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(回答先: 基調報告(前回掲載)へのコメントへのリプライ(MIYADAI.com) 投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 2 月 03 日 17:02:07)
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◆ 東浩紀君の有料メルマガに載る鼎談における、宮台発言の抜粋です。
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それは難しい質問ですね。なぜ「あえて」が重要なのか。そこには根拠はありません。でも、リベラリズムの本質と深い関係があります。ちょっとだけ展開していいですか。
リベラリズムは普遍性を僭称しようにも「端的な事実性」の外に出られません。たとえば、リベラリズムは「お前はこの社会のどこにどんな人間として生まれ変わっても耐えられるか」という立場可換性を突きつける形で「公正としての正義」を確保しようとする価値観だけど、この場合、どこからどこまでが『人間』かというのが、端的な事実性を構成するわけ。
この端的な事実性は、人間はなぜか、ここからここまでの範囲を『人間』として尊重するというディスポジション(傾き)があるという事実と等価で、そういう傾きを前提にして感情教育をしようというのが、リチャード・ローティの戦略ですね。
もちろん直ちに、なんでそんなディスポジションがあるのかという問いも立てられます。すると、ディスポジションなるものは、一定の前提の上で辛うじて成り立つテンデンシー(傾向)に過ぎないことが分かります。
でも、この前提も、結局は「社会が然るべく回っている」すなわく「社会システムの定常性」という事実性に回収されてしまう。「然るべく回る社会では、人は大いなる蓋然性で、ここからここまでを人として認める」と。ここでは主語と目的語が循環していて、そのこと自体が端的な事実性を表示しているわけです。
社会システムの定常性──社会が然るべく回っていること──は、端的な事実性であって、それ自体はいかなる価値根拠とも無関連です。ところが昨今では、どうもその事実性が怪しくなってきた。それを僕は「底が抜けた」という言い方で表現しています。以前、東さんと対談したときに使ったタームですよね。
そこで、「底が抜け」はじめた事実性を護持する“コミットメント”か、「底が抜け」たという事実に居直る“脱社会性”──北田暁大君ならば「制度の他者」──か、という決断主義的な選択があるだけだということが、はっきりしてこざるえなくなるわけです。
“脱社会的存在”が生まれないように、事実的に存在するシステム定常にコミットメントすることは可能だけど──ローティの感情教育ですね──、既に事実的に存在する“脱社会的存在”に対しては、殺すか、隔離するか、いずれにせよインディファレント化(無関連化)するしかない。これもまた、決断主義的な選択です。
でも、こうした決断主義的な選択が衆生(一般大衆)に対して露わになると、リベラリズムの大義──どこにどんな『人間』として生まれ変わっても耐えられるかという思考実験から来る公正原則──が、怪しくなってしまう。なぜなら“脱社会的存在”は『人間』じゃないので可換性思考実験の対象ではないと、無理に言い切るしかなくなるからです。
この間、北田君と対談したときにも言ったことだけど、北田流に「リベラリズムの居場所」──いわば射程と限界──を明らかにする営みは、元々リベラリズムは行動──政策──を正当化する思想だったのに、むしろ行動の正当性を挫く──ゆえに衆生の勇気を挫く──最終真理のようになってしまう。いわば、知らざるに然くはなし、みたいな。だから僕も、教育問題にリベラリズムを連結して語っていた4年前までは、リベラリズムの非普遍性──リベラリズムを支える端的な事実性──について、公的には誤魔化してきた。
ところが、99年にWTOのシアトル総会でアンチ・アメリカン・グローバリゼーションの動きが爆発し、9・11直後にアンソニー・ギデンズ──社会学のタームでリベラリズム思想に語っていた──が「国際社会は団結して断固武力でテロに対処すべし」と叫ぶのを聞くに及んで、こりゃあマズイと思うようになった。
リベラリズムが、絶えず事実性を乗り越えようとする──事実性は消去できないから乗り越えるしかない──永久革命の実践であることを、言わなければいけないと思うようになった。そこでは、戦後の丸山真男が民主政を、絶えず事実性を乗り越えようとする永久革命の実践だと捉えたことが参考になっています。
その意味は、こういうことです。憲法学者のローレンス・レッシグが民主政を擁護するとき、自由論から展開します。全員参加のデモクラティズムは手間が掛かるし、「政治からの自由」の原則に抵触するので無理。ならば、モチベーションを持つ連中がアクセスできるように、アーキテクチャーを「開いて」おけばよい、というわけ。ルーマン的なシステム論者と同じです。全員参加で正当性担保なんてバカを言うな、参加しようと思えば出来るようにしておけばいいと。
このルーマン=レッシグ的なオープン・アーキテクチャーの構想は、「ポシビリティ(可能性)があればプロバビリティ(蓋然性)も得られる」、すなわち「参加に開かれていれば現に参加する連中がいる」という想定に立っています。でも、どうなのかな。そこには論理的な飛躍があり、端的な事実性が、みごとに侵入している。たとえば日本では、情報公開条例があっても誰も公開請求しない。記者クラブを廃止しても会見参加は元記者クラブメンバーばかり。可能性はあっても蓋然性がない。
実は丸山が「民主政は実践の永久革命だ」というのも、実を言うと、今言ったようなロジックなのです。僕が「リベラリズムは実践の永久革命だ」というのも全く同じ論理構造です。リベラリズムを支えてきた端的な事実性は、それが維持される「可能性」はあっても「蓋然性」が低下してきたがゆえに、いまや意識的コミットメントという実践の対象とならざるを得なくなった。それが「あえて」ということの本質的な意味です。
価値根拠ではなく事実性。本質ではなく傾き。可能性ではなく蓋然性。理論ではなく実践。結局のところ、実践する者しか──実践する者が救おうと思う連中しか──「人」として救われず、残りは「もの」として切断されることになるでしょう。その意味で問題を「大乗ではなく小乗」と表現してもいい。だから、東君のような高い教養を持つ人間に対してだけの非公式見解として述べますが、“脱社会的存在”が遺棄されるのは仕方ない。
ところがこんどは、実践する者どもの中にある、動員する者/動員される者の差異が問題になります。動員率を上げるには「騙し」もありうる。動員もまた事実性に過ぎないからね。すると、それが今度は「金剛密教」に道を開く。端的な事実性という臨界を見極める動員者は、実は“脱社会的存在”と遜色なくなる。まさしく仏教の教説どおり。
だから僕は「あえて」を重視しないという東君の発言は、半分しか賛成できない。というのは、僕は、実践者と非実践者の差異、実践者の中にある動員者と被動員者の差異という、これまた端的な事実性を、万人が忘却するわけにはいかないと思うからです。もちろん万人が覚醒することもありえないわけ。しかし、だからといって万人が忘却していい──「あえて」を忘れていい──というわけにはいかない。これは倫理の問題です。そのことを最近の僕は、分かりやすく「魂」の問題だ、と言っているわけです。