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民主主義の危機の一つは政治権力者の世襲である。政治家のそれは最大のものだ。議員の地位が家業化し、親から子に引き継がれる。この際利権も引き継がれる。権力の蓄積と集中が起きる。権力のネットワークが同一の複数家族間で共有され、政治支配は一群の少数者に専有される。
民主主義を健全に機能させるには議員の地位が世襲されないよう法制度を確立する必要がある。いや、子供で優秀な者がありうるし、その場合、彼が政治家になることを禁じるのは社会的損失ではないかという意見がありうる。しかし、世襲が引き起こす上記のような不利益と、息子の才能が生かされない不利益は、前者の不利益のほうがはるかに大きいと知るべきだ。ブッシュの3世代続く、それこそ王朝化した政治権力の世襲・家業化がいかに深刻な民主主義の危機を生んでいるか認識する必要がある。小泉、福田、安部、みな世襲だが、現在いかに民主主義が危機に陥れられていることか。それにしても為政者側は自分の子息に権力を告がせようと考えるから、国会の場でこのような法案が通過することは考えにくい。
そこにジャーナリズムの任務が出てくるのだ。議会がそれをやらないなら、ジャーナリズムがこうした事態が事実上起きないように、徹底して、世襲批判をすべきのだ。具体的にはジャーナリズムは政治家の子息に対し徹底して監視する必要がある。監視自体を強化することで世襲する意気を挫き、その契機を早期から摘み取る必要がある。
田中真紀子は日本で最大の権力を振るった父親の世襲である。これ自体が深刻な問題と考えるべきだ。真紀子の子息が、世襲することは、3代目に入りさらに、忌避されなければならない。ジャーナリズムは、真紀子の世襲事態を批判し続けるべきだが、同時に、彼女の子息の世襲はさらに批判しなければならない。その可能性を事実上徹底してつぶしにかかるべきだ。それができないならうるさいハエになって子息の周りを飛び回ることだ。本人が根をあげるまでうるさく付きまとうべきだ。子息のプライバシーは一般人にくらべ大幅にいや徹底されて制約されていい。
東京高裁は、地裁の、文春の出版事前差し止めの法的効力を否認した。表現の自由の重さから考えて当然である。しかし、東京高裁はなお、田中の長女は一私人に過ぎないからそのプライバシーは一般人と同様に守られる必要がある主張している。これは上記の視点から見て完全に間違いである。司法は、表現の自由が侵されることのみが民主主義を衰弱させるものだという偏頗な見方にとどまっている。世襲というものも、民主主義の根幹を衰弱させることについての認識をまったくもって欠いているのである。すなわち、この高裁判決にしても、日本国憲法の銘記する民主主義を守るには表現の自由と世襲の制限という2つの観点から総合的に法判断をするべきなのである。これにより、田中家の子息(角栄の孫で真紀子の娘であるこの長女に対するジャーナリズムの監視、彼女のプライバシーの一般人以上の制限は憲法的正当性があることを断ずるべきなのである。裁判官はなまなましい政治ダイナミクスについての広範なパースペクティブ・洞察を持っていないという深刻な問題を孕んでいる。憲法の杓子定規な文面解釈の幣に陥っている。
上記の観点から見て問題は裁判所にあるだけではない。朝日・読売などさらに恥ずべき問題、耐え難い問題を内包している。東京地裁の事前差し止め判決に賛成した読売などはもはやジャーナリズムの体をなしていない。権力の広報機関に過ぎず、議論の対象にすらならない、文字通り論外である。問題は朝日だ。高裁の取り決判決を支持したのは当然として、この長女は、一私人に過ぎない、だから、プライバシーは一般人と同じように保護されなければならない、と断じているが、これはジャーナリズムとしては、恐ろしく愚鈍でセンスが悪いとしかいえないのである。朝日は本来まず真紀子が角栄を世襲したことを徹底して、呪詛のように批判を続けなければならない。ましていわんや、真紀子の子息からその踏襲者が出てくる可能性、その醜悪さに、社会の木鐸として、厳しい警鐘をならさなければならない。強情に監視しなければならない。これが権力を監視するという仕事の範疇なのである。そうであるにもかかわらず、今回、この長女は一私人に過ぎないという、裁判所と合唱しており、つまり国家権力の側から物事を見て判断している。朝日は自らが国家になってしまったことをもはや気づかない腐臭ただよう愚鈍さに陥っているのである。この程度の朝日を論破するレトリックを形成できない文春側も見識を欠いている。それはこの会社が歴史的に実は最も市民的自由・人権をあざ笑う反動的出版行為を行ってきているからなのである。今回の事態、つまり出版差し止めを食らって背に腹は代えられず、思い出したかのように、表現の自由などという市民的自由(civic liberty)の中核的人権を振りかざしてきたのである。ご都合主義も甚だしいのである。文春は、戦前の人権蹂躙の政治体制を賛美し、戦後は一貫して自民党与党体制を支持してきており、人権保護を主張する「いわゆる左翼」を徹底して嘲笑・攻撃してきたのである。文春が擁する石原慎太郎などその象徴である。文春の論理は破綻している。論理の自殺をしている。今回、表現の自由という人権の至宝を声高に主張するなら、戦後一貫して人権保全制度を唾棄・嘲笑してきた出版行為を広く一般に陳謝すべきが先なのである。これを抜きに、今回表現の自由を主張するなら,これは完全なご都合主義といわれてしかるべきである。へそが茶を沸かす、片腹痛い、としかいいようがない。
文芸春秋社にもう一度いう。君たちは、表現の自由という高尚な人権を声高に主張したいなら、これまで人権をあざ笑って攻撃してきた言論態度を誤れ。その上、二度と憲法の人権保護規定を嘲笑することはやめよ。それをする知識人(石原をはじめとする)を執筆人から排除せよ。少なくとも重用するな。憲法改正と称して、人権保護規定を狭めんとする自民党と同調するな。これは新潮社にもいえる。創価学会に徹底攻撃され、後退が続く新潮社も徹底して人権保護規定を嘲笑してきた。憲法改正に同調してきた。今となっては政教分離規定を盾に創価を批判するレトリックが取れなくなってしまい、攻撃力を失い矛盾から自滅に向かっている(週刊新潮も売り上げ低下している)。スキャンダルでしか、創価学会を批判できない低次元の闘いのため負けが込んでいるのである。天(日本国憲法構想)に唾した罰である。
ただ、こうはいっても、それでもなお、文藝秋社が今回の事前差し止めに対し言論の自由というレトリックで司法という国家権力に吼えたことは、支持すべきである。巨大な有力政治家の子息は公人である、という主張を明示したことはきわめて支持に値する。これを支持できない朝日こそが、恥を知るべきである。文藝春秋社は文学出版社であるが、朝日はジャーナリズムの王道である。ジャーナリズムの主流が、政治ダイナミクスの知見をもたない司法権力とデュエットするなど、天と地がひっくり返ってもしてはならないことなのである。
最後にいう。政治家・官僚の世襲は、表現の自由を失うことと同様に、民主主義を弱体することなのである。世襲を徹底して継続批判することが、政治権力批判を任務とするジャーナリズムの死命を分かつほど重要な仕事なのである。田中真紀子の長女に、一般人が有するのと同じ程度にプライバシーの保護が認められるべきではないのである。この長女がどうしても一般人と同様のプライバシーの自由を享受したいなら、母親に、政界を引退するように要請することが先なのである。それをしないなら、マスメディアから徹底監視され、私生活を覗き見されることを甘受すべきである。メディアを訴えるのはそもそも筋違いであり、母親を呪うこと、諭すことが先である。