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基調報告(前回掲載)へのコメントへのリプライ(MIYADAI.com)
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/490.html
投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 2 月 03 日 17:02:07:Sn9PPGX/.xYlo
 

(回答先: ↑大変長いので,ここだけでも読んで!【収益価値よりも共生価値を優越させる=合理性に還元できない「魂」を否定しない】 投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 1 月 31 日 18:28:50)

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◆ 基調報告(前回掲載)へのコメントへのリプライ

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=68
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 仲正昌樹さん、安藤礼二さん、コメントいただきありがとうございます。実は、まるで同感です(笑)。姜尚中さんとのトークイベントの際も申し上げたんですが、多くの方は、過去の思想家、思想書を取り出してきて、何が欠けているかを論じます。私はそうじゃなくて、何があったかをいつも論じたい。凡庸な人間でも、後知恵であれば、何でも言えるんですよ。何でも言えることの大半は受け売り(笑)。北一輝には限界があるに決まってる。私がベタに北一輝を誉める訳もありません。
  まず、仲正さんのおっしゃった問題から簡単に申し上げると、相手から自分がどう見えているのかを感得することを「役割取得」、社会学では「視界の相互性」の確保とも言うんですが、この「視界の相互性」を前提して行動出来る場合もあれば、「視界の相互性」のなさゆえに、敵対するしかないという場合もあります。
 私自身は、東北アジアにおける「視界の相互性」は、本来あるべきはずのものが、特に我々の側の理由によって失われたのだと考えます。廣松渉さんが晩年に亜細亜主義を持ち出され、東亜新体制論を展開された背景には、幾つものポイントがあったにせよ、少なくとも一つには、我々の側の忘却癖ゆえに「視界の相互性」が失われていくことへの危惧があっただろうと推測します。

 二〇〇六年の憲法制定60周年に向けて「改憲派」がいろいろ活動されることでしょう。他方、二〇〇五年の大日本帝国敗戦60周年に向けて、韓国、台湾、中国、東南アジアなどを加えて「視界の相互性」が成立しやすい環境となるでしょう。とりわけ北朝鮮危機問題──北朝鮮のハードランディングを食い止めんとする国々の共同利害──が浮上していることも(日本だけは大ボケですが)「追い風」になろう。
 私が「盟主なき亜細亜主義」の言葉を持ち出すまでもなく、また元新左翼が「共同の家」という言葉を持ち出すまでもなく、忘却の壁によって阻まれようとしていた「視界の相互性」の回復がなされる千載一遇のチャンスが訪れるので、と思っております。そのことを睨んだ国際イベントの開催なども文部科学省の役人などにも働きかけております。韓国政府の方が積極的なので、来月も韓国に行って準備をしてこようと思います。
 そういう実践をしようと思いますが、それもこれも、目下「視界の相互性」が東北アジアに存在するとは思っていないからであります。むしろ「視界の相互性」の欠如、あるいは欠如をもたらした敵対を反省するべきではないかという機運が、一部のオッチョコチョイを含め、中国や韓国から出てきていることを、「追い風」に使おうと。
 忘却には良い面もある。世代交代で憎しみが忘却されれば、「サブカル大国日本」が何かをなしうるのではないかとの「勘違い」が生じてくる(笑)。こっちは勘違いだと承知しつつも、「そうそう」とか言って「渡に舟」と前提をつくり上げるわけです。勘違いのエネルギーを利用しないのは損ですからね。
 北朝鮮問題については仲正さんと認識が異なるかもしれません。私自身は何をどうしたら北朝鮮がどうなるかっていうことは、ほぼ読めると思っています。その読みをずっと喋ってきて、大体その通りになってきていることは、皆さんもご存じの通り。だから、むしろ北朝鮮を読めないってことは、共通の前提がないということよりも、論理的で且つ戦略的な思考が出来ないタコ外務官僚やタコ政治家のオツムに問題があるのではないか。従ってオツムを入れ替える方がいいかと思っております(笑)。
 さきほど申し上げた、亜細亜主義の第二義=護持の義に関わる、ヘリティジ(相続財産)の共約不可能性のように、論理的な思考ではカバーできない部分と、あくまで論理的思考の内部でカバーできる部分とがある。北朝鮮の問題は、共約不可能性うんぬんといった高級なレベルには達しておらないと思います。
 アジア諸国の勘違い、まさに然り。しかし勘違いは、単に間違っているというに留まらず、その背後には何とはなしに皆さんの情念があったりする。フロイトではありませんが。そうした勘違いの前提は、利用できるなら利用しようと。勘違いは「ちょっと勘違いなんだけど、いや、言いたいことは分かりますよ」という具合で物事を進める。それが良い。
 ナチ概念との類似問題は私も関心がある。大変に気になる。ロマン主義とは元来「不可能性の志向」なり。端的には、遅れてきた啓蒙後進国が、啓蒙の不可能性ゆえに、啓蒙以前的なものに訴えかけるという常套手段です。その名を冠せられるか否かにかかわらず、どんな時代のどんな国でも、古くから反復され続けてきている図式。
 ある意味、魯迅『阿Q正伝』の「精神的勝利法」ですな。「俺達はバカなんじゃなくて、もともと凄いものがあるから(ありえねえけど)頭使わなくていいだけ」みたいなロジック(笑)。正確に言えば、ロジックというより「情の論理」ですね。カッコの中の「ありえねえけど」が大切なんだな。
 本当を言うと、私も「不可能性の志向」によって絶えず勇気づけられる人間です。ただロマン主義はいつでも、オリジネーター(創案者)は「精神的勝利法」に過ぎない、文字通り「不可能性の志向」に過ぎないことを自覚しているのに、サクセサー(継承者)はネタをベタと読み違えて、「オレたちには凄いものがある」と思い込む。そういう馬鹿が量産されてしまうわけですよ。
 でも翻ってみれば人間はそういうもの。そういうものだということを知らないからアタフタする。「ネタをベタと読み間違える」自称右翼もオボコいが、何かというと「コノ右翼め!」とか目くじら立てる自称左翼もオボコい。どちらもオボコくて免疫がない。我々はちょっと賢くなるだけでいいのではないかな。「人間はそういうものだ」っていう免疫をつけるだけでいい。
 ロマン主義は「不可能性の志向」。可能だからではなく不可能だからこそ志向する。なのにロマンチシズムを本当に実現可能な夢だと思え違えたり、本当に獲得しうる理想だという風に思い違えたりする。それが繰り返し起こる。亜細亜主義の第二義=護持の義にも関わるが、「可能じゃないと元気が出ない」というのは唐変木。「正しいことが保証されないと勇気が出ない」というのは馬鹿。日本浪漫派じゃないが、ロマンチシズムを護持するために必要な最低限の素養だ。だったら次世代に伝授しましょう。
 安藤さんのコメントは全くそのとおり。何も言うことがない。そうだな、あえて北一輝を弁護しましょうか。佐官以上は信頼出来るか出来ないかという大問題が、辛亥革命以降の中国での北一輝の行動でも、二・二六事件での北一輝の行動でも出て来る。2・26前にはそれをめぐって大川周明と分岐したのは皆さんもご存知の通り。しかしね、そりゃ、いつの日本でも、今の日本でも言えるわけです。比喩として言えば、佐官以上はいつも信頼できない。それはどこの国でもいつの時代でも大差ない。
 でも、それを言ってどうなるか。実は私もそれに類することを繰り返し言ってきています。しかし、あくまでネタですよ。それを言っただけで何とかなると思っている人は、多分いないと思う。いたら困りますよ。天皇親政とか考えて総決起するんですか? 馬鹿馬鹿しい。ありえないでしょ。いつの時代も陛下に逆賊扱いされて、終わりですよ。
 「佐官以上は信頼できない」は本当です。既存システムに緊要な利害を結合させているんだから当然の話。誰でも分かる構造的問題。ならば利害の複合体をコントロールして、佐官以上を「操縦」するしかない。「佐官を信頼できなければ操縦する」。国家も同じで「国家を信頼できなければ操縦する」。実はそれがジェノサイドを繰り返し経験してきた中国人やヨーロッパ人の発想だが、これがウチらにはないわけです。
 我々は「相手を信頼できるか信頼できないか」みたいな幼稚園児の二分法で行動しすぎる。「北朝鮮は信頼できないんで、交渉すべきじゃない」って馬鹿じゃないのか(笑)。そんなの当たり前。信頼できるできないの二分法で行動しない。それがCBM、つまりConfidence Building Measuresの本質です。これは単なる利害ネットワークじゃないことにも注意するべきです。
 仲正さんと私とが思想信条も宗教も全く違ったとする。信条の内容からいえば互いに殺し合っても不思議はないとする。でも何度か一緒に飯食ってるうちに、何とはなしにミメーシスを憶え、どうにも仲正さんを殺せなくなる。これ以上裏切ってはいけない気分になる。そういうことが重要なんです。別に肝胆相照らして分かり合うのも必要ない。利害ネットワークで縛りあうのも必要ない。信頼と不信の幼稚園的な二分法は何とかなりませんか。
 皆さん「コミュナルなもの」って言う場合も勘違いしてませんか。思想信条の一致や価値観の一致という以前に、時間や空間の共有という事実性から来るミメーシス(感染・模倣)がある。意見に共鳴できるとか分かり合えるとか一体化できるとかいうことじゃない。意見の一致どころか、相手が何を考えているのか全然分からなくたって、毎日一緒に飯食っているうちに相手を殺せなくなっちゃう。そういうメカニズムがある。
 「視界の相互性」もそうやって獲得されていく。社会学者自身が全然分かっていない。「視界の相互性」は分かり合いでも一致でもない。「相手からこんなふうにオレが見えてるんじゃないかな、それは本当のオレとちょっと違うが、まあいいか」みたいになっていくだけ。自分の発するオーラがどんなものか想像可能になれば、自分がどう出りゃ相手がどう出るか分かる。そうなると戦略的なコミュニケ―ションだってできる。
 それがCBM。これは本当に重要です。先にお話ししたように「勘違い」に基づいて一緒に同じ方向に走っちゃうってことだって、CBMに役立つ。信頼できるかできないかの二分法じゃない。事実性を積み上げて互いに殺せない関係にもっていくっていう発想が、我々には欠けている。幼稚な輩ほど「こいつは敵だぞお!」と一体になりたがる。民俗学的な共同体的作法。これでは肝腎の利益を失ってしまう。
 さて、先ほど仲正さんの「自己卑下的に提題される振舞い」とは逆向きの振舞いだけど、私としては、こういう場での議論はいつもネタとしてお出ししている。いわゆるディベート上のロールプレイ作法です。9.11直後「アメリカの自業自得だ」と即座にラジオやネット放送(まる激トーク・オンデマンドhttp://www.videonews.com/)で申し上げたのもそうです。
 そうすると、そういうこともありうるのかなとシミュレーションする余裕もなく、「人が死んだのに何を言うか」などと青筋立てて激昂する輩が出て来る。それが一年経ち、イラク攻撃が現実化するらしいってなった頃には、メディアは打って一丸「アメリカはひどいじゃないか」という話。すると僕のような人間は、ちょっと違うんだと言いたくなる。
 ネット放送にお呼びしたイラク人(ケン・ジョセフ氏)も証言していたように、イラク国民の大半ににとって当初アメリカは明らかに「解放軍」。これが想像できないということは、イラク国民たちが、正義感ぶっているフランスやドイツや国連に対して、サダムの悪辣な独裁制を牽制する振舞いをして来なかったことへの強烈な不信を持つという当然の事柄が、想像できないということだ。
 アメリカの自業自得だと仮定すると、どういうロジックを構築できるだろう。アメリカが解放軍だと仮定すると、どういうロジックを構築できるだろう。そういう思考ができる日本人が、若干なりともいないのは、まずくないか。こういう会場では、危機迫る状況下ゆえに「本気で言う」場合と、議論を深める平時ゆえに「座を用意するべく言う」場合がある。本日、壇上の論者たちは「座を用意するべく」ロールプレイをしていると私は思う。聴衆の皆さんが「我々が本気でそれを考えている」と思われるとすれば、やはりコミュニケーションの経験が足りない(笑)。
 平時において、いざという場合に備えて要求される振舞いは、言葉を通じた「眼から鱗」経験だ。「本気で話す」者どもが集まって「眼から鱗」が起これば、これに然くはなし。しかし起こらないのなら、「あえす話す」者どもが、無理矢理にでも「眼から鱗」を起こさねばならない。そんなことは理の当然。私が亜細亜主義の問題を、さきに申し上げた経緯で持ち出すようになったのも、半ば本気の提題。半ばあえてする提題。
 あえてする提題を申し上げたのは、戦後憲法の問題があるから。戦後憲法の問題とは、アメリカに対する屈折した意識の問題。この屈折した意識を忘却することは、対米追従うんぬん以前に、そもそも維新以降の近代化が我が国に引き起こした様々なる精神作用を忘れることになる。皆さんに分かりやすく言うと、戦後日本には二つのルサンチマンがあった。一つは「対米追従ルサンチマン」。もう一つは「憲法九条ルサンチマン」。どちらが本質的ですか。これを即答できない時点で既に頭が狂っている。
 いたるところで書いてきたので繰り返したくないが、戦後日本の本義は「対米追従ルサンチマン」。アメリカによる再軍備要求を拒絶するべく戦後憲法を逆手にとって双務的な日米安保条約を結ぼうとした吉田茂の本懐を持ち出すまでもない。また、戦後憲法に反対していた日本共産党がアメリカのケツを舐めて朝鮮戦争のごときものに巻き込まれないように憲法支持へと転換したことを持ち出すまでもない。少なくとも五〇年代までは日米安保的に再解釈された戦後憲法は対米追従せざるためのツールだった。
 「護憲ナショリナズム=反米ナショナリズム」。これぞ戦後の本義。これは吉田茂のグランドデザインを護持することを本義と心得る「保守本流」もまた同じ。この本義本懐が忘却されたきっかけが、「非・保守本流」の岸信介による安保改定です。丸山真男も慨嘆したような議会完全無視の手続きにより、「アメリカの犬」としての馬脚を露呈した岸のせいで、日米安保は、米帝のケツを舐めて私腹を肥やす日帝支配層の方便になり果てた。
 その反作用で、九条を護持しさえすれば日本は平和主義国家などとほざくエセ左翼が出て来る。それに対抗して、九条を改正ないしバイオレイトして自衛隊を国軍化できさえすれば日本は一人前だなどというエセ右翼さえ出て来る始末。それが今日まで続いて来ている「目くそ鼻くそ状況」です。それにしても「病膏肓に入る」とはこのことなり。
 エセ左翼に言います。九条の存在ゆえにこそ集団的自衛権の行使が野放しになってるんだよ(笑)。エセ右翼に言います。自衛隊を外に出しさえすれば一人前って、アメリカのケツ舐めてる間はありえねえよ。国際社会じゃ、国際刑事裁判所問題でのケツ舐め変節も手伝って、日本は国辱的な馬鹿扱いだぜ。知らざるは井の中のカワズのみ。
 会場には左翼の方々が多いので、前者から説明します。皆さん、戦後五十年以上、戦後憲法の下で集団的自衛権を行使し続けているじゃないか。戦時の横須賀米艦船への燃料と物資の補給はどうだ。兵站提供という戦闘行為じゃないか。米艦船出港に際して戦地に赴きとの報告を受けていないというのが政府の答弁。当たり前だ。戦闘行為を事前に通告するはずがあるか。だったら「集団的自衛権不行使」の大義は何だよ。
 アフガン攻撃の際の防衛庁長官発言はどうか。トマホークを発射する米艦船への燃料補給は兵站提供ならざるか。答えていわく、遠隔操縦兵器ゆえに発射段階では敵地着弾は不確かであり──リモコンで戻せるんだとさ(笑)──、戦闘行為に入ったとは言えないと。狂ってるでしょ。
 だから僕は「憲法改正しろ」と言ってる。第一に、憲法改正して集団的自衛権を明示的に認め、かつ国家安保基本法を作って何が集団的自衛権行使に当たるかをマルチラテラルな枠組に委ねる。僕の年来の主張です。でもこの主張が珍しいってんで、国会の参考人として僕にお呼びがかかったわけです。何でこの主張が珍しくなっちゃうのか(笑)。
 平和憲法その意図や良し。しかしその機能はむしろ対米追従の補完物。いわばケツ舐め支援装置。そんなことは幼稚園児だって分かる。土井たか子的な「思考停止的な護憲左翼」はどうにかならないか。冷戦体制は終わったんです。冷戦体制ゆえに、アメリカの自国益追求行動に過ぎないものが「日本を守ってくれる」に振舞いに見えてしまう時代が終わった。なのに、いまだに核の傘を前提にした国対政治と議運政治かい。ふざけるなってえの。
 エセ右翼に言いましょう。三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で何を言ったのか忘れたか。確かに三島は「自衛隊の国軍化が大切だ」と言った。その意味は「アメリカ軍であることをやめろ」だぞ。そう明言してるじゃないか。要はケツ舐めをやめろってことだ。三島が生きていたら自衛隊派遣を支持したか。ありえない。「アメリカじゃなく国連に従え」っていうのは、三島が既に言っていたことですよ。
 日本は米国を支援して軍隊を出す三八カ国目だから誇らしいと小泉は言った。ふざけんな。こりゃあまさしく国辱だよ。他の三七カ国はODAでアメリカのケツ舐めるしかない弱小国。日本はそれと同じだっていうのか。日本が世界からどんなアホに見えてると思っているのか。丸山真男の述べたごとく、どうも井の中のカワズには他者の視線が取れないらしい。裸の王様の比喩でもいいんですが、いずれにせよレベルが低すぎる。
 平沢勝栄衆議院議員にお会いした際に尋ねた。馬鹿の一つ覚え的強硬策によって、六カ国協議では、ミサイル輸出問題・核開発問題はおろか、拉致被害者家族帰国問題についてすら何の交渉力も持てなくなった。この現状をいったいどう思っておられるかと。そしたら「最後の最後はアメリカが日本の顏を立てて、拉致問題も何とかしろと北朝鮮に言ってくれるハズ」と答えた。猫も杓子も「最後の最後はアメリカが日本を守ってくれるハズ」。そうなのか。我師・小室直樹博士いわく「冷戦体制が終われば恒には真ならず」。
 戦後憲法問題についての不見識とは今言ってきたこと。そういう不見識のよってきたる所以を考えるための「亜細亜主義」の提題であり、不見識を矯めて直す方向性を考えるための「亜細亜主義」の提題です。まさしく忘却の淵に沈みつつある我々にとっての「目から鱗」をもたらすための提題。亜細亜主義がベタに良いとは思わない。まして北一輝は言わずもがな。亜細亜主義者の思想と本懐を反省するところから得られるものが多いということ。『〈近代の超克〉論』で我師・廣松渉先生が仰っていたのもそういうことです。
 確かに亜細亜主義者はしくじった。然からば彼らは出鱈目しか言わなかったか。ありえない。実りある思考を展開していた。それを学ぶ。むろん、しくじった以上は明らかな失敗もある。ならば失敗から学ぶ。しくじった奴からは学ばないだと。ありえない。後知恵野郎は何とでも言える。後知恵からする批判しゃなく、そう言うお前が当時生きていたら、当時の乏しい精神的・物理的リソースの下で何が言えたんだってことです。
 廣松先生の『〈近代の超克〉論』は注意を促しています。当時がどういう時局で、どういう時務の論理で行動したか。客観と主観の間のズレを当時のリソースを使って逓減できたんではないか。あるいは、亜細亜主義の本義を述べ立てて投獄されて殺されるのならば、ここは一つ時流に乗ったがごとき振舞いをし、時代のステージが変わった暁に然るべき振舞いをする──大陸進出を完遂した暁に大陸統治政策において亜細亜主義者としての本懐を遂げる──という選択があった。だとすればどう評価するか。
 北一輝の『国体論、及び純正社会主義』も、当時これ出すことにどれだけのリスクがあったのかを考えなければダメ。そういうことを理解しながら思想と実践、ないし思想と実存をワンセットにして評価する。それでこそ学びがある。私自身は北一輝の言葉に唯一的にこだわっているわけではない。北一輝の名前があれば可能になる座を用意したいと思っただけです。座が用意できれば学びが得られるだろう。学びが得られれば契機は北一輝だろうが何だろうが構わない。

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