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(回答先: ビキニ事件50年、焼津から [静岡新聞/nomorewar] 投稿者 なるほど 日時 2004 年 3 月 02 日 03:36:37)
'04/3/1
▽核廃絶へ精力的発言
医学者の立場から核兵器廃絶を訴え続け、広島大、名古屋大の学長も歴任した病理学者の飯島宗一(いいじま・そういち)氏が一日午前五時四十五分、胸膜炎による呼吸不全のため名古屋市千種区の病院で死去した。八十一歳。長野県出身。自宅は名古屋市千種区富士見台四ノ五二ノ六。葬儀・告別式は二日午後一時から名古屋市千種区南ケ丘二ノ八ノ二九、自由ケ丘愛昇殿で。喪主は妻寿子(ひさこ)さん。
一九四六(昭和二十一)年、名古屋大医学部卒。広島大医学部で原爆症を研究し、教授を経て六九年、広島大学長に就任。八年間にわたり学長を務めた。学園紛争激化後の一九七〇年に統合移転構想を打ち出し、東広島市への移転に尽力した。その後名古屋大に移り、八一年から六年間、学長を務めた。
「広島、長崎で何が起こったかという事実を、客観的に多くの人に知ってもらうことがまず第一だ」との信念から、七〇年代に地元の学者らとともに「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店)を編さん、原爆投下の傷跡や援護史を幅広い観点から記録した。集会やシンポジウムで核兵器廃絶を促す発言を続けた。
この間、中央教育審議会委員や臨時教育審議会第四部会(高等教育改革)の部会長などを歴任。日本医学会幹事や日本病理学会理事として病理学の発展に寄与した。トヨタ財団理事長も務めた。「医学と人間」「世紀の境に」など医学、平和、教育関係の著書が多い。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn04030133.html
目撃者の眼 報道写真家 ジョー・オダネル
1999年現在76歳になるジョー・オダネル氏は、アメリカ軍の
報道写真家として第2次世界大戦後の日本を撮った。
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺め
ていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りまし
た。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をし
ていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の
中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。お
んぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の
様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼
き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも
裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目
を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠
っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひも
を解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んで
いる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持
つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえま
した。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な
夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる
少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年が
あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が
静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を
去っていきました。(インタビュー・上田勢子)
[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
http://side-b.jp/babo/kokoro.html