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(回答先: 「週刊文春」出版差止問題 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 01 日 20:46:22)
あっしらさん、ありがとうございます。
あっしらさん
『東京高裁の決定については、東京地裁の「公共の利害」や「公益性」といった抽象的で曖昧な基準を踏襲したこと、個人属性(プライバシー)情報をことさら広く知られることを忌避する権利を軽んじたことで疑念をもっています。個人情報をめぐる「表現の自由」は、「公共の利害」や「公益性」という曖昧な目的性ではなく、「どういう立場の人」・「どういう活動をしている人」という対象の具体的な基準で峻別すべきだと思っています。
(「どういう立場の人」・「どういう活動をしている人」であるかで、「表現の自由」と「個人の尊重」をめぐる利害対立の調整の仕方が違うべきだと思っています) 』
わたし
公共の利害に関する情報かいなかはどういう立場のどういう人に関する情報なのかという尺度も合わせて詳細に判断することが望ましいと思います。
あっしらさん
『東京高裁の「離婚は、当事者にとって喧伝(けんでん)されることを好まない場合が多いとしても、それ自体は人格に対する評価に常につながるものではないし、日常生活上、人はどうということもなく耳にし、目にする情報の一つにすぎない」という判断は、「個人の尊重」を軽視した物言いだと思っています。
ひとがどういう評価をするかに関わらず、自分の属性情報を広く知らされたくないので、そのような行為(出版)を忌避する権利は認められるべきだと思っています。 』
わたし
これは一般人に比較して例外的な立場にあるひとつまり準公人・公人の場合は、特にですが原告側の主観でその属性情報の範囲を決めるということは非常に問題があるといえます。そうでなければ、公人がどんな些細なことを理由にしても出版差し止めや、刑事告訴・民事での損害賠償請求をしてくる可能性があるからです。範囲は可及的に客観的に決められるべきと考えます。一般人についてもやはり基本的には時代的な認識で客観的に決めていかざるを得ないと思いますが、事実上は原告がプライバシーと考える範囲と、時代的判断が決めるその客観的範囲にズレがでる場合は事実上多くはないのではないでしょうか。一般論・抽象論でこれを論じるのはむずかしいのですが。
基本的に判例は公職についている人を公共の利害にかかわる人というように非常に狭く公共性をとっています。しかし、アメリカで大統領の上から隠然たる政治力を振るう超超超超金持ちなどは、公人ととらえ、こうした人々は大衆やメディアの監視に徹底して晒されるべきだと思います。その家族のすべてのメンバーの一挙手一投足まで監視対象にされるべきであると思います。大統領は一切プライバシーがないと考えるべきですが大統領より事実上権力をもつ人々は、さらに徹底しプライバシーを制限されていいと思います。こうした私人を気取る連中が、私人を理由にしかも、彼らの主観で、プライバシーの範囲が決められるとすれば、絶対的専制機構をゆるすこととおなじことなのです。現米国政権は、共和党ニクソン時代の、政権密行性より格段に悪化していることが、ニクソンの側近だった人から批判されています。米国が監視社会に傾斜し、専制体制が着々と進んでいる背後に、このように、公共の権力にかかわる人々の徹底した秘密保守という事態が進んでいるのです。あっしらさんのしめされた判断基準は彼らが大喜びをしてくれると思います。
公人の家族(事実上の公人=権力者含む)というのはその公人と一体化しているという基本的認識が必要です。本人の意を体してほかの無名家族構成員が名代として、外部と連絡を取り、それを実現することは容易だからです。田中真紀子は選挙の勝敗情勢を劇的に転換させる力をもっています。陣笠議員ではありません。真紀子の家族が、私人の立場を生かして人的ネットワークを作リ、選挙情勢に影響を与えることを目指すオペレーションをすることは非常に容易です。ですから娘であっても特に彼女は日本経済新聞に属していましたから、彼女の一挙足一投足が準監視体制に入っていてもよいと思います。文春は彼女が真紀子を継いで公選に打って出る可能性があるから公人だと主張していますが、これが実は論理として弱くなっているのです。裁判所が、いや選挙に打って出る意思を本人が表明していないとして容易に一蹴されてしまうことは目に見えているからです。この論理が弱いのは、公人の範囲を『公職にあるもの』という立場を裁判所と共有しているからなのです。上で示唆したとおり、公人を、事実上公人と同様な影響力または影響の潜勢力を持っている人と拡張的に解釈する態度が決定的に肝心です。ジャーナリズム側の論法として、公人の範囲を、公職という範囲から解き放ち、政治的・社会的影響力をふるえる潜勢力を持っているかどうかの水準に持っていく、その意味で次元をジャンプさせる論陣が必要です。
現代の先鋭的資本主義社会では選挙などで公職に就くもののさらに上位の権力を振るう位置の人間(特に超富裕層)がでているという観点が必要です。彼らがアメリカでなんと言っているかご存知ですか?自分たちは一市民にすぎないと、嘯(うそぶ)いているのですよ。まんがですよ、まんが。人を笑わせて悠然・平然としています。ですから、彼らが実際誰と会いどんな話をしているのか、どのように大統領選挙などに影響を与えているのか、まったく、まったく、まったく、わからないのです。それでいて、一般国民は大統領が一番権力がある、と信じ込まされているわけです。劇場型幻想性民主主義を見せられているわけです。このブッシュ劇場では彼も役者やのう、大根だけど(笑)。真の権力者家族はどこに住んでいるのかどんな顔をしているのか、テレビにも新聞にもまったく扱われないのですよ。
公人と準公人・および事実上の権力者とその家族たちは、徹底してパパラッチの餌食にするべきです。公職に就かない名代をもつ家族が何代も権力を蓄積しており(世襲問題の在所)、そうした異なる有力家族の提携・互助的ネットワークができ、これらが政治的に指導的影響力を率いています。彼らは、それでも自分たちは私人である、一市民であるから、プライバシーが保護されるべきであると主張するわけです。彼らの陽動作戦(真の影響力の動きが狭義の意味での公人以外の領域で機能していることが隠される)にまんまとひっかかるわけです。プライバシーの論理を持ち出しているのが権力者側なのか、影響力をまったくもたない庶民なのか、厳然と区分けする必要があります。今回の真紀子の長女のケースは、真紀子が采配している可能性が非常に高いケースです。文春と田中家の熾烈な戦いは角栄時代からバトルが続いており今回は遺恨試合、意趣返しの性質が非常に推測されるケースです。真紀子と娘は一体化していることに核心があります。被選挙公人のもつ潜勢力が新潮に測定されるべき典型例です。真紀子の長女による、司法へのはたらきかけではなく、田中直毅含め真紀子・田中家そのものの司法へのはたらきかけであり圧力です。地裁が出版差し止めのための担保のカネの支払い命令を受けていないところに、一私人を主張する長女の矛盾した、特権的待遇がでています。純粋民間人なら絶対ありえない違法事態が起きています。これが有力政治家などの潜勢力の典型的表れともいえます。
もちろん、潜勢力を客観的に測定するのは困難がありうる場合はありえます。ただ、真紀子家の場合や米英の超富裕者の場合迷いはすくないでしょう。