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【今日のぼやき】人類月面着陸(1969年の米アポロ計画)の捏造指摘のテレビ番組について言及しました
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/699.html
の続きのようです。
以下、転載です。
「517」 前回の続き。ようやく私のPCのウィルスが駆除できました。大晦日に紅白歌合戦と格闘技番組をみながら、「人類はどこに向かいつつあるのか」ということについて考えていました。 2004.1.07
副島隆彦です。 今日は、2004年1月8日です。
以下の文章は全て、一昨日の6日に私が話した内容をテープに採ったものを、アルル君が素早く文章に起こして(これを、トランスクライブ transcribe と英語では言います。)、ここのぼやきに載せてくれたものを、ようやく2日間に渡って、時間を見つけながら少しづつ私が手を入れて何とか、自分の気に入るように加筆して、修正したものです。最小限度の手直ししかしていません。
一切の編集も無しで、即座にどんどんぼやきに載せてゆかないと、これからの「今日のぼやき」の製造は、時代のスピードに間に合って行きません。「副島隆彦はあれこれ他にやることがあって、忙しいので、それでとてもこれまでのようにのんびり、机に向かって文章を書いている暇はない」などという事は有りません。私たちは、泣き言は言いません。 私たちは、日本における「言論系のネット革命」を何が何でも完遂するために、こういう、捨て身の構えにも近い、荒技の言論活動をやってゆくことに決めたのです。
ですから、昨日、以下の文章を読んだ人は、もう一度、読み直してください。2割ぐらいは書き変わっっているでしょう。これでも最小限度の手直しです。これでいいと思っています。アルル君、君のもの凄い早さの文書起こし能力と優れた文章構成力にに、しばらくは、私(たち)は頼らなければならないと思います。 副島隆彦拝
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前回の「515」に引き続いて、「新年の挨拶文」の続きを書きます。前回は、(4)の「テレビ朝日で12月31日の夜9時からやった、『たけしの 世界はこうして騙された』番組の中の人類月面着陸(いわゆる1969年の米アポロ計画)は、アメリカ政府の捏造であったという内容について。」だけを先に書きました。残りの3つ、
(1) このコンピュータ・ウイルスとの闘いの体験報告。
(2) 大晦日(おおみそか)にずっと見たテレビ番組のこと。
(3) 紅白歌合戦がつまらなかった。もう、おしまいだな、と私でさえ思ったこと。
(5) それらよりも、私は、民放各局でやっていた格闘技(殴り技と蹴りと寝技の複合ルールのやつ)に魅了された件。
について急いで載せます。
その前に(4)の「人類の月面着陸(いわゆる1969年のアポロ計画)」の問題を、優れた情報サイトである「株式日記」が取り上げていました。私たちも、このサイトのようにテレビの画面をキャプチャーしてここに貼り付けることができるように技術を習得なくてはなりません。
この文章の末尾に、「株式日記」サイトの中から、私の「ぼやき」の引用部分以外を画像を中心にして貼り付けます。あとで、よしなお君が、ラムズフェルド、キッシンジャー、ヘイグ、そしてケンドールといったアメリカ政府の重要人物たちが発言した部分の日本語字幕を正確に文字おこしして載せてくれるでしょう。
私たちのサイトの中の「理科系掲示板」には、横山君とジョー君が理科系の立場から大変、優れた文章を載せてくれています。こちらも是非ご覧ください。ここで横山君が書いている、「立証責任」(証明責任)の問題というのは、きわめて重要です。 「人類の月面着陸」問題の証明、すなわち「1969年に人類が月面着陸を行った」という「事実」(facts ファクト)を、証明をする責任は、ひとえにアメリカ政府とNASAにあります。
それに対して、「そのような人類月面着陸は無かった」という、あることが「無かった」ということの証明は出来ないのです。「無かったこと」の証明はする必要はないのです。「あることが有った」ということの証明がなされなければならないのです。
そして、当然、「この事実(1969年の人類の月面着陸という事実」の証明は、「それが確かに有った(存在した)」と主張する者たち(その立場の人たち)が行わなければなりません。
ですから、アメリカ国民は、自分たちの行政主体(アメリカ政府)に対して、ある行政行為が適法であり、かつ正当であったかということについての証明を求める権利があり、疑義を提出する権利があり、疑わしい場合には疑問を提出し異議を唱え続ける権利があります。それに対して、アメリカ政府はどこまでも答え続ければならない。
国家体制とか、合法律的であること、を認める立場からはそういうことになるのです。だから、「人類の月面着陸は有った」ということの証明をアメリカ政府はしなければならないのであって、そのことを怪しいと主張する人々の側は、単に疑義を提出し続ければ良いのです。この「立証責任」〔証明責任)という問題は、法律学が扱う分野です。 この領域の問題は、法律学の中でも訴訟法と呼ばれる学問分野の学者たちが真剣に研究している領域です。
理科系の人間たちが、私、副島隆彦に「高校の物理からやり直せ」というのであれば、それらの人々に対して、一度でいいから「民事訴訟法という法律学の一分野のの本を開くだけでも、開いてごらんなさい」と私は言います。これまでに40種類ぐらいの学問をやって来た私に向かって、君たちごときがあれこれ言える能力ではありません。
そこで、急いで、(1)〜(3)と(5)に関して書きます。
(1) このコンピュータ・ウイルスとの闘いの体験報告。
コンピューターウィルスが私の自宅のPCに潜り込んでいて、私はこの10日間、危なくてネットに接続できない状況でしたが、昨日ようやくウイルスを駆除することができました。昨日、弟子の一人である小暮君が自宅にやってきて、ディレクトリ(コンピューターの脳神経細胞に相当するところ)の中に潜り込んでいたウィルスをきれいに掃除してくれました。
これは正確には、スパイ・ウエア spywear といって、ウィルスのように自己増殖するものとは違いました。 それでもこのスパイウェアが私のインターネット・エクスプローラー(IE)の画面にべったりと張り付いて、勝手にインターネットのトップページ(アクセスした時に最初につながるページ)を張り替えるという恐ろしいものです。
それを、ようやく駆除できました。弟子のしまげん君も少し前に自宅にやってきて、手伝ってくれました。この戦いに私は年末年始の10日間を費やしたのです。その間は、「515」で書いたとおり私の奥さんが持っているPCに一度データを写してから、文章をアップロードしていました。私の奥さんのPCはいまだに「ダイヤルアップ接続」です。このダイアルアップ接続というのがなんと不便なことか。しょっちゅうブツ、ブツと接続が切れてしまうのです。私もまたネットで「副島隆彦のぼやき漫才」を4年前に始めて、つい昨年の春までは、このダイヤルアップ接続でした。よくもまあ、このような劣悪なネット環境で「ぼやき」を書き続けて来たものだと自分で感心します。
今回のコンピュータウイルスの件で懲りまして、私は、我が家にもう一本ADSLの回線を引くことに決めました。今回のように、私のPCに何かあったときのための予防手段にもなります。システムを一カ所に集中させるということの危険性について私はいつも真剣に考えています。
無線LANを入れてみようと考えましたがやめます。私は、いまはやりのこの無線LANというものを疑っています。実際に私たちの事務所で、この無線LANを入れてみましたが、システムを安定させるためにかなりの時間を浪費しました。時々親機の接続がうまくいかず、すべてのPCがネット接続できなくなるということがあるのです。雑音が入るようです。
私のPCにへばりついていたのは、トロージャン・ナラット(Trojan.Narat)というスパイウェアでした。「トロイの木馬Trojan horse トロージャン・ホースというのは、ギリシア時代の逸話で、敵陣の城の中に送り込んだ工作員のことで、内側から敵の城の入り口を夜密かに解錠した話である。これにちなんだウイルス名である。 そのほかに、n-CASEというものもへばりついていました。
あとで小暮君が教えてくれたのですが、原因は私がシマンテック社のノートンというウィルス駆除ソフトを去年の8月にPCにインストールして以来、全くアップデイトしていなかったからだという事がわかりました。私は、マイクロソフト社が送ってくるウィンドウズXPの更新情報も確認しないで放っておいていました。一度ウィルス駆除ソフトをインストールしておけば、あとは大丈夫だろう、という甘い考え方をしていました。
人間は実際にひどい目にあってみないと、本当に反省はしないものだと言うことがよく分かります。今回、自宅で、説明書を隅から隅まで読み込みましたが、私にはPCを細かく操作する能力が足りませんので自力では修復できませんでした。私は今回、ノートン・アンチヴァイラスというソフトの優秀さがよく分かりました。
教訓としては、インターネットという通信ツールは、まだまだ脆弱(ぜいじゃく)なものである、ということです。とてもこのレベルでは、大衆媒体(マスコミュニケーション)の手段になるのはほど遠いなあと思いました。ネット(情報通信)革命の前途は多難です。そして、この幼いネットに攻撃をかけるように、ウイルスを作ってはまき散らす馬鹿者たちがいる。
私たちの会員の中にも、PCが壊れたり、メーラー(メールの送受信やメール画面を見るためのソフト)が壊れたりして、PCの中のデータが全部消えて無くなってしまったという連絡をして来てくれる人たちが月に何人かいます。現状のようなネットの脆弱さでは、ネットが国民世論を動かすメディアに成るのは、まだまだ先の話だということがよく分かりました。
きと数年後にはあと一段階、飛躍的に前進したネット技術が開発されて、やがて本当にテレビと同じくらいの使いやすさの通信手段に成長するでしょう。
それでも悪質にウィルスをまき散らかすような人々がいます。このような人たちは、ウイルスを作り出す人間そのものがウィルス(virus ヴァイラス)そのものなのでしょう。しかし、彼らには、自国の支配者や支配階級や競争企業に対する激しい憎しみのような異様な情熱もあるのでしょうから、彼らの有害行動を駆逐して完全に消滅させることはできないでしょう。大企業のネット部門の担当者達も、必死でセキュリティを維持しようと努力しているでしょうが、それにも限度があって、結局、パワーアップしたウィルスとのいたちごっこが今後も続くだけでしょう。人間という生き物の悪さというものが、コンピューター・ウィルスに表れている。
私が皆さんに言えるのは、どうぞ十分に気を付けてください、あるいは、きちんとウィルス駆除ソフトを入れてください、だけです。このようなごく当たり前の注意を促すことくらいです。
このほかに、補足しますと、スパム・メール(Spam mail 迷惑メール)というのがあります。マイクロソフト社製のメーラーである「アウトルック・エクスプレス」には勝手に変なメッセージのメールが大量に送られてきます。 私の場合には、今回はウェブサイトを閲覧するためのブラウザがやられましたが、このスパムというものの被害も酷い状況になっているようです。この”スパム”Spam というのは、もともとくず肉のことを指す英語です。C-Ration (シー・ラッション)という米軍兵士用の、最低クラスのまずい缶詰があって、この挽き肉のくず肉が詰められています。 このように、スパムとは軍隊給食用の缶詰食の中でも、一番安物のくず肉を指す言葉です。実は、お肉ですらなく牛や豚の内臓ですらもなく、耳とか鼻とか、普通は誰も食べないような部分を粉々にして缶詰にした材料がスパムです。これを材料にしてC−Rationという携帯用の食事を今でもアメリカの下級兵士たちは食べさせられている。
このスパム・メール(迷惑メール)そのものはウィルスではありません。ところが、このスパムメールにコンピューター・ウィルスがくっついていることが多いのです。だからスパム・メールにも十分に注意してください。
(2) 大晦日(おおみそか)にずっと見たテレビ番組のこと。
(3) 紅白歌合戦がつまらなかった。もう、おしまいだな、と私でさえ思ったこと。
(5) それらよりも、私は、民法各局でやっていた格闘技(殴り技と蹴りと寝技の複合ルールのやつ)に魅了された件。
次に、私が大晦日にみたテレビ番組について書きます。私は大晦日に紅白歌合戦を今年も見ました。
紅白は、演歌歌手系と若いポップス歌手系の歌手たちに大きくは分かれて出演している。演歌歌手系は、はじめて紅白に出演して来年はもう姿を消すような歌手と、NHKが大事にする往年の国民的大歌手たちの2種類に分かれている。私はさすがに北島三郎や和田アキ子のような歌手達はもう顔もみたくない。
それよりは「もう一回二人が出会ったところに戻ろう」というような、長渕剛の方が良かった。モーニング娘。は相変わらずかわいそうだ。児童福祉法違反だろうから、あんな小さな子供たちに夜中に歌を歌わせる仕組み自体が私はあまり好きではない。
私が買ってきた小型テレビと2台並べて見ながら、紅白があまりにつまらなかったせいもあって、民放のチャンネルでやっていた格闘技の番組を、ガチャガチャとせわしなくチャンネルを変えながらみていました。どうやら私がやったことと全く同じことを、あの夜は、日本国中で多くの人がやったようだ。(あとで、あの夜の各局の視聴率のデータの新聞記事をここに貼り付けます。)
(編集の上、あとで、以下をよしなお君が貼り付けてくれた)
【年末年始視聴率トップ40】(12月22日−1月4日)
(1)「第54回NHK紅白歌合戦」(21時30分−23時45分) NHK 45.9%
(2)「第54回NHK紅白歌合戦」(19時30分−21時20分) NHK 35.5%
(3)「ゆく年くる年」 NHK 29.1%
(6)「めちゃ×2イケてるッ!楽しくなければ年の瀬じゃないスペシャル!!」(19時以降) フ ジ 25.1%
(15)「K−1プレミアム 2003人類史上最強王決定戦 Dynamite!!」 TBS 19.5%
(27)「PRIDE 大晦日スペシャル・男祭り2003」(19時20分−21時20分) フ ジ 17.2%
(40)NHKニュース7(31日) NHK 16.3%
(ビデオリサーチによる関東地区日報データを基に作成。15分以上の番組。数字は%)
産経新聞(2004年1月6日記事)
(編集の上、貼り付け終わり)
副島隆彦です。これらの番組を見ていて、私が強く感じたことは、日本はここまで駄目になったか、ということでした。どんよりと沈滞し、停滞し、経済的に追い詰められて、すっかり貧乏が日本国民に染みついているなあ、ということでした。「もう一度、戦後の焼け跡の裸一貫からやり直すしかない」という気持ちが、日本国民の中に深く育ちつつあることが私に伝わってきた。
今年の2004年は、敗戦(1945年)から60年になる、来年の2005年に、やがて訪れるであろう本格的などん底の時代に備えて国民が身構えている年だ。世界的な金融恐慌が押し寄せる、その前段階の雰囲気が色濃くある。日本人が今から59年前の、諸都市の見渡す限りの焼け跡(アメリカ軍の戦略爆撃=ストラテジック・ボミング)の中にたたずんでいるような、そういう再現場面のようだ。
紅白があまりにつまらなかったから、フジテレビ(8ch)で、さいたまスーパーアリーナでやっていた、「PRIDE(プライド)−男祭り」という格闘技番組をやっていたのを見た。日テレ(4ch)では、アントニオ猪木が主宰している「イノキ・ボンバイエ」という格闘技番組を、TBS(6ch)では、「K−1」(ケーワン)をやっていた。これら民放3局が裏番組ですべて格闘技番組をやっていた。
K−1では、10時半くらいから、ボブ・サップと元横綱力士の曙(あけぼの)が格闘試合をやった。曙がボブ・サップにボロ負けした。曙はボブ・サップから頭と顔にさんざん打撃を受けてリングの上に沈んだ。相撲を引退したあとの曙はまともに身体を鍛えていないのだから、最初から曙が負けるだろうと言われていた。日本の国技である相撲取りが突撃して、激しい張り手で相手を思いきり叩けば倒せるという意見もあるが、しかし、それだけでは勝てない。総合格闘技では、つかみ合いになった後の寝技での攻め合いが重要だろう。
ただ、この曙が、日本の国技ということになっている相撲業界を引退して、見せ物系の格闘ショーに出場しているということは、日本相撲協会が、横綱をもつとめた引退後の曙をまともに養っていくことができなかった、ということなのだろう。曙はこのK−1の番組に出演することで、相当の金額を提示されたのだろう。曙の格闘家転向には、やはり裏側にお金の問題がある。
アントニオ猪木も、もうそろそろおしまいだな、と思いました。この人が日本の格闘技系のスポーツを一人で盛り立ててきた。格闘技の好きな若い男女の間で果たしてきたアントニオ猪木の重要な役割は今、過ぎ去りつつあるということが判った。BONBIYE 「ボンバイエ」という格闘技のルースでは何かが足りない、という感じだ。プロレスや柔道の延長線にあるからだろう。
それよりも、PRIDE(プライド)の方がすばらしかった。「K−1」が立ち技だけで、寝技が使えないという空手やキック・ボクシングのルールに従っているのに対して、プライドの方はけり技の他に寝技も認められているようだ。素人の私の目からは、この寝技があるという点が重要で、寝技があるから、本当の人間のけんかというか、小学生の子供同士のけんかに近い姿になっていた。なぐったり、けったりの後には必ず起こるであろう、掴み合ったあとに、床に転がって互いに相手と締め合うという場面になる。これが人間の最も自然なけんかの姿だろう。
プライドは、指の部分が使えるグローブをはめて闘うので、手が守られているので手を傷つける心配がない。なんとか相手に組み付いて、羽交い締めになって互いに身動きが取れない中で、関節技を仕掛けて腕を逆手にとって「参った」を言わせて勝つ、というのが、体格や筋力や手足の長さの点で不利である日本人の格闘家たちにはどうしても必要な技である。これで日本人は勝しかないことが判かる。
それでも更に足腰や手の力まで強い選手には寝技に持ち込んでも日本人の選手では勝てない。試合番組全体を、壮大なお祭り風に見せかけて、大変な催し物として光りや煙や大音響をつかって、最大限に盛り上げる演出をやる。しかし、いざ試合が始まってしまうと、大体1分間や2分間であっけなく、カタがついてしまう。日本人の選手が負けてしまうと、観ている観客たちがショボーンとしてしまう。ここが、日本の格闘技の興業としての悪い点だろう。アメリカのプロレスの試合のように、悪役レスラーがコメディアンの役を買って出て、観客席を湧かせるという工夫も無い。これからの試みになるのだろう。こういう点を改良してゆかないと、日本ではいわゆる新格闘技系のスポーツの英雄を誕生させ続けるのは難しいのではないかと思った。
ぼやきの「513」で極真空手について感じたところで書いたが、八百長(やおちょう)や互いの手加減がない、選手双方に本気の闘志がある試合は、本気で殴り合うからきわめて短い時間で決着が付く。観ている人々の持続的な関心に耐えうるには競技のルールももう少し整えることを考えなければならないだろう。私のような素人が言うのはよけいなお世話だろうが。
相撲、柔道、ボクシング、プロレスといった旧来型の格闘技がつまらなくなっているということは知っていたが、新式の格闘技がいつの間にか、ここまで流行って隆盛していたことに、迂闊(うかつ)にも私は最近まで気が付かなかった。私のような中年男の素人からみて大変な驚きであった。
私が当夜観た試合の中で、一番興味深かったのは、グレーシー・ファミリーという南米の格闘技一家たちである。明治時代に日系人がブラジルで伝えた柔術が現地で生き残ってできた、柔術系の格闘技である。これをグレーシー柔術という。これと対戦して争った、日本の柔道家出身の吉田秀彦という選手との戦いが一番見応えがあった。
この吉田と、グレーシー家現当主の、ホイス・グレーシーとの戦いがあった。結果的には、判定無しの両者ドローということになったが、吉田はしたたかに打ちのめされた。一族、一門を率いるホイス・グレイシーの気合いというか迫力も凄かった。この人の着ていた柔道着には、襟(えり)のところに、「頭(KASHIRA、かしら)と書かれていた。このホイスがグレーシー一族の現在の首領(しゅりょう、かしら)という意味なのだろう。
しかし、グレーシー柔術にしてみても、それと丁度互角の日本の新種類の格闘技の格闘家たちの平均的な身長は、180センチ台であるようだ。最近の世界基準のプロの格闘家たちが曙(あけぼの)、武蔵丸クラスの、2メートルもあって、体重も220キロくらいあるような奴らとの激突戦ということになる。ドイツ人(ゲルマン系)や北欧系の大柄な体格で、アメリカのプロレス界の格闘家たちが、どうしても強いだろう。アメリカン・フットボール上がりの黒人選手で、ボブ・サップもそうだが、2メートル以上もあり体重が200キログラムもある選手を相手にして、重量別の制限をせずに、まともにぶつからせたら、やはり、「柔よく剛を制す」などどは言っていられないだろう。
日本の戦国時代の合戦も、本陣・旗本直属の最精鋭部隊は、力士(りきし)隊と呼ばれた大男たちの大きな槍(やり)の部隊だった。これが白兵戦になると、横一列の隊形を組んで「エイサ、エイサ」と押してゆくのである。
このように考えてみると日本国内で行われている格闘技の試合は、私たちが少年時代に電気屋の店先に飾ってあったテレビに鈴なりになって見た日本プロレス(力道山と豊登(とよのぼり)とか、ルーテーズとか、ブラッシーとかの出稼ぎ選手たちとの対戦)の水準のままなのであって、本当の世界水準の各闘技選手たちとは太刀打ちできていないというのが真実では無かろうか。
だからと言って、私は、日本の民衆が若い男性層を中心にして静かに盛り上げてきた新格闘技のブームに水を差す気はない。私は、この新格闘技の隆盛をすばらしいことだと思っている。注目に値する新しい国民文化の方向だと遅ればせながらハッと気づいた。この試合観戦体験はテレビを通したものとはいえ、私にとって極めて新鮮なものだった。
私は、これらの新格闘技の一つ一つの技の修練とか筋肉の鍛錬のことなどは何も知らない。ただ、これらの番組を、チャンネルをカチャカチャ変えながら見ていて思ったことがある。それは、人類が今、どこに向かいつつあるのかという問題である。当日、夜の9時からのテレビ朝日(10ch)でやっていた「人類月面着陸(1969年のアポロ計画)の捏造に関するテレビ番組」を見たと言うことも関係する。どうやら人類は宇宙に向かって大きく夢を広げて、広大な開発をつづけていって、そこに無限の可能性がある、とは考えなくなったようである。大宇宙への夢と、宇宙の神秘を解き明かすことへの情熱に、戦後の私たちは魅了されていた。私たちの世代はそのように「大宇宙への夢」を信じ込まされていた。
しかし、今の10代から20代の若者たちの間には、もう、「無限の可能性が広がる宇宙への夢」というものは無いのではないか。アメリカがつい最近、火星までようやく探査ロケットを接近させ無人の探査機を軟着陸させたらしい。しかし、どうも火星の表面から送られて映像の類は不可解な映像である。
この探査機の無事着陸をワッと歓声を上げて騒いだのは、ニューズ映像に写ったNASAの職員達だけになってしまった。世界中の人々は、いぶかしそうな目をしてこの画像を見ている。いまさら、木星や金星や火星の近距離からの画像を見せられて私たちが感動すると言うことも無くなってしまった。画像は嘘つきであり、どのようにでも加工、変造できるのだと私たちはもう知っている。
人類のサイエンス(科学技術、近代学問)が一気に無限に拡大すると言うこともない。こつこつとやるしかないのである。人類の理想や夢が大きく一気に実現するということもあまりない。よくてエネルギーの解放(たとえば、水を分解して、副作用無しで、安全に水素を取り出せるようになるということ)ぐらいだろう。
このことが判った時点で人類がどこに向かっているのか、を考える。すると、私たちはささやかな自分の身の回りの生活、というところに戻って来ているようである。
私たちは、自分の身体や肉体という、カラダというところに戻ってきたようだ。だから、「福祉」という言葉で語られる、健康管理や、障害者や老人を大切にしようという問題、それから、生物化学兵器を含めたバイ菌の蔓延で人類が滅んでしまうのではないかという人類共通の恐怖感といった身近の問題に、人類の関心が戻って来つつあるように見える。今の大学生の中には、自分は福祉の仕事についてそれで食べていくということを、割と当然のことと思い受け入れている人たちが出現している。このこともその現れだろう。
宇宙ロケット開発のような、大規模な活動や巨大建造物の建造や壮大な国家プロジェクトなどよりは、身近な目の前の、当たり前の動きの方に人間が執着するようになってきたのではないか、と思える。それが端的に表れているのが、目下の、たかだか人間同士の殴り合いとか、けり合い、かつかみ合いでしかない新格闘技ブームだろう。これらにの日本の大衆の関心が向かいつつあるというのがよく分かった。
これまでは、ただみんなの前で上手に歌を歌うだけの歌手、ミュージシャンという存在が、国民のアイドルであり、国民的な憧(あこが)れやうらやましさの対象であったのだが、これがどうもウソ臭いということが少しずつ明らかになってきた。作られた共同幻想(きょうどうげんそう)なのである。全ての共同幻想を解体することが、私たち人類が向かうべき道なのである。
この「共同幻想(政治や宗教を含めて)を解体することが、人類の向かうべき方向である」という課題については別の機会に論じる。今も存命である優れた日本の思想家・吉本隆明(よしもとりゅうめい)が打ち立てた。この「共同幻想の解体」という重要な課題については、後日、正面から論じたい。
格闘技系のスポーツは、本気で自分の身体を全てつかって相手と全力でぶつかり合うという気持ちよさがある。人間の裸体というのは、映像で無理矢理、理想化しない限り、それほど立派なものではない。本当の人間の生身の体、というのは、自分で自分の体の各部を触ってみれば分かることだが、そんなに立派で華やかなもではない。この生身の人間の肉体を、新格闘技の試合は、まざまざと見せてつけてくれる。リングの上で取っ組み合って羽交い締めになって、二人の人間が、のたうち回って、苦しさに顔をゆがめている姿というのはきれい事でも何でもない。私は、だから新格闘技に熱中する今の青少年の気持ちが分かった。
これは、フランシス・フクヤマの言った、The Last Man(最後の人間、末人)という概念に近いものである。彼ら「最後の人間」たちは、国家とか、社会のいろいろな公共問題や、大正義といった類のものには全く関心を抱かず、ただひたすら自分の目の前にある自分の身近な欲望にしか関心を示さず、そういう個人欲望にしか忠実でない。16世紀にヨーロッパで近代社会( modern モダン) というのが成立して、400年間がたって、20世紀に入ると出現したのが、このザ・ラスト・マン という新しい人間像である。これをマルティン・ハイデガーが、大著『存在と時間』の中で初めて提起したのだ。
アメリカに敗戦後、洗脳され、飼育され、テクノロジーと大衆消費文化だけを異常に発達させた日本の日本人たちこそは、この最後の人々だ、と暗に、フランシス・フクヤマが書いていた。
もともとは、ファミコンなどのコンピュータ・ゲームやアニメにしか関心を持たないような、ナード( nerd 、オタク)と呼ばれた少年たちがこの「末人」の特徴をよく備えているのだが、陰湿さも持っていて、密やかな内面の衝動を持っているこのオタク系の人間達も、これらの新格闘技を愛好しているだろう。
これが今の人類が向かいつつある大きな方向であり特徴なのだろう、と私は思った。
だから大晦日に思いがけず新格闘技の試合の中継番組を、たまたま家庭用のテレビを2台並べて見ることで、まとめていくつも観ることが出来て非常に楽しかった。
副島隆彦拝
2004/01/07(Wed) No.01
http://www.soejima.to/boyaki/diary.cgi
わたしは格闘技が大好きなので、大晦日の番組は家のテレビとビデオを駆使して、格闘技3番組と、『たけしの世界はこうして騙された!?』をすべて録画して正月にゆっくりと見ました。
やっぱりPRIDEが一番だったな。