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今朝のテレビでも、「ご遺体」という言葉が使われていました。
しかも、それがそれほど不自然に感じられないくらいに、
すでに日本の社会には、ある種の空気が醸成され始めています。
これは単なる言葉遣いの問題ではなく、空気の問題です。
無自覚のうち、少しずつ「危険領域」に入りだしているような気がします。
「日刊デンダイ」Dailymail Businessは、こんなふうに書いています。
アナウンサーは「2人」を「お2人」、「遺体」を「ご遺体」と
まるで皇室報道のように報じる始末だ。
NHKにいたっては、遺体が到着した成田空港から生中継をする力の入れようである。
当然、葬式も別格扱いで、川口外相が葬儀委員長を務め、
青山斎場で外務省と遺族の合同葬を“国葬並み”に執り行うことになっている。
「それでも新聞には『イラクで亡くなった他国の兵士に比べて弔意が足りない』
との声が紹介され、
『国葬にしろ』という意見まで取り上げられています。まさに英雄扱いです」(事情通)
http://www.creative.co.jp/top/main.cgi?m=190
今回の外交官殺害事件の報道を観ながら、
1998年7月20日、タジキスタンで殺された秋野豊さんのことを思い出しました。
http://www.creative.co.jp/top/main.cgi?m=70
秋野さんは、スラブ・ユーラシアを専門領域とする国際政治学者で、
外務省に懇願され、ペレストロイカ前夜のモスクワに赴任して以来、
危険を省みず、単独で旧ソ連周辺地域を歩き回っていました。
たえず危険な地帯に身をさらしながらも、気軽に住民の家に立ち寄っては、
「不自由はないか」と聞いて回り、柔道で身につけた骨接ぎやマッサージ術を用い、
老人の腰痛や子どもの骨折を治療してあげていたといいます。
その秋野さんが殺されたとき、確かに日本はそれを重く受け止めました。
しかし、同じ死でも、あのときと今では明らかに「空気」が違います。
二人は英雄視、英霊視され、すでに「神格化」が始まっているような気がします。
「空気の研究」には、こんな一文があります。
天皇制とは、まさに典型的な「空気支配」の体制である。
破局的な危機は、全民族的支配的空気が崩れて他の空気に変わることなく、
これが純粋な人間に保持されて、
半永久的に固定化し、永続的に制度化したときに起るはずである。
それはファシズムよりもきびしい「全体空気拘束主義」のはずである。
「空気の研究」は、30年近くも前に書かれた本ですが、
いま読むと、非常にヴィヴィッドなリアリティが感じられます。
ちなみに、もしもいま、外交官の二人の欠点など指摘しようものなら、
不謹慎とののしられたり、「不敬罪」的な白い目で見られるのではないでしょうか。
そこには明らかに、ある種の空気が厳然と存在し、君臨しています。
だからこそ、そこから「自粛」が始まり、言論の自由が奪われます。
こうして「空気」は、「空気に抗う者」を、徹底的に排除してしまうのです。
「空気の醸成」には、マスメディアが強力な役割を発揮します。
いまの報道を見ていると、ぼくには、「おっ、きたな」と思うと同時に、
戦前と今との決定的な違いは、情報環境の違いにあるだけに、
このようにネットで「空気支配」に「風穴」が開けられる幸いを噛み締めています。
http://www.creative.co.jp/top/main.cgi?m=196