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(回答先: 満州事変 [毎日中学生新聞] 投稿者 なるほど 日時 2003 年 12 月 09 日 09:36:23)
太平洋戦争からアジア太平洋戦争へ
みなさんは、1945年8月15日に日本の敗戦で終わった戦争をなんとよんでいますか。「太平洋戦争」という人が多いのではないでしょうか。この名称(めいしょう)は、戦後GHQ(連合国軍総司令(しれい)部)が使ったもので、もともと日本は「大東亜(だいとうあ)戦争」とよんでいました。これは、欧米(おうべい)の列強に植民地として支配されているアジアを日本が解放し、ともに栄える「大東亜共栄圏(けん)」を作るための戦いであるという意味が込(こ)められています。今でも、日本の目的は正しかったし、日本のおかげで東南アジア諸国は独立できたのだと言う人もいます。実態はどうだったのでしょうか。
日本語を学ぶ生徒たち=教育出版「中学社会 歴史より」
太平洋戦争という場合、始まりは41年12月8日の真珠湾(しんじゅわん)攻撃(こうげき)と思っているかもしれませんが、実はその直前にマレー半島への上陸作戦が実施(じっし)されていたのです。アメリカとの戦争という側面ばかりが強調されがちですが、東南アジアへの侵略(しんりゃく)を見落としてはなりません。
最近、アメリカによる石油禁輸政策などに追いつめられた日本がやむなく起こしたのが「大東亜戦争」だったのだと主張する人が多くなってきました。直前だけを見るとそう見えるのですが、物事には原因があります。少しさかのぼってみると、04年の日露(にちろ)戦争後から満州(まんしゅう)の支配をめぐって、日米の対立の芽はありました。植民地を持つ一等国の仲間入りをした日本は、さらに中国へ侵略の手を伸(の)ばし、31年の満州事変以来、中国との戦いを続けていきました。当時、東南アジアは欧米列強の植民地で、日本の強大化をきらった欧米諸国は中国の蒋介石(チャンチエシー)を援助(えんじょ)して日本を中国大陸から追い出そうとします。それに反発した日本は、37年日中戦争を開始して、中国との泥沼(どろぬま)の戦争にはまっていきました。アメリカは、日本の侵略を抑(おさ)えるために石油などの禁輸措置(そち)をとり、領土を満州事変以前の状態に戻(もど)すことを要求します。日本も一方で日米交渉(こうしょう)を続けて戦争回避(かいひ)の道を探しながらも、アメリカとの戦争に向けて準備を始めます。そのために、東南アジアに進出して、戦争のために必要な資源を確保しようとしたのです。しかし、欧米の植民地だった東南アジアに進出することは、すなわち欧米との戦争を意味します。こうして見てくると、あの戦争を始める原因は、日本のアジアへの侵略政策だったのだと思います。
では、日本のおかげでアジアは解放されたのでしょうか。たしかに、日本軍が欧米の支配者を追い払(はら)って占領(せんりょう)してからしばらくの間は、日本軍は解放者として歓迎(かんげい)されていました。しかし、じきに日本が新しい支配者であることがわかって、ベトナム、フィリピン、ビルマなどあちこちで抵抗(ていこう)運動が起き始めました。
日本軍は、食糧(しょくりょう)や資源、さらには労働力をすべて現地で奪(うば)って調達したため、現地の人たちとの間でトラブルが絶えず、占領に反対する住民などを殺害する事件も相次ぎました。とくに、シンガポールなどでの、敵国であった中国人に対する虐殺(ぎゃくさつ)は大規模で、それらの「加害」を忘れるわけにはいきません。
戦争中に、ビルマとフィリピンを独立させたといいますが、この2国はすでに自治を認められていましたし、もし本当に日本がアジアの解放者になるつもりであったなら、まず日本が植民地にしていた台湾(たいわん)と朝鮮(ちょうせん)を解放すべきでしょう。やはり、日本の東南アジア進出の目的は、石油などの資源を確保し、中国との戦争を継続(けいぞく)することだったと考えられます。日本の敗戦が、朝鮮で「光復節」、つまり、光=希望が戻(もど)った日とよばれるように、日本の支配の終わりが歓迎されたことからも、そのことがわかります。
そう考えてくると、あの戦争の名称も、「大東亜戦争」という、日本が自己を正当化しようと戦時中使っていたものはもちろん、アメリカとの関係を重視する「太平洋戦争」よりも、中国などアジアへの侵略戦争である側面に目を向けた「アジア太平洋戦争」という名称がふさわしいのではないでしょうか。
言葉は、その背後にある思想を表します。戦争で日本が受けた被害(ひがい)だけを強調するのではなく、加害の面もきちんと認識(にんしき)することが、これからの時代、アジアの一員として私たち日本人が暮らしていく上で必要なのではないでしょうか。
≪クローズアップ≫ 「産めよ殖やせよ」「ぜいたくは敵だ!」
大東亜共栄圏(けん)を栄えさせるためには、まずそれを指導する「優秀(ゆうしゅう)な」日本人を増やす必要があると考えた日本政府は人口増加政策をとります。「産めよ、殖(ふ)やせよ」のかけ声の下、平均5人の子供を産むことが目標とされました。生まれた子供は、立派な皇国民、つまり天皇の治める国の国民となるよう育てられました。兵士として戦場で死ぬことも名誉(めいよ)とされ、悲しむことは許されませんでした。
1937年、日中戦争が始まるとじきに、国民精神総動員運動が生活のすみずみまで戦争協力を進めるようになりました。白米を食べることも禁止、パーマネントも禁止、40年には指輪などのぜいたく品も禁止になり、マニキュアや口紅(くちべに)、ハイヒールも禁止されました。戦況(せんきょう)が厳(きび)しくなった43年には、「ほしがりません勝つまでは」のスローガンの下、生活必需(ひつじゅ)品も不足する中、学生までも兵士として出征(しゅっせい)し、女子挺身(ていしん)隊や生徒の軍需工場勤務も行われました。食糧(しょくりょう)や衣料も配給制になり、ガソリンがなくて木炭を燃やす自動車が走るまでに追いつめられた日本が負けるのは時間の問題だったのに、敵の上陸に備えて竹やり訓練を続けていたのです。
【プロフィル】<前澤桃子(まえざわ・ももこ)>
明治大学文学部卒業。現在は東京・私立鴎友(おうゆう)学園女子中・高校教諭。著書に「図解雑学日本の歴史」(ナツメ社)がある。
http://www.mainichi.co.jp/edu/maichu/momoko/2002/0810.html
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日本とアジア
http://www.asyura.com/2002/dispute2/msg/987.html