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(回答先: 亜細亜主義と北一輝〜21世紀の亜細亜主義(MIYADAI.com) 投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 1 月 31 日 12:50:00)
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近代には、多様性よりも流動性を優位させるアメリカンなタイプと、流動性よりも多様性を優位させる──収益よりも共生を重視する──オルタナティブなタイプがあると言いました。政治思想がどうたらこうたらということよりも、亜細亜主義の政治的実践者や、欧州主義の政治的実践者が、こうした対立を明確に念頭に置いていた歴史的事実を参照せよというのが近年の私の呼びかけです。
むろん一筋縄ではいかない。たとえ教養なき誤解曲解や、意図された誤用濫用があったにせよ、それを防遏できなかった責めの一部は、亜細亜主義者や欧州主義者に帰せられるべきであり、さらにそうした問題をはるかに超えた内在的弱点があることも事実です。それについては、リベラリズムの限界とも関わる論点でもあり、大問題ですので、機会を更めるとし、ここでは一つだけ本質的な補足を加えておきましょう。
それは、オルタナティブな近代が許容する「多様性」なるものには限界があるということです。要は近代というシステムに乗っかり得る限りでの「多様性」を許容するということ。近代内部の共生原理に合わないものは、いかに多様性が重要なりといえども、許容すべからず。これです。この一点において、文化的多元主義──近代と両立可能な多様性のみを許容する立場──と、多文化主義──近代と両立不可能な多様性をも許容する立場──とが分かれる。これはもはや周知の事実でありましょう。
私自身ははるか以前から主張してきたように、オルタナティブな近代を賞揚する「近代主義者」であります。よって、近代の枠組みと両立可能であるような「多様性」以外は根本的には認めません。と申しますと、「亜細亜主義とそんな宮台思想が両立するんか?」と思われるかもしれません。両立どころか、論理的に思考すればぴったり重なるんですね、これが(笑)。まあ、いずれ皆さんにもお分かり頂けるときが来るでありましょう。
◆「流動性」と「多様性」
さて、亜細亜主義を見直すに際して不可欠な事柄ですので、復習しておきます。一九七〇年代以降の政治哲学において、流動性と多様性のどちらを優先するのかということが最重要課題となりました。これは、どっちが論争的に強いかといったフニャケた話ではなく、体制選択──アメリカンな近代かオルタナティブな近代か、あるいは単純グローバリゼーション型近代か屈折グローバリゼーション型近代か、あるいは単純欧化主義か屈折欧化主義か──に直結する立場選択だということを、再確認しておきます。
日本には馬鹿が多いので、ネオリベラリズム(新自由主義)というと「小さな政府」とか「自助努力」といったクリシェしか想起できない輩で溢れています。そこから「自己決定論批判」などをホザク輩もいる。そんなことはどうでもいいんです。本質はむしろ、「社会政策の遂行」──再配分に象徴されるような──よりも、「法的意思の貫徹」──重罰化や排除──を優先させるオリエンテーションにこそあります。これを一気に縮めて表現すると、「流動性と両立不可能ならば多様性を抑圧せよ」という命令文となります。
だからこそ、ネオリベはある種の保守主義や共同体主義と結びつくのです。政府を小さくするから民間のセクターに頼らざるを得ないというだけでは、古典的な性別分業肯定や同性愛否定を説明できません。むしろ、社会内部の多様性の温存やそのための少数者への再配分こそが効率の妨げになり、かつこれらの排除こそが範域内部の同質性を健全に保ちうるという「一挙両得」的発想の然らしめるところです。範域を国内にとれば英国的なネオリベですが、範域を国際社会に取れば米国的な変質ネオコンとなる次第です。
これに対して、流動性よりも多様性を、収益価値よりも共生価値を優先する、オルタナティブな発想があります。この立場は私が取るところですが、「社会政策の遂行」と「法的意思の貫徹」のバランスを、飽くまで重視します。七〇年代ならばコミュニタリアン的と称されたであろうこの立場は、今日ではリバタリアン(自由至上主義者)を相手にリベラル(自由主義者)が取るべき立場であると考えられています。
憲法学者であり且つネットの公共性を担保しようとする『コード』『コモンズ』の著作を持つローレンス・レッシグに象徴的です。かつてインターネットに関わる者といえばサイバー・リバタリアンが相場だったのに、今やサイバー・リベラルとでも称すべきレッシグ的立場が影響力を持つに至っています。サイバー・リバタリアンは、かつての米国リバタリアンと同じく、フロンティアが無限に拡がっているという前提に立って、ネット空間を「公共財」──非排除的で非競合的な空間──だと見倣していました。
ところがフロンティアが限られた範域しか持たないことが明らかになるにつれ、ネット空間は非排除的ではあっても競合的な──誰かが取れば誰かが失う──「共有財(コモンズ)」だと見倣されるようになります。すなわち、自由至上主義的な価値を主張するだけでは、失う者は失うがままに放置され、共生(コンビビアリティ)と両立しないことがはっきりしてくる。
「市場の限界(飽和)」や「資源の限界(枯渇)」や「環境の限界(汚染)」がある中でヨリ多くの人々が自由であるためには、公共財視点から共有財視点への移行が──リバタリアン視点からリベラル視点への移行が、流動性優位から多様性優位への移行が、収益価値から共生価値への移行が──必要不可欠になります。
リベラリズムは、共生価値を担保する前提にコミットメントするべきだとの価値観を主張し、この価値観に基づいて自由至上主義的な行動への介入の必要を主張します。これは一つの価値的な立場選択です。先に近代が再帰的(反省的)たらざるを得ないがゆえに、伝統主義もまた再帰的(反省的)なのだと言いました。これを拳拳服膺すべし。近代(計画や人為)に対して伝統(自然や非人為)を対置できるという発想を排除するべきです。
分かりやすく言えば「為すも人為、為さざるも人為」。要は「伝統も選択、伝統破壊もまた選択」。「共同性もまた選択、共同性軽視もまた選択」。人為も不作為も横並び。伝統も伝統破壊も横並び。共同体主義も共同体軽視も横並び。いずれかが本来的で、余りが非本来的だ、などという素朴な潜入見を排除せねばなりません。各人が人為によって──すなわち自由を行使して──共同体(とされるもの)や伝統(とされるもの)を護持するか否かを、常に選択しているわけです。
亜細亜主義は、流動性よりも多様性を、収益よりも共生を重視する、近代思想です。いや、そういうもの「だった」んです。しかしある時期から全然違うものとして理解されるようになる。例えば、満州事変(昭和六年)以降の大陸進出で忸怩たる思いを抱いていた知識人らは、日米開戦(昭和一六年)で一転元気になります。当時の朝日新聞一面に中野正剛が勇ましい署名入り記事を書いていたりするのが典型です(笑)。
それまで大陸進出が亜細亜主義の大義に悖る──「アジアを列強から護持する」よりもむしろ「列強と競ってアジアを侵略する」──ように見えて困っていたところに、対米宣戦布告で、15年戦争の全体が「欧米列強からアジアを守る」亜細亜主義の大義に基づくと信じられるようになったというわけですね。開戦から随分時間が経って、ようやく重光葵外相の下で大東亜憲章が出され、大東亜戦争の目的が厳格に定義されたのと同じこと。
ことほどさように亜細亜主義は、体よく「跡づけの理由」に利用された。「中国大陸に侵略なんてしていいのか?」「いいのだ。これは亜細亜主義に基づくものなのだ」「ウソつけ、この野郎!」という感じですな(笑)。そういう次第で「亜細亜主義」なるものが、アジアの人々にとって、そして何より戦後の日本国民にとって、タブーの思想になってしまう。これはこれで当然なことなのであります。
加えてこういう事情もある。三一年の満州事変以降、まず「日支連合」の構想があり、それを日満支連合に拡げた「東亜新秩序」の構想があり、さらにそれに印度と東南アジアとオセアニアを加えた「大東亜共栄圏」の構想が生まれてくる。人呼んで亜細亜主義というと、まずもってこの流れが想起されてしまうわけですよ。「亜細亜主義」と「大亜細亜主義」という言葉が互換的に使われてしまうのも、そうした事情を背景とします。実際、多くの亜細亜主義者がかかる構想を支持した事実もある。
皆さん、私が「亜細亜主義を見直せ」と言うからといって、そんな事前的・事後的な正当化スキームを再評価するべきだ、なんて言うわけないじゃありませんか(笑)。くれぐれも誤解やご心配のないように。私が「亜細亜主義」という言葉で申し上げたいのは、本来の亜細亜主義者とは、「近代」と言いつつその実「欧米近代」に過ぎない実態を見抜いた上、オルタナティブな近代を構想する者の謂いだということです。今日の「マルクス主義者のなれの果て」に見るような稚拙な「反近代主義者」ではなかったということですよ。
「亜細亜主義の本義」について考えるにつけても問題になるのは、その都度の情勢判断です。アジアでいち早く「近代化」をとげた日本こそがアジア各国に近代革命を輸出すべきなのか。それとも近代化を遂げたと見えた日本が明治新政府の腐敗と堕落の渦の中に留まる以上、辛亥革命などを契機として大陸の革命を日本に輸入する方向で考えるべきなのか。むろん前期の北一輝は後者の線で考えたわけであります。後期の北になると、そうした革命輸入の可能性すらありえないほど日本の民度は低いという発想になっていきます。
遡れば、『脱亞論』の福沢諭吉のように、亜細亜主義なるものの本義はよく心得てはいるものの、日本以外のアジア諸国にはいかんせん近代化の芽すらなく、近代革命の輸出などにかかずらわっていては、単に足手まといになるだけ。ゆえに日本一国がまず欧米列強に屠られないレベルへと近代化を遂げるべし、と考える立場もありました。
実際に、アジアが欧米列強帝国主義の草刈り場となり果てる中、さてアジアがそもそもどういう状況にあり、その中で日本がどういうポジションにあるがゆえに、一体何を為しうるのか。そういうことについての情勢判断の分岐が、亜細亜主義者の内部で相当に鋭く、また一人の思想者の中でも大きく揺れたわけです。それが現実政治における闘争とも結びつき、重要な人間たちが処刑されていく歴史もありました。この対立軸を、今日もう一度きちんとなぞり直しておくことが必要だと思われますが、今日はスキップします。
抽象的な話に戻して、亜細亜主義の本義たるオルタナティブな近代構想、すなわち「流動性からの多様性の護持」「収益価値からの共生価値の護持」というとき、私が想起するのは、明治では西郷隆盛・岡倉天心の二名、昭和では北一輝・大川周明・石原完爾の三名です。北一輝については、思想というより、むしろその思想遍歴が参考になります。
北一輝はデビュー作から物凄い事を言っています。『国体論、及び純正社会主義』という早稲田大学の聴講生の時に書いた文章があります。要は、社会主義者たる輩が、なぜ自らの主張が国体論に抵触することを明確に言わず、あたかも社会主義と国体──天皇中心的な国家体制──とが両立するかのごとき欺瞞的メッセージを発しているかとコキおろす。そして、むろん北自身は、国体と両立せざる純正社会主義の立場を採ると言うんですね。
天皇についてはもっと面白いことを言う。「万世一系の皇室を奉戴するという日本歴史の結論はまったく誤謬。雄略がその臣下の妻を自己所有の権利において奪いし如き、武烈がその所有の経済物たる人民をほしいままに殺戮せし如き、後白河がその所有の土地を一たび与えたる武士より奪いその寵妾に与えし如く…うんぬん」。こんな、悪辣なことをする皇統のご先祖さまなるものは、日本人にとって戴くに足らずということを宣言している。
「もとより、吾人と言えども最古の歴史的記録たる『古事記』『日本書紀』の重要な
る教典たることは決して拒まず…うんぬん」から始まる文章では何を言うかと思えば、神話のごとき非科学的な妄念によって天皇を正当化するなどとんでもないと言うのです。時間はないので朗読はやめますが──実は後で言うように朗読が大切なのですが(笑)──神話ならざる何によって天皇を正当化するのかというと、中大兄皇子によってだと言う。
要は、天皇が革命家天皇である限りにおいて──まあ辛うじてそういう歴史もあったりするんで──、国民は天皇を尊崇し、天皇自身は中大兄皇子をモデルとして行動すべきだと。天皇がそのように行動したときに限り、「国民の天皇」──これは『日本改造法案大綱』の中で使うようになる言葉ですが──でありうるのだと言う。
初期に北一輝が考えていたことは、当時日本の社会主義者が考えていたことを、圧倒的にラディカルにしたものであると言えるでしょう。例えば、彼は、暴力革命を否定し、投票主義を挙げています。プロ独だろうが何だろうが国家による強制を一切否定するかわりに、民衆によるある種の自治能力、これを強固に信頼するというわけです。
しかし、残念ながらと申しましょうか、初期の北一輝に存在するある種の「民衆ロマン主義」は、後期になると「崩れていく」ように見えるわけです。私自身は北一輝に実存的にコミットメントするところがあるので(笑)「崩れていく」とは思わないんです。私の読み込みと言ってもいいのですが、「民衆ロマン主義」の素朴さだけでは残念ながら本懐を遂げられないという風に考えるようになっていく。その本懐とは何かというところにこそ、北一輝の「亜細亜主義者」としての志を見出すことができるんです。
北一輝は孫文が大嫌いでした。なぜ嫌いか。理由は、西郷隆盛が大久保利通以下明治政府の重臣たちを批判して決起をする──というか決起をさせられてしまうんですが──経緯と、同一の問題に関係しています。つまりは孫文が「単純欧化主義者」だったからです。単純欧化主義者の明治政府重臣たちが、国粋とは名ばかりに権益にぶら下がる形で私腹を肥やす腐敗堕落ぶりを、西郷に倣って知っていた北一輝は、単に西欧産の「近代化」を目指すだけでは、この国は、アジアは、駄目になるという明確な意識を持っていました。
同じく、西欧近代の産物たるマルクス主義に単に従うことも、日本国民の魂の何たるかを心得ない振舞いだとして退ける。だからこそ「革命」ではなく「維新」だと言うのです。北によれば、「革命」は虐げられたる者どもの怨念がベースになるが、「維新」にはそれのみならず、革命によって保全されるべき入替え不可能な本質に対する意志がある。「革命」と「維新」が対立するのではなく、「革命」だけでは足りないと言うのです。
それは、「近代化」と「亜細亜主義」が対立するのでなく、「近代化」だけでは足りないという発想とパラレルです。単に「近代化」するだけでは、我が地は入替え可能な場所になる。同様に単に「革命」するだけでは、我が魂は損なわれる、と。この入替え不可能な本質、損壊を許さぬ魂を、ご都合主義的に実体化する辺りから、北の思想が馬鹿者どもに利用され、戦中国体論の翼賛思想だと思われていくのでありましょう。
◆「魂」を否定できるか?
しからば、この「魂」を単に否定すれば済むか。「宮台、とうとうおかしくなりゃがったな」などと思わないで下さい(笑)。分かりやすい例を出します。ついこの間、小泉総裁選の前々日でしたか「クローズアップ現代」が諫早湾の水門の問題を取上げました。番組では、諫早湾の水門を閉切ったことで湾内の水が澱み、なおかつ湾内の海苔養殖業者が使う海苔育成の薬品のために無酸素水塊が発達して二枚貝と在来魚種が死滅していくのだと言う。かくしてヘドロ化した有明の浜辺が写し出される。
皆さん、総裁選を前にNHKにしてはイイ線いってると思いましたか? 私は「ケッ」と思いました(笑)。「諫早湾を守れって」って、何を守れって言ってるんだよ。いいですか。水門を閉める前から有明海じゃ魚や貝が取れなくなったんで、多くの業者は海苔養殖業者に転業していた。海苔業者が使う薬でスゴイ勢いで有明海の生態系が変わってきたのは事実。そういう流れの中で水門を閉めたわけ。どこがいけないんですかあ? 有明の海が死滅する? じゃ全員で海苔業者になればあ? 誰も困らないだろうが(笑)。
琵琶湖のブラックバス問題はどうか。テレビ番組は「ブラックバサーのメッカになっている琵琶湖は、ブラックバスのせいで在来魚種が死滅しつつある。在来魚種を前提に在来漁法をしていた漁師さんたちは食えなくなりつつある」などという。はあ? どこがいけないの? だって、ブラックバスで回る経済──旅館とか釣具屋さんボート屋さんとか食べ物屋さんとか──の規模のほうが、在来魚を採る漁師さんの経済よりも大きいよ。だったら漁師さんにはブラックバス経済に鞍替えしていただいけりゃいいじゃあないか?
何なら、もう少し行きましょうか(笑)。私の愛する沖縄があります。毎月沖縄に出かけています。泡瀬干潟の開発問題でも、石垣新空港の開発問題でも、私としての私は大反対です。いわく「沖縄の美しい海を破壊してしまうと、貴重な観光資源が消えてしまうんだぞ」。すると「あのー、今でも観光資源あるんですけど、全然カネ落ちませんが」とマジで答えが返ってくる。だったら潰しちゃえばいい。どこがいけないんですかあ?
こう言うと必ず、どこからか自称エコロジストが出てきて言う。「いや、生態系を壊すと、五〇年後、百年後に何があるか分からない」。はい、確かにそうですね。温暖化していけば農作物の収量増大のようなイイコトさえ期待できるかもしれない(笑)。もちろんこれはウルリッヒ・ベックが言う「リスク社会論」と直結する問題ですよ。つまり「将来何が起こるかわからないことのために行政は金を使えない」。公共性に反するからです。それだったら誰もが今日や明日のオマンマのためにお金を使ってほしいと思うでしょう。
なんでこんな話をしているか分かりますか? こういう論法は何も奇をテラってるわけじゃない。実際、似たような主張を山形浩生のごときが大真面目でぶっている(笑)。一言(いちごん)にして言えば、「環境アクティビストたちの主張を合理性を欠いている」と。然り。ある意味ではその通り。でも、そんなこたぁ当たり前じゃあないか。今さら何を言ってるんだよ。
という台詞は、山形浩生に対して言っているんじゃありません。そんなのはどうでもいい(笑)。私は、自らの主張が万人が許容可能な合理性に還元できないということを自覚できない──いわば「魂」の問題であるということを自覚できない──オボコイ環境アクティビストたちに対して、物を言っているわけ。言っていることが分かりますか。分からないなら、もっと極端なことを言いましょうか(笑)。
ガイア主義者のいわく「人類が地球の主人公なのではない。地球こそが主人公だ。人類が主人公面をするせいで、それ自体が一つの生き物である地球生命圏(ガイア)が死滅し、人間以外の動植物が死滅する。許せない」。どうして? いいじゃん別に。誰が困るの?いわく「美しい動植物に触れることが出来ないのは困る」。大丈夫。ITが発達すりゃ、バーチャル・リアリティーの中で、望む時にいつでも過去に生存した動植物、小川のせせらぎ、オゾンの香り、全て体験可能。リアルじゃないってえならIT技術者に注文してね。
映画『ソイレント・グリーン』の世界ですな。いいですか皆さん。そういう風に皆さんが思うのかって聞いてるんですよ。さらに言えば、そう思わないとすれば理由は何なのかと聞いてるんです。その理由は経済合理性のような万人に説得可能な合理性ですか。そりゃありえないでしょう。さっきオルタナティブな近代の話をしましたね。流動性よりも多様性を優越させる。収益価値よりも共生価値を優越させる。徹底的に突き詰めるとこの価値観はまさしく価値観であって合理的根拠はない。まさしく「魂」の問題なんです(笑)。
合理性──百歩譲って「ある種の」合理性と言いましょう──の観点から言えば、別に他の動植物が死のうが、琵琶湖の在来魚が死滅しようが、食いぶちと健康さえ保たれれば、知ったことじゃないっていう立場もありうるってことです。「いやあ、それだと心が参っちゃうよ」。ほらね、「魂」じゃありませんか(笑)。むろん「オレは参らないから、それでも良い」と言う方々もいるでしょう。「それじゃ良くない」と言う方々は、合理主義的な説得によって「それでも良いよ」と言う人々を啓蒙することは、絶対に出来ない。
実はそこが大事なんですよ。私は〈右〉と〈左〉の定義をいろんなところで書いてきた。〈左〉とは「解放的関心を本義と心得る立場」。〈右〉とは「合理性のみで割り切れないと観じる立場」。ゆえに私は〈左〉でありかつ〈右〉だとずっと言ってきた。私がそういう立場がありうると初めて知ったのは、北一輝を通じてです。「不合理からの解放を希求する志向」と「合理性を弁証されざるものを護持しようとする志向」とが、北一輝の中ではみごとに両立しています。思想としては不完全でも、志向としては両立している。だから、さっき、思想としてよりも、実存としてモデルたりうるのだと申し上げたわけです。
「解放の志向」と「護持の志向」が北一輝の中では両立をしています。とりわけ初期にはそれが顕著です。それが北の魅力です。どちらを欠いても実につまらない。さきほど亜細亜主義には三つの本義があると言いました。徹底した近代化を主張する第一義が「解放の義」だとすれば、単に近代化するのみでは自らは自らでなくなるとする第二義は「護持の義」。この二つの義を両立させる手段が第三義の「ブロック化の義」。
難しい抽象的なロジックはどうでもいいが、北一輝の志向に第一義と第二義が見事に解け合い、第三義に近代革命を通じた日支連携が持ち出される。北一輝こそ紛うことなき亜細亜主義者となすべき所以であります。その意味でも、『国体論、及び純正社会主義』と『支那革命外史』に見られるような彼の非常にナイーブな、しかし後期のニヒリズムすらをも輝かせる力を持つ、ある完結した思考のベースを分かっていただきたいと思うのです。
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