を強く受けた丸山が強烈な早稲田ファン、という事情もあったらしい。しかし、合併は敢え無くとん挫し、推進派の急先鋒だった丸山は当時の大学に睨まれ、以後、冷遇されることになる。給料もボーナスも大幅にカットされ、長女が通う都立大学の月謝も滞るという困窮生活も経験している。
一方、山村雄一は、丸山とは対極の人生を歩んだ。昭和16年に大阪大学医学部を卒業すると海軍の軍医となり、激戦地となったガダルカナルにまで赴いている。戦後、九州大学医学部教授を経て、母校大阪大学に戻るや、トントン拍子に出世し、昭和42年に医学部長、54年には大学総長の地位まで昇り詰めた。総長時代は、「アメリカのスタンフォード大学のように広大な医学部にせなあかん」と北千里に広大な土地を購入し、医学部、工学部などを一挙に移転させるというビッグプロジェクトを成し遂げている。学外では、日本免疫学会会長、日本癌学会会長等を歴任し、昭和61年に学士院賞を受賞、63年には文化功労者にも選ばれ、まさに栄光と名声に彩られた学者人生だった。
この挫折知らずのエリート学者に唯一、屈辱を味わわせた人物が、『東大の植民地』日本医大の無名の医者、丸山だったわけだ。当時、取材に赴いたジャーナリストは、山村が、さも憎々しげに「皮膚科出身の丸山が、人類を危機に陥れるガンという病気に果敢に挑まれているようだが、けしからん」と言い放つのを耳にしている。
また、山村と親交のあった医学者はこう証言する。「山村先生は尊大でしたね。威張っていた。山村先生は丸山ワクチンには反対でした。それは間違いない。実際にそういう
内容の手紙をもらいましたよ。なぜ反対だったかは知りませんが、もし丸山先生に先を越されたことへの嫉妬だとしたら下らん奴ですね」
--------------------------------------------------------------------------------■ <凄まじいアラ探し>
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もっとも、丸山ワクチンにも弱点はあった。科学的データの不足である。
当時の中央薬事審議会のメンバー、古江尚、帝京大学名誉教授(74)は、丸山ワクチン反対派の頭と言われた人物だが、「なにも闇雲に反対していたわけではない」と言う。「わたしは悪者にされていましたけれど、データ不足を解決できれば認可しよう、という立場でした。薬事審議会でわたしが問題にしたのは、製剤以前の問題。つまり、常に同じものが使われなければならないし、検証しなければならない。その方法がまだ未解決であったこと」そして、もうひとつが、丸山ワクチンの独特の投与の仕方、濃いA液と薄いB液を交互に打つ、という投与方法だった。「ABABという投与の仕方が全然検証を経ていないし、データも無い。ただ単に丸山先生が経験上、これが一番良い、と言うだけだった。なぜ、ABABなのか、という科学的証拠がなかった」
もっとも、大規模な臨床試験を行った学者はいた。後藤、東北大学名誉教授(75)である。確実な効果が出ていたにも関わらず、審議会はことごとく無視したという。後藤が、怒りもあらわにこう言う。「初めから、これは潰そうという話しですからね。このデータは嘘ではないか。とまで言っているんだな。先生が臨床した膀胱がんの患者は慢性**の誤診でしょう、と。こんなふざけた話はないから、調査会に異議申し入れ書を送りましたよ」
審議会内部の反応について、古江がこんなショッキングな証言をする。
「後藤先生のデータは立派なものでした。わたしは、この審議会の委員の中でもこんないい臨床を出来る者はいないだろう。この結果をもっと真剣に考えるべきだ。本当に無効と言っていいのか、と迫ったんですが、無駄だった。相手が無茶を言うんですよ。重箱の隅をつつくようなことをね。たとえば動物実験で、マウスに関する実験はあるが、ウサギについてはない。、とか。そんな身も蓋もないことを言うなよ、と嘆きたくなるくらい、醜いアラ探しだった。結局、事前に厚生省との間で拒否ということが決まっていたんですね。われわれ委員会は、いい面の皮ですよ。ああ、俺は飾りなんだな。と痛感しました。だって、何を言っても通用しないんだから」
臨床実験のデータを無視された後藤が言う。
「なぜ、そこまでして丸山ワクチンを潰さなくてはならなかったか。と言えば、がん学者はみんな他の製薬会社はそれぞれコネがあるんですよ。やっぱり丸山先生はがん学者じゃないわけです。学者というのは、専門以外の人間を認めたくないんだね。たかが皮膚科の医者が、というような偏見を持っていたんですよ。
--------------------------------------------------------------------------------■ 巧妙に仕組まれた罠
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ここに医学界主流派の丸山ワクチンへの「本音」を物語る興味深い話がある。匿名を条件に話してくれたのは、丸山と親しかった新聞記者だ。
「丸山ワクチンの患者の一覧表があるんです。日本医大の名誉教授のロッカーにカギをかけてしまってあるんですが、分厚いやつでね。丸山先生は、自分が死んだら、その一覧表をぼくにくれる、と言っていたんだけど、まだ生きておられる時にちらっと見たことがある。ずいぶん有名人もいたんですよ。政治家とか芸能人とかね。その中で一番多いのは東大の医者たちですよ。猛反対していた学会主流派の東大です。あれだけ反対していたのに、最後は丸山ワクチンに頼ったんですね。丸山先生が東大でワクチンを開発してたら、間違いなく認可されていただろう。という話は何度も聞いたね。」
もし、認可されていたら、製薬メーカーには莫大なカネが転がり込むことになる。一般的に抗癌剤は「がんには効かないが、株には抜群に効く」と揶揄されるほどで、それが注目を集めている丸山ワクチンなら、歴史的なヒット商品となったのは間違いない。
昭和50年から51年にかけて、認可された2つの抗癌剤のケースを見ると、それがどんなにボロい商売かが分かる。「中外製薬」が開発販売した注射薬の「ピシバニール」と「呉羽化学工業」が開発し「三共」が販売した粉末薬の「クレスチン」である。
「抗癌剤は大別すると2種類あり、直接がん細胞を叩く、化学療法剤と、人間の体内にある免疫力を強化する免疫療法剤に分けられる。この免疫療法剤の第1号が50年に認可されたピシバニールで、第2号が51年認可のクレスチン、そして、第3号になるはずだった免疫療法剤が丸山ワクチンです」(医事評論家)
ともかく、ピシバニールとクレスチンの売れ方や凄まじく、発売10数年間で1兆円を上回る売り上げを記録、なかでもサルノコシカケの培養菌糸から抽出したクレスチンに至っては副作用が皆無で、しかも内服薬という利便性もあり、57年には年間売り上げが500億円と、全医薬品中の第1位に躍り出た。しかも、トップの座を62年まで6年間も譲らず、日本の医薬品史上、最大のヒット商品となっている。
ところが、平成元年12月、厚生省はこの2つの抗癌剤について、「効能限定」の答申を出した。つまり、単独使用による効果が認められないので、化学療法剤との併用に限定するというもの、要するに「効果なし」というわけだ。
がんに効くと、もてはやしておきながら、一転、効果なし、ではガン患者も家族も死んでも死にきれない。患者の命を無視した国と製薬業界のあり方に、国公立、大手民間など約2330病院が加盟する最有力の病院団体「日本病院会」は激しく抗議。「これまで両剤に投じられた1兆円にのぼる医療費は無駄使いだったことになり、死亡したガン患者や家族、さらに健康保険財政に大きな損害を与えた」と厚生省と日本製薬団体連合会を非難している。
1兆円もの医療費を、詐欺同然に巻き上げてしまった。その無茶苦茶なやり方には呆れるほかないが、一連の騒動を細かく検証してゆくと、丸山を嫌い、認可を阻止し続けた一派の動きがあぶり出されてくる。
ガン患者にとって常に誠実な医者であり続けた丸山千里は、巨大な利権が蠢く医薬品業界という伏魔殿の中では、あまりにも無力すぎた。丸山は、実に巧妙に仕組まれた罠にはまり、犠牲となってゆくのである。