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(回答先: 自衛隊のイラクにおける活動は、人道復興支援のみか? 投稿者 baka 日時 2004 年 4 月 16 日 22:55:33)
『政府が脅迫される可能性の予見』
これについては、事件直前、誰もが具体的には想像していなかった。
それに尽きるのではないかと思います。
まず、前提として、
後から得た情報を基礎にして、さも、最初から政府が脅迫されて大迷惑を被ることを予見できたかのように振舞うことは出来ないという論理的前提にたつ必要がある。
次に、予見可能性の対象をふたつに分けて論じる必要がある。
ひとつは、当事者本人に対する生命身体への危険aの予見(A)。
もうひとつは、政府の政策決定の混乱を惹起する危険bの予見(B)。
それらを前提に検討する。
今回の事件では、確かにファルージャの情勢が悪化している最中であったし、当事者も覚悟していたらしい証拠がある。また、街道を直進すれば、流れ弾に当たり死ぬ蓋然性は高かった。渡航行為によって死の結果aの予見(A)は可能だったし、複数の証言から恐らく予見していたといえるでしょう。
しかし、「誘拐という手段で、ファルージャの現状を訴え、親米組織を撤退させようという脅迫が日本政府に対してなされる」という具体的危険bは、イラクに駐在しているマスメィデアそして外務省含めおよそすべての日本人にとって、予見できなかった(B)というのが現実でしょう。少なくとも、私自身は事件発生直後の報道を見渡して、予想外の展開が発生したという見解を述べている識者が圧倒的に多かったのを記憶している。
そのことは、しかし、一般人のレベル、あるいは専門家のレベルであって、当事者たちのレベルでの予見可能性ではない。
当事者たちが、ヨルダン出発時において独自の情報収集によりbを具体的に予見していた可能性があることは否定できない。しかし、当事者がどれくらいBを予見していたかについては、本人たちに証言を求めるほかなく、予見していただろうというのは全く憶測でしかありえない。(この点、当事者の過失を、憶測で、あることないこと書き散らした一部の報道は、今後、法的責任を追求されるのが望ましいと考える。)
つまり、一般人にとって、当事者の立場に置かれた場合の予見可能性があるかといえばNOであり、当事者たちにとっていえば、自身の渡航行為が不法行為を構成しうる予見可能性も極めて乏しかったかもしれないのです。
少なくとも、そのような危険bを予見していた(B)であろう証拠は、報道されていない。
逆に、今後の調査によって、じつは、誘拐脅迫の危険b(当事者への身の危険ではなく政府に対する危険)をしっかり認識していたとすれば、「認識ある過失」(※)といえ、重大な過失といえるかもしれません。現時点ではそれも憶測でしかありません。
※認識ある過失とは、「オレは運転がうまいから飲酒運転でも平気なんだ」という類の過失を指します。(本件への当てはめは控えさせてください。すいません。)
その上で、それでも、彼らの行為について、bの予見可能性を問題にして、政府に対する不法行為(大迷惑)が成立すると判断できるとするならば、上記のような戦場渡航者という業務者一般の予見可能性の程度と当事者たちの予見の程度を基準として、改めて彼らの注意義務の有無を捉える必要があります。
まず、
「そらみたことか。ばか者が」といいうるためには、誘拐され政府が脅迫される事態bを予見していることが必要です。
そして、危険地域での活動が豊富で、業務上、どのような注意義務が必要かについて即答できる者だけが三人の行動を批判する資格があるといえましょう。
つまり、戦場で人道支援を志す者、戦場取材者たる者は、極めて高度の注意義務が要求されているのであり、彼らには、そうしたリスク管理が全くできていなかったという批判が、そうした資格のある人たちから聞かれることでしょう。
非常に適切な議論といえます。
戦場渡航という行為を、類型化し、彼らに必要な注意義務(a+bの予見義務)の程度を議論することは大切なことです。
しかし、a+bのリスク予測について具体的に検討もしないまま、センモンカの尻馬にのって、自分らは予見できていなかったのにもかかわらず、結果論を堂々と展開し、後付の論理で批判する態度はどうなのか。
そんなもの誰でもできますが、有害無益です。
一部の報道は残念ながら、有害だったとおもいます。
(今回の自己責任論を冬山登山になぞらえるひとがいますが、私個人の登山経験からいえば、的を得た批判を出来るひとは、やはり登山の経験が豊富なひとに限られる傾向があると感じます。経験もないジャーナリストにすき放題しゃべらせると実感するのは、いまにも「冬に山に登るなんて無謀〜ひいては、山に登ること自体が無謀、迷惑だ!といった見も蓋もない理屈を展開しかねない理不尽な論法です(笑)そのような論法で、安全管理が出来るか!危険な仕事がやってられるか!もうあほかと‥小一時間問い詰めるだけのリスク管理の理論を私はもっています。それが仕事ですから。)
第二に、
もし仮に、事件直前には、政府が脅迫される具体的な可能性(B)が非常に高まっていたと主張する報道関係者がいるならば、そのひとは、確かに、「そらみたことか」と言いうるでしょう。実際そのような発言も少数ながら見聞きします。
しかし、かりにbを予見していたとするならば、イラクに報道関係者を派遣している以上、そのような重大な予測をしておいて、事前に真剣に警告しなかったのは疑問です。
「自分はbの危険を警告していた」というひとは名乗り出てほしい。
外務省についても、aともbとも判然としない「退避勧告」といった抽象度の高い危険性を示唆していたぐらいで、「そらいわんこっちゃない」と主張してもらっても困る。
そもそも抽象的な退避勧告から誘拐政府脅迫大迷惑事件を具体的に想像することは非常に困難だったと言わざるを得ないし、想像できるはずだともいいえないのではないか。
少なくともaとかbとかいう程度に具体的予測を示す必要がある。「戦場=退避勧告」ではマスメディアの特派員にとってクソの役にも立たないでしょう。
私には、行政が迷惑論を展開すればするほど、外務省は、省の情報収集能力の無力ぶりを露呈しているとしか思えないのです。かりに、個々人の生命身体aにではなく政府に危険が及ぶ可能性bを予見していたとするならば、より具体的情報を提供する義務があったのではないか。具体的予測をしていなかったのに、あとで気がついて「迷惑をかけたことを自覚してほしい」とは、全く筋が通らない議論です。
そしてそもそも自己責任とは、個々人の生命身体の危険aのことを中心に捉えるべきですし、従来、bまで考慮して危険地域に赴任したひとはじつは少数だったのではないか。
政府が脅迫される可能性まで視野にいれて、今後企業などが海外出張に行かなければならないとするならば、経済の自由、表現の自由に重大な萎縮効果をもたらすでしょう。
正直、そんなもの知ったことではない、わが身の危険aは自己責任だが、政府の危険bは政府が予見しろ、といっていいのではないかな。
与党には、いっそ渡航禁止にしてしまえという議論があるようですが、政府の政策決定が脅かされる危険性が高度に高まっているのなら、理由がないわけではありません。検討に値するでしょう。しかし、その危険性の原因については、多様な角度から検証すべきでしょう。
また、法的な観点からいえば、渡航禁止措置は、国民の自由の保障の観点から明らかに行きすぎです。
大切なことは、外務省が、退避勧告という抽象的危険を示唆するだけでなく、このような事件発生の高まりを具体的に警告することではないか。かつそれで十分ではないかと思います。
国民に対して、具体的予見可能性を共有させることが、情報公開というものだからです。
総じて、今回は、予見することが難しい事件だった。
bに対する予見可能性があったという主張もほとんどみられない。
勿論、外務省や報道が適切に情報を公開し、国民の利益になる情報を与えていても、今回の事件は発生したかもしれないが、ともかく、予見が困難だったという前提にたつならば、その点は、問題にはならないはずです。
私たちが教訓として考えなければいけないのは、マスメィデア・外務省の情報収集能力と情報公開のあり方のほうであり、それは自己責任論よりはるかに重要ではないかという気がしています。